2021/10/03

穢多と維新前夜 近世幕藩体制下の「穢多」

穢多と維新前夜 近世幕藩体制下の「穢多」


日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に汚染されていない、近世幕藩体制下の「穢多」について、ここでまとめてみましょう。

●「穢多」とは誰か

近世幕藩体制下の「穢多」は、司法・警察に携わる「非常民」のひとつです。司法・警察に携わる「非常民」には、「武士」側の「与力・同心・目明し・穢多・非人」と、「百姓」側の村方役人がいましたが、「穢多」は、司法・警察に携わる「非常民」の中でも、尤も中核的存在でした。近世幕藩体制下の警察本体であるといっても過言ではないでしょう。
「賤民史観」は、全国の「穢多」が、司法・警察機構に組み込まれた存在であることを十分認識しつつ、できる限り、それを否定しようとします。そして、「穢多」を、近世幕藩体制下の「下級」警察、あるいは警察の「手下」として認識します。

●「身分」とは何か

近世幕藩体制下の「身分」は、「役務」と「家職」から構成されています。「藩主」から、「家職」を与えられているときにのみ、「役務」に従事する必要があります。「穢多」身分に対しても、様々な「家職」が与えられました。その「家職」が「家職」として「藩主」によって認証されているときにのみ、「役務」に従事する義務がありました。
「賤民史観」は、「穢多」身分について言及するとき、「役務」と「家職」を混同する傾向があります。最たる例は、「穢多」身分を論じるときに、「家職」のひとつである「皮革」業のみを強調する傾向にあります。そのような説は、近代における「屠殺業」の伏線となります。

●「穢多」の「役務」とは何か

近世幕藩体制下の「穢多」は、司法・警察に携わる「非常民」として、幕府や藩から出された「法度」に基づいて、法度に違反する犯罪者の探索・捕亡・糾弾と、有罪が確定した場合の犯罪者に対する刑の執行等に従事していましたが、その対象は、「百姓」だけでなく「武士」にまで及びました。「穢多」は、その職務を遂行するために必要な「武道」も身につけなければなりませんでした。場合によっては、帯刀して職務遂行にあたりました。
「賤民史観」は、「穢多」と「百姓」を同列において、相互に牽制しあう存在として把握します。いわゆる「分裂支配」説です。幕藩体制下の権力は、「百姓」の権力自身に対する批判をかわすため、「穢多」という被差別身分を設置したと考えます。

●「穢多」と「武士」

「非常民」は、軍事に携わる「非常民」と、司法・警察に携わる「非常民」にわけられます。軍事に携わる「非常民」は、「武士」階級によって構成されますが、「藩士」階級の他に、中間・足軽等の「士雇」階級も含まれていました。軍事に携わる「非常民」の主要な職務は、「城を屠す」(敵軍の虐殺)ことですが、司法・警察に携わる「非常民」は、「法度」を犯した犯罪者を、生きたまま捕亡し、裁判にかけることを主な内容にしていました。判決如何によっては、犯罪者を処刑することもありました(人を屠す)。軍事に携わる「非常民」と、司法・警察に携わる「非常民」との間には、「百姓」の生命の重さについての認識に大きな差がありました。
「賤民史観」は、「士・農・工・商・穢多・非人」という身分制度の図式に基づいて、「武士」と「穢多」(穢多・非人)の類似性を否定する傾向があります。「賤民史観」では、「穢多」は、「武士」の系列ではなく、「百姓」以下の、被差別民として認識する傾向があります。

●「穢多」と「百姓」

司法・警察である「穢多」は、多くの場合は、取り締まる側に立っています。「穢多」にとって「百姓」は取締りの対象になります。「穢多」と「百姓」との関係は、現在の「警察官」と「住民」との関係に酷似しています。犯罪の捜査に公正を期するためには、「警察官」は、「住民」との馴れ合いを厳しくとがめられます。「警察官」が「住民」と飲食を共にすることで、賂等による不正を未然に防止するためです。同様の理由で、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」も、「百姓」・「町人」宅に気ままに出入りして、あらぬ疑いを招くことを禁止されていました。
「賤民史観」は、「穢多」と「百姓」とのそのような関係を「差別」として認識します。

●「穢多」と「制服」

司法・警察である「非常民」としての「穢多」は、それに相応しい服装を要求されました。今日の警察官の制服と同様、責任と規律をイメージすることができる青・紺系統の制服をみにまとうことを要求されました。真夜中、押込強盗等犯人逮捕に際して、夜の月明かりでも識別できるように、「同心・目明し・穢多・非人」の髪型も規制されていました。「密偵」の仕事に従事するときには、「穢多」は様々な服装をしました。
「賤民史観」は、特定の色を差別的な色として認識します。その結果、「渋染」についても、差別的な色として認識し、「渋染一揆」の本質(「穢多」の職務改善要求)を誤解してしまいます。

●無役の「穢多」

司法・警察である「穢多」は、藩の指示に従って、様々な役務に従事しました。しかし、「穢多村」に住むすべての人が「役」をもらったわけではありません。殺人を犯した浪人逮捕に向かうのは、逮捕術を身につけた、武術の心得のある穢多のみです。近世幕藩体制下の身分は「世襲制」を建前にしていますので、中には、捕亡・糾弾に向いていない人もでてきます。その場合は、探索の役に従事したり、家職の様々な職に従事して、「穢多」村全体を支えたと思われます。
「賤民史観」は、「穢多」は、一律に、人の嫌がる仕事を押しつけられたと解釈します。

●「穢多」と「春駒」

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、「百姓」・「町人」の生活ぶりの調査もしていました。正月にはすべての人が祝いの席を設けて楽しみますが、どのように正月を迎えているのか、「春駒」をしながら情報収集します。「穢多」は、年に数回、決められた日数だけ、その仕事につくのであって、「芸能」を職業としている人々のように年中「芸能」に携わっているわけではありません。長州藩では、飢饉のあった次の年の正月、百姓たちの飢えていく悲惨な姿を見て、自分の食べ物を譲って「穢多」みずから餓死していった・・・そんな悲しい話があったことを想定させる史料もあります。
賤民史観は、「穢多」は、生活苦から芸能の仕事に従事したと解釈します。

●「穢多」と「在所」

「穢多」の「在所」は、自然発生的に生じたものではなく、藩が、その司法・警察に関する施策の方針に従って、意図的に配置されたものです。街道警備が主な任務の場合、「穢多」の「在所」は、街道から見えないところに設定されました。しかし、「番所」・「関所」・「牢屋」に勤める場合は、それらがある場所へ通勤しなければなりませんでした。近世幕藩体制下で、藩政の都合上新たに作られた「穢多」の「在所」と「勤務地」は少なくありません。
「賤民史観」は、「穢多」の「在所」が、町や村の境界に置かれていることから、「穢多」は住むところを制限され、町や村の周辺部に差別的に追いやられたと解釈します。極端な例では、「穢多」の「在所」は、すべて、環境が悪く住みにくい場所として認識します。

●「穢多」の勤務範囲

「穢多」の勤務範囲は、それぞれに割り当てられた職務の内容によって異なります。「藩内捕亡役」の場合、藩全体が「穢多」の行動範囲となります。「郡内捕亡役」は、代官所管轄地が「穢多」の行動範囲となります。また、「村内捕亡役」の場合、担当にされた「村」の中だけが行動範囲となります。「穢多」は、自分に課せられた範囲(「芝」という)を越えて、その職務を遂行することはできませんでした。逆に、藩の許可さえあれば、藩を越えて、全国を探索することができました。
「賤民史観」は、「穢多」は、一定の地域に強制的に居住させられ、移動の自由がなかったと解釈します。「垣の内」・「土居の内」等の劣悪な環境にとじこめられていたと解釈します。

●「穢多」と「通婚圏」

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、結婚に際して、藩全体の「穢多村」の「穢多」と結婚することができました。場合によっては、地理的にかなり離れた藩の「穢多」と結婚する場合もありました。また、「穢多」と「武士」・「百姓」との間の結婚も認められる場合がありました。
「賤民史観」では、「穢多」は、狭い範囲の人々としか結婚できず、近親結婚が多かったと主張します(史料・伝承とは異なります。)。

●「穢多」の基本業務

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の2大取締り対象は、「キリシタン」と「浪人」です。「穢多」は、幕府の寺社奉行支配下の警察組織として、いつでもより上位の警察権力に服従することを要求されました。「穢多」は、「宗教警察」・「公安警察」でもありました。多くの場合、2人1組になってその職務にあたりました。この場合、「穢多」は支配者側で、「キリシタン」・「浪人」は被支配者側になります。特に、「キリシタン」は、近世幕藩体制下の「社会外社会」・「身分外身分」・「人間にあらず」として取り扱われました。
「賤民史観」は、キリシタン弾圧については極力言及を避けます。そして、「穢多」について言及する際、キリシタンの属性である「社会外社会」・「身分外身分」等の表現を用いて説明します。

●「穢多」と「教養」

「穢多」は、藩からの命令に対して、藩が用意した「請書」に同意してサインをしなければなりませんでした。当然、藩の命令書が読めるということであり、またその返事を書くことができたということを意味します。
「賤民史観」は、被差別の状況にあった「穢多」は、読み書きができなかったと認識します。

●「穢多」と「糾弾」・「拷問」

「糾弾」という言葉は、近世・中世・近代初期を通じて、司法・警察である「非常民」の捜査形態でした。中世・近世・近代初期を通じて、犯罪者の「糾弾」には、自白が必要でした。犯罪を立証するには、証拠と犯人の自白が必要でした。証拠があっても、自白がない場合は、有罪が成立しませんでした。十分な証拠があるのに、自白しない場合、自白を促す目的で、「拷問」が用いられました。
「賤民史観」は、「糾弾」・「拷問」にめを閉ざす傾向があります。

●「穢多」と「死刑」

「近世幕藩体制下」で、死刑を決定することができるのは、当時の奉行等の藩士のみであって、「穢多」には、その権利はありませんでした。「穢多」は、命令のまま、死刑に関することがありました。しかし、その件数は、全体としては極めて少なく、ほとんどの「穢多」は、死刑執行人の経験を経ることなく生涯を終えたと思われます。
「賤民史観」は、「穢多」はすべて「死刑」に関与したかのように吹聴します。

●「穢多」と「医者」

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、捜査段階において、死因の確認をする必要がありました。死因の確認をする「穢多」は、「穢多医」と呼ばれていたと思われます。また、入牢中に、病気になったり、急死したりする場合がありますが、その場合は、藩の指定した「牢番医」が死因の確認を行いました。
「賤民史観」は、「穢多」の役務と「穢多医」の関係を無視します。

●「穢多」と「遊女」

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、司法・警察として相応しい振舞いが求められました。「穢多」は「遊女」を監視する立場で、「遊女」は「穢多」によって監視される立場でした。
「賤民史観」は、「穢多」と「遊女」を同じ「賎民」として同格に扱います。

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この、日本の歴史学に内在する「差別思想」である「賤民史観」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」のほんとうの姿を隠してしまいます。そして、「みじめで、あわれで、気の毒な」人々の姿を「穢多」に投影して、まったく別な姿に解釈してしまいます。この『部落学序説』は、「賤民史観」批判の書でもあります。近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」が、なぜ、明治政府によって退けられ、「棄民」扱いされ、社会の最下層の民に貶められていったのか、「賤民史観」がどのように形成されていったのか、学歴も資格も持ち合わせていない筆者にとっては、無力さを感じざるを得ない課題ですが、解明の努力を続けていきたいと思います。

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