2021/10/03

近世の「村」から近代の「部落」へ

近世の「村」から近代の「部落」へ

近世から近代へ、近世幕藩体制から近代天皇制へ、社会と政治が大きく変動していく中で、日本全国津々浦々に存在していた「村」もまた大きくその様相を変えていきます。

その最たるものが、「村境」の廃止でしょう。

ここで、「廃止」という意味は、近世幕藩体制下で実施されていた「村境」の廃止という意味です。近世幕藩体制下の「村境」は、「点」としての「村境」と、「線」としての「村境」がありました。近世幕藩体制下を通じて、「点」としての「村境」も「線」としての「村境」も共存していましたが、幕末に近付くにつれて、「点」としての「村境」が強化されます。

村落共同体としての「村」は、「家が群がってできたもの」(『民俗探訪事典』)なので、最初から、空間的・地域的ひろがりをもったものです。通常、その「村」には、一本以上の「道」が走っています。その「道」が、その「村」の空間的・地域的ひろがりの先端と接するとき、それが「村」の入口・出口になります。

その入口は、旅の役人・商人・巡礼者が「村」に入ってくる場所であり、その出口は、彼等が再び旅を続けるために「村」を出ていく場所です。

近世幕藩体制下の「村人」たちは、日常の世界においては、その「村」の外へと行動を広げることは「穢れ」(法的犯罪)として処罰されました。その「村境」には、藩(代官所)の役人が配置され、「村」と「村」に出入りする村人や旅人を監視していました。もし、なんらかの疑わしき点があれば、村人も旅人も、即刻捉えられ、取調を受けたことでしょう。その手荷物の中に、盗品や禁制品が見つかれば、「拷問」にさらされることも決して少なくなかったでしょう。

その「村人」は、代官所や庄屋から、正式に許可がおりたとき、多くの場合は「ハレ」のときですが、隣村の祭りにでかけるとか、巡礼の旅に出るとかする場合には、その「村境」を「通行手形」(村人の身元を明らかにしたもので、所属する旦那寺が記載されている)を提示して、堂々とその「村境」を越えることができました。

《共同体と豪農》(岩波日本近代思想大系『家と村』)の著者・海野福寿は、近世幕藩体制下においては、「領主は家あるいは個人を人心的に直接支配したのではない」といいます。

日本の全国津々浦々の藩主は、その百姓を「直接支配」していたのではなく、「間接支配」していたというのです。当然と言えば当然ですが、「武士」が百姓を「直接支配」する場合は、たとえ武器を持っているとはいえ、少数の「藩士」・「士雇」・「穢多」だけでは、「百姓」を、江戸時代300年間に渡って支配し続けるということはできなかったでしょう。それができたというのは、近世幕藩体制というものが、百姓を「直接支配」するのではなく、「村」制度を使って、「間接支配」を貫いたためであったと言われます。

海野はこのようにいいます。幕府と諸藩は、「村を単位とする支配を行った。領主は検地によって村の境界を定める(村切り)とともに、農業経営体としての家と土地を分離せず、家の連合体である村を形成している百姓と土地を一体としてとらえ、検地帳によって算出された石高をもとに村ごとに租税を課した・・・」というのです。

近世幕藩体制下の「村境」は、この場合、「点」ではなく「線」であると考えられます。村と村の境界は、検地によって、村全体が把握され、検地から漏れる山野は一片の土地もなかったと思われます。つまり、ある「村」とそれに隣接する他の「村」とは、その間に、所属の不明な中間的な場所の存在を許さず、排他的にいずれかの「村」に帰属させられ、その「村」の課税の対象とされたのです。

長州藩の本藩と、その枝藩である徳山藩との間で、山に生えている木を村の境界を越えて伐採するという事件があり、双方がゆずらなかったため、「徳山藩廃藩」という信じられない結論を迎えてしまいます。

「境界」の侵害問題は、小藩にとっては死活問題になる場合もあるのです。

海野は、近世幕藩体制下の「村」は、2つの機能を持っていたといいます。

「ひとつは共同体としての自治的機能である。林野・用水に全面的に依拠せざるをえない農業経営のための山や水の共同管理、道路・橋梁・水防・消火・用排水路普請などの共同労働。あるいはそれらに必要な村財政の管理。さらには共同体秩序維持のための治安から倫理・道徳にいたる行動規範である村法の設定と村民に対する強制等々。村は家と個人の生産・生活を強く強制し、統合する共同体なのである」。

「もうひとつは行政的・徴税請負人的機能である。領主は個々の家々と農民を直接支配したのではなく、村を支配の単位とした。村を媒介とし、石高を基準として農民を間接支配したのである。村と農民を支配する名主(庄屋)を筆頭とする村方三役(村政執行機関)を領主が支配するという、重層的な支配構造である。租税にしても、領主は個別の家に対して賦課するのではなく、村単位に割付け徴集した(年貢の村普請)。村ではこれを各家の持高に応じた負担配分を行うが、領主に対する責任主体はあくまで村にある。・・・(村方三役は)年貢末進や百姓逃亡の全責任を負うことになる。このため村民の貧窮をまるごと背負うことになった・・・」。

海野によると、近世幕藩体制下の「村方三役」に課せられた、藩の政治の代行機関・・・、というより藩政そのものは、複雑多岐にわたる総合的なものであることがわかります。その職務遂行のため、村方役人には、他の百姓と違って、警察権力が付与されます。

民俗学の祖・柳田国男が「常民」という範疇から「庄屋」等をはずす理由はここにあるのではないかと思われます。「常民」は、「非常」に直接かかわることはないが、「庄屋」等、村方役人は、「治安」の維持によって、村の政治・経済・文化・暮らしを守るため、犯罪の予防と摘発・排除を実施する必要がありました。

近世幕藩体制下の庄屋の「くら」は、「村」の2つの機能を実施するために不可欠の装置でした。不幸にして犯罪者が出た場合、あるいは、「村」の外からやってきた犯罪者が逮捕された場合、庄屋の屋敷の「くら」が取調のための揚屋・牢屋として用いられました。庄屋の屋敷の「くら」の中に座敷牢が設置されていた村も少なくありません。

それともうひとつ、「くら」の重要な機能のひとつとして、藩に納める年貢米の一時的保管や、飢饉を想定した村民救済のための貯蔵米の保管場所として機能がありました。庄屋をはじめとする村方役人の、政治設計と実行力の違いによって、村民の浮き沈みが起こりました。実質の統治者に相応しい能力を持っていない、あるいは、村方役人の権威に溺れた庄屋等は、その村人によって、「打ち壊し」の対象にされました。

村の「境界」の中には、村人の所有する畑の「境界」があります。

その「境界」設定は、実務上は、村方役人によって実施されました。

『日本中世の村落』(岩波文庫)の著者・清水三男は、「法を行う警察力が武士側に吸収されて行った」といいます。「法を行う警察力」としては、現代の特別公務員(警察署・税務署・法務局等に従事する人々)が該当するのではないかと思います。彼等は、いわゆる、その職務に関係した専門的な知識と技術をもった人々です。その習得には、相当数時間がかかります。そのため、政治的変動を越えて、それぞれ支配権を握った権力によって、「旧制温存」という形がとられます。

清水は、「周防国の如くは江戸時代に至るまで・・・郷司・郡司・図師・刀禰など律令農村の村役人が長く後まで遺存した」といいます。

近世幕藩体制下、岩国藩の「村」の「庄屋」の下に「刀禰」役が置かれています。清水は、刀禰は、「図師として、検地に関係する技術者としての面が伴う場合があった」といいます。検地実施に際しては、「測量製図の技術者を必要とするため」「刀禰はその監督指導に当たり、また自らもその知識を有していた」といいます。検地に伴う知識と技術を前提に、刀禰には、「土地売買の保証署判」という「保証行為」を実施する「警察権」が付与されました。

清水は、村方役人の「刀禰」には、「その権力の盛衰には左右されない地位の安定があった」といいます。「村役人の中、刀禰は検地技術並びに警察力を有したために後まで生き長らえる」のです。古代・中世・近世という歴史の区画を乗り越えて、その職務に従事していったと考えられます。

これは筆者の推測ですが、古代・中世・近世へと時代の変節を乗り越えて継承されていった刀禰役は、ただひとり刀禰役だけでなく、「警察力」を持っていた他の社会層についても同じことが言えるのではないかと思います。

そう、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」(筆者は、衛手(えた)という)についても、「警察」という専門知識と技術を要する職務として、「刀禰」役と同じく、「穢多」役も、古代・中世・近世へと、時代の変遷、権力の盛衰を越えて継承されていったのではないかと思います。徳川幕府が江戸を近世幕藩体制下の政治の要所とするとき、関東にはいってきた徳川家康の前に馳せ參じて、関東一円を支配する「警察力」の担い手として承認を求め、幕藩体制下での継承を認められたのが、団弾左衞門です。「法を行う警察力が武士側に吸収されて行った・・・」という清水の説明は部落史を見直すときの重要な指標になります。

嵯峨天皇のときに設置された「令外の制」(制度外制度)に勤務した役人は、「身分外身分」とされましたが、それは、古代律令制度が想定していなかった制度・身分という意味で、制度外制度・社会外社会であるからといって差別・疎外・排除されていたわけではありません。日本の歴史の中に挿入された警察制度は、古代・中世・近世を通じて、時代の波を越えて継承されていきます。

古代・中世・近世を通じて、「警察力」をになった人々に対して、基本的には、支配・被支配の側を問わず、敬意を持って接していたのではないかと思います。

明治政府から、「警察官」(番人)の派遣を要求されたとき、長州藩の藩主は、明治政府のその申し出を断ります。理由は、毛利藩主によると、「番人というものは、その土地の情報を保有しているからこそできるのであって、長州藩の番人を、東京という見ず知らずの場所に派遣したからといって、どうして番人の職務を成功させることができようか・・・」(筆者の言葉)といって、堅く辞退したといいます。長州藩の「番人」の何たるかを熟知していた「藩主」は、明治4年の太政官布告以降、長州藩の番人(同心・目明し・穢多)を、山口県の「警察力」の中にそれを吸収していきます。長州藩に限りません。日本全国、同様のことが生じたのです。

法と職務に忠実な「警察官」(番人)は、一朝一夕には養成できないからです。

『部落学序説』の筆者である私は、明治政府によって実施された、近世幕藩体制下の旧制度に対する暴挙・暴圧とも言える「リストラ」によって、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の多くは、明治4年をもって、突如、その職務を解かれます。明治政府の「半解藩縛」政策は、「非常民」としての「穢多」を社会的に窮地に追いやってしまいます。やがて、それが、現代の部落差別につながる温床になっていきます。しかし、相当数の長州藩の「穢多・非人」が、近代山口県警察に吸収されることによって、かろうじて、古代・中世・近世・近代・現代へと、由緒正しき「警察官」の歴史は継承されているのではないかと思います。

近代の「村」から、「●」(点)としての「村境」が消えてしまったように、「-」(線)としての「村境」も消えてしまいました。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての同心・目明し・穢多と言われた人々は、明治になって、「平民」とされ、「武士」の世界と完全に切り離されてしまいます。そして、幕末から明治初期にかけて、日本と日本にやってくる諸外国の人々を恐怖に陥れた「草莽」の、いわれなき汚名を着せられて、日本の幕末・明治の「罪」を背負わされて、「スケープゴート」(身代わりのための犠牲のひつじ)のように野に放たれます。古代・中世・近世へと受け継がれてきた由緒正しき警察官の明治政府によるリストラによって、「穢多」の多くは、武士身分を追われ、百姓と同じ平民にされたものとして、「新平民」として民衆から侮蔑を受けるようになります。

幕藩体制下の彼らの支配の範囲は「芝」(しば)と呼ばれていました。「穢多」の支配は、藩の定めた「芝」を越えることはできませんでした。その「芝」は、その周辺の「芝」と「線」で接していました。大熊哲雄は『部落史における東西』(解放出版社)の中で、「芝」と「芝」は、「間隙なく他の場との境ができていた」と指摘しています。その著書の中で、図示された「芝」は、閉じられた線分で囲まれた、ひとつ以上の「村」の境界をなぞった「芝」の境界でした。

明治政府による司法・警察に関する旧制度が解体されていくなか、近代の「村」から、「●」(点)としての「村境」も、「-」(線)としての「村境」も消されていってしまうのです。

それは、近世幕藩体制下の藩政によって培われ、藩主の下にある村落共同体・「村」として生き抜いてきた、その「村」を、明治政府は、各藩政から切り離し、明治政府が指向する近代中央集権国家・明治天皇制国家を構成する基礎的単位としての村落共同体として位置づけ、再構成を図るためでした。中央集権を実効たらしめるため、その阻害要因となるとみなされた、「●」(点)としての「村境」も、「-」(線)としての「村境」も、政治・行政の世界からその姿を消すことになるのです。

そして、明治以降、この「●」(点)としての「村境」、「-」(線)としての「村境」は、民俗として、習俗・慣習として、民衆の中に生き続けることになるのです。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の職務遂行の場所としてではなく、民衆の中の「心意的な村境」として、民衆の生活や暮らしを規定していくものになるのです。それだけ、日本全国どこにでもある「村境」、西日本だけでなく、東日本にある「村境」は、民衆の生活や暮らしと深く密着したものであったのです。

明治政府が、諸外国の法律顧問の指導のもと、大日本帝国憲法下で、有機的に機能する地方自治制度模索していた時代に、その根幹となる、近代中央集権国家の支配が貫徹する基礎的な共同体の呼称として、近世幕藩体制下で親しみなじんできた「村」概念(「むら」という自然村)が破棄されて、その代わりに、「部落」という概念が採用されます。

「部落」という概念は、天皇制用語のひとつです。

柳田国男等民俗学者の多くは、「村」(むら)という言葉に置き換えて「部落」という言葉を使用します。「部落」は、民俗学の基本的な研究対象ですが、「部落」という言葉には、「宗教共同体」という意味が内蔵されています。明治政府は、ドイツ人法学者・モッセを通じて、ドイツの地方自治が、宗教共同体としてのゲマインデに基礎をおいているのと同じく、日本の地方自治も宗教共同体としての「部落」に基礎を置こうとします。その際、明治政府が意図している「宗教」とは、「神道」であることはいうまでもありません。

「部落」概念は、明治天皇制下の地方自治において、中央の意志を伝達することができる基本的な村落共同体として、神道という宗教装置を配置して構築されていきます。

柳田国男等の民俗学は、歴史学、社会学・地理学、宗教学の学際的研究としてはじめられましたが、その際の宗教学は、神道中心でした。民俗学は、日本古来の民俗を構築する方法論を持ち合わせてはいません。日本民俗学は、明治天皇制下で構築された、基礎的な概念としての村落共同体を意味する「部落」(神道を中心とする理想社会)がどれだけ、日本の社会の中に浸透していっているか、それを検証し確かめるためにつくられた学問の側面を持っています。そのため、民俗学は、沖縄の伝承や風俗・習慣の中に、日本古来の民俗、神道を中心とした村の「理想形」を抽出して、錯倒した研究成果を公表したりします。

「部落」は、日本古来の「むら」の姿ではなく、近代にはいって、明治政府によって、近代中央集権国家に相応しい村落共同体として作り替えられた、神道中心の「むら」だったのです。

「部落」とは何か、中国起源の漢字をいくらつついてみても、その本質を理解することはできません。「部落」という概念は、明治20年代に、不承不承、ドイツ語のゲマインデの翻訳語として登場してくるのです。「自由」・「社会」・「権利」・「国家」・・・、近代の政治・思想を表現するときに使用する多くの言葉と同じく、「部落」という言葉も、欧米語の翻訳語として登場してくるのです。

近代日本は、古い「むら」を破壊しつつ、明治政府のいう新しい「むら」を構築していったのです。明治30年代にはいると、その「部落」という概念は、普及して、多くの人々によって使用されるようになります。しかし、外交上の問題で、明治政府は、「部落」という概念が、神道共同体を意味するという事実を隠蔽していくことになります。

「部落」という、近代天皇制のイデオロギッシュな概念は、近世の「村」(むら)が天皇制の意図する「村」になっていているかどうかの判断基準ともなります。

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、東日本においては、その宗教は、白山神社に対する白山信仰であったと言われます。明治政府によって、古来の神社が、国家宗教として統廃合されていく中で、長吏とその宗教をめぐってまったく軋轢がなかったということではありませんが、東日本では、「部落」(神道共同体としてのむら)を受け入れるのに、西日本とくらべて、さほど、大きな抵抗はなかったと思われます(筆者のこの問題に関する研究は進んでいません。現時点でいい得ることを言っているに過ぎません。)。

西日本の「穢多」の宗教は、大きくは、「浄土真宗」でした。浄土真宗の熱心な門徒は、一神教のようなものの見方・考え方をしていました。ですから、明治政府が、神道中心の村落共同体としての「部落」概念を押しつけたとき、それにはげしく抵抗しました。山口県の村で、浄土真宗の強い地域では、いまでも、神道儀式を実施しない集落が存在していると言われます。柳田国男等の「神道民俗学」に、「仏教民俗学」を対峙する民俗学者によって明らかにされています。

一般の「部落」が、神道中心の「部落」であるとすると、仏教中心、とりわけ、浄土真宗中心の「部落」は、一般の「部落」から逸脱した「部落」・・・、すなわち、特殊な、例外的な一面をもった「部落」とみなされるようになっていったと推測されます。この筆者の、「特殊部落」という概念についての、まったくあたらしい見方は、まだ証明しきったわけではありませんが、「特殊部落」が東日本からは消え、西日本に重点的に残ったとする通説の背景に、このような事態もあったのではないかと推測されます。

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