2021/10/03

浄土真宗と穢多

浄土真宗と穢多


この『部落学序説』では、「穢多」(穢多・茶筅・宮番の上位概念としての穢多)は、近世幕藩体制下の司法・警察であ る「非常民」として認識してきました。

その前提に立って、「穢多」と「宗教」の関係を考えるとき、少なくとも、原田伴彦著《日本宗教と部落差別》で紹介されているような解釈は歴史的な事実ではないと思われます。

原田によると、浄土真宗と「穢多」が結びついたのは、徳川幕府の政策に基づくといいます。原田の言葉には、「浄土真宗は、近世の被差別民を押しつけられた気の毒な宗教である・・・」というニュアンスがあります。

原田がなぜそのように思うのか、原田自身が説明します。

「江戸時代において、真宗は部落と接触し、部落の人々に布教の手をさしのべた唯一の教団であった」ことは、原田にとって「確かな事実」と思われたからです。

原田は、近世幕藩体制下の「穢多」と宗教を論じる際に、明治後半期以降の「部落民」と宗教の関係をアナクロニズム的に投影して、解釈しているのです。「穢多」を「部落民」と表現しているところからみても分かります。

「部落民」に対する差別においては、原田がいう「なかなか外からは見えない差別」があったかも知れません。原田は、「見えない差別」についてこのように説明します。

「世間では子供が生まれれば祝福し、人びとが死ぬと悼み悲しむ。ところが部落では反対なのだ。極端にいえば部落では、生は祝福されず、死はやすらぎなのだ。・・・この差別は部落の外からは分からないし、また外からは見えないのである」。

原田がなぜそのような発想をするのか、私には理解できません。

どのような社会層・社会階級に属していても、新しく生まれてきたこどもは、その家族にとって、大きな喜びではないのでしょうか。その子の父親と母親にとって、新しい命の誕生は、神秘的で、それこそ神からの祝福以外の何ものでもないのではないでしょうか。

原田は、「私が長野県で知ったことでだが(これは長野県だけではない。全国的にいえることだ)部落では婦人が妊娠するとすなおに心から喜べないものがある。子供を生むまで、この子を生むべきか生むべからざるかと思い悩んで、非常に苦しむ。生まれてきた児に、また自分と同じような差別の苦しみを味わせたくないと思うからだ。」といいます。

原田のいう、「この子を生むべきか生むべからざるか」という悩みは、「堕胎すべきかせざるべきか」という考え方を前提しています。浄土真宗門徒が、果たして、原田が言うような悩みに陥ることがあったのでしょうか。

『宗教社会史の構想真宗門徒の信仰と生活』の著者・有元正雄は、19世紀初め、仏教嫌いで浄土真宗を厳しく攻撃した『世事見聞禄』の一節を引用しています。

「さて或る人のいわく、国々に子を間引くという事有て人少になれり。しかるに一向宗流布の国々は一体人々の信心よく整い、左様なる残忍なる人情はなし。かえって人多くになり、其土地に溢れもの困窮におよぶほどの事なきよし」。

堕胎の習慣がない以上、「この子を生むべきか生むべからざるか」という悩みも存在しなかったと思われます。

有元は、「凶作飢饉を予想しその被害を少なくするため、人口調節が行われていた」と指摘しますが、それは、「穢多」たちではなくて、一般の百姓たちでありました。「この子を生むべきか生むべからざるか」悩み苦しみ迷ったあげく「自分の子を殺害」していたのは、「穢多」ではなく「百姓」であったのです。

有元は、史料をもとに、山陰地方は、「生児圧殺」の慣習を持つところが多いのに、石見国にあっては「其(真宗)教義の生来脳裏に深染するもの多きをもって」間引きの「悪弊を免れ」ているといいます。

有元によると、真宗門徒は、虫の命を奪うことも忌避したようで、安芸・石見・防長・肥後などの真宗門徒が多い地域では「養蚕」業が発展しなかったといいます。「虫一匹殺したことがない」と言われるのは浄土真宗の門徒のことなのでしょうか・・・。

原田伴彦の《日本宗教と部落差別》で紹介されていることは、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に色濃く汚染されているが故の妄言であるといえます。「みじめで、あわれで、気の毒な」ことがらを、武士や百姓からとりあげて、それを穢多・非人に転化する発想に由来するもので、歴史の事実ではないと思われます。

また原田は上記論文の中で、このようにいいます。「部落に真宗の寺院の多いのは、江戸幕府が部落と結びつける政策をとったことによろう」。

原田によると、浄土真宗が「穢多」を門徒として抱え込んだのは、浄土真宗側の意志ではなく、江戸幕府の政策に基づく強制による・・・というのでしょうか。この点においても、筆者は多くの問題を感じます。

幕府から指示される前に、浄土真宗は、「穢多」の前身を抱え込んでいたと思われます。それは、浄土真宗内部の自治警察機能の存在です。浄土真宗を捨て多宗教へ流れるものに対しては、厳しい措置をとったものと思われます。特に、切支丹に対しては、徳川幕府のそれと、勝るとも劣らぬ形で、「邪宗門」として対峙してきたと思われます。

「邪宗門」に対する抑圧・排除のシステムこそ、浄土真宗が徳川幕府から信任され、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の役を任せられた理由ではないかと思います。

つまり、浄土真宗にとって、「穢多」は、自らの存続のために必要不可欠な重要な機関であったことです。その機関の故に、浄土真宗は、江戸時代300年間に渡ってその存続を許されたのです。

原田は、「江戸時代において、真宗は部落と接触し、部落の人々に布教の手をさしのべた唯一の教団であったことは確かな事実であった。」と断定します。真宗は、「穢多」を、誰も相手にしなかった「みじめで、あわれで、気の毒な」存在として、布教の対象にしたといいます。「社会の底辺の下層民衆に救いの手をさしのべた伝統によるもの」であるといいますが、原田の脳裏では、こと宗教に限っていえば、近世と近代が著しく混同して、近世の穢多についても、近代の穢多についても、歴史の事実を見失ってしまっているとしか言いようがありません。

原田は、その論文の最後で、このようにいいます。

「私はここで教団や僧侶の人びとを責めているのではない。私にはそれを責める資格はない。私は一介の歴史学徒にすぎない。ただ過去の仏教教団と部落のかかわりについての歴史的事実の一部を、客観的事実としてのべ、またこれまで諸教団がもってきた部落に対する姿勢が、今日に至ってもまだ本格的に変わっていないのではないかと思う・・・。」

原田の、この論文に記されていることは、原田がいうような「歴史的事実の一部を、客観的事実としてのべ」たものではなくて、日本歴史学の差別思想である「賤民史観」が作りだした妄想以外の何ものでもないのです。

「研究者」は、有元正雄の『宗教社会史の構想真宗門徒の信仰と生活』は、まだ、学会では評価されていない。しかし、原田伴彦の論文《日本宗教と部落差別》は一般的に評価されている論文である。有元の論文を根拠に原田の論文を否定することはよろしくないといいます。

学歴も資格もない、ただの無学な宗教者でしかない私には、「研究者」の発想は理解できません。

私にとって、大切なのは、部落研究・部落問題研究・部落史研究における学会において、どのような評価を受けているかではなく、それらの論文が、何を語っているのか、それを「部落学」的評価をした上で、歴史の事実にあっているのは、有元の方であると発言しているのです。

中山英一は『被差別部落の暮らしから』の中で一茶の句を引用してこのように解釈しています。

穢多町に見おとされたる幟哉

「「幟」は初夏の季語で、端午の節句にあげる「のぼり」のことである。町内の被差別部落で節句を祝う幟が白くはためている。「えた」町の幟の方が立派で、隣接の町の幟が貧弱で「えた」町から見おとされている。「えた」町の人々の力強い心意気が彷彿と感じられる。」

それほど人のいのちをいと惜しむ「穢多」たちが、近世幕藩体制下の司法・警察の「役務」・「職務」を遂行するにあたって、ときとして、刑吏の仕事に携わることを要求されます。穢多にとって、直接、憎しみを持っていない犯罪者を、代官所の命令に従って処刑しなければなりません。

中間や足軽は、死刑執行人の仕事を要求されたあとは、逃亡して行方不明になるものが相当数いたといわれます。

しかし、近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多・非人」の中には、そのような人はいなかったと思われます。徳山藩の処刑の記録を見ても分かるのですが、ひとりの犯罪者の処刑に複数の穢多が関与しています。死刑執行人のうち、実際に処刑したのは誰であったのか、それを隠蔽するためです。

たとえ犯罪者であるといっても、人ひとりを殺すことになるわけですから、死刑執行人に任命された人自身も心に深い傷を負うことになります。東日本では、白山信仰があって、その傷を癒してもらうことができました。

西日本では、白山信仰はほとんど存在しません。その代わりを担ったのが、浄土真宗の教説ではなかったかと思われます。

浄土真宗は、すべての殺生を禁止したわけではありませんでした。穢多の「役務」・「家職」にともなう殺生は、忌避の外にありました。有元は、越中国に、「稼職に非ざる殺生を致し申す間敷事」という「念仏行者心得か条」があったことを紹介しています。浄土真宗は、死刑執行に携わるものの救済を用意していたのです。「本願寺法王は、「如来の御代官」として救済の授与(浄土往生の保証)権を行使する」ことができたのです。

浄土真宗は、死刑執行人に対して浄土往生を保証しただけでなく、「穢多」の、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての生き方全般についても、多くの精神的な支えを提供していたのです。

『真宗の宗教社会史』(有元正雄著)の中に、「掟こゝろえ歌」が紹介されています。

地頭領主の恩を知り
家業大事と働きて
無益の奢り嗜みて
年貢所当を具にし
只仮初の遊にも
不実なものに交りて
勝負毎をば致すなよ
大取するより小取せよ
稼ぐに追つく貧乏なし
只師と親を敬いて
先祖の恩を思知り
夫婦兄弟睦じく
有縁無縁の人々に
詞をかけて愛すべし
一季半季の下僕まで
不便をかけて使べし
ものの命を取らぬよう
私欲に耽り嘘云て
人の眼を掠むるな
天知る地知る我知ぞ
邪な不義働きて
人の嘲り受けぬよう
酒を飲とも飲まるるな
身に徳もなく美服して
栄養を好み食物の
不足を語る其ものを
国賊とこそ申すなれ
只世の中は上を見ず
笠きてくらせ我こころ
吝嗇ならぬ倹約し
堪忍すればこと足ぬ
足に任せてこと足ず
足でことたる身は安し
信の上より身を軽く
仏の恩を重くして
箸より落る雫まで
押頂いて飲たまへ
返返も親に孝
主に忠義を尽すべし

浄土真宗の一般門徒だけでなく、近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多」たちも、「其(真宗)教義の生来脳裏に深染するもの多き」が故に、江戸時代300年間、「非常民」としての役務を全うできたのではないかと思われます。東日本の「穢多」にとって、白山信仰が、その役務の傷を癒す宗教的装置であったのと同じく、西日本の「穢多」にとっては、浄土真宗の世俗化倫理とその教説が同じ機能を持っていたものと思われます。

しかし、「穢多」と「宗教」について論じるとき、「宗教」を浄土真宗に限定することはできません。もうひとつ、「穢多」にとってかかすことができない宗教がありました。その宗教の故に、幕府は、全国津々浦々に「穢多」を配置しました。「穢多」の大きな職務のひとつに、「宗教警察」がありました。幕府が禁教した「邪宗門」、特に切支丹の取締りでした。この切支丹という宗教の取締りという役務が、のちに、明治4年の「穢多」身分廃止の太政官布告につながっていくのです。

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