2021/10/06

はじめに

 はじめに

この論文は、既存の個別科学研究に拘束されず、歴史学、社会学・地理学、民俗学、宗教学、政治学、法学、行政学等の学際的研究として、永年の試行錯誤の上に達成された、部落差別問題に関する新しい認識を提示します。

民俗学の創始者・柳田国男は、「常識という言葉ほど私を悩ませたものはない」といいます。個別科学研究における常識としての一般説・通説も、常に、研究に携わるものの悩みの種になります。常識を超えて発言するとき、常識はずれであるとの批判を免れません。

部落差別問題の場合も、この常識や通説がひとり歩きして、部落差別の解消実現への大きな足枷となってきました。

戦後の部落史研究のはやい時期に、この常識や通説の見直しがなされていたら、部落差別問題は、その淵源があきらかにされ、部落差別はとっくの昔に解消されていたことでしょう。なにしろ、部落差別解消のために、33年間15兆円という膨大な時間と費用が注がれ、それ以上に多くの人々が動員されたのですから・・・。それにもかかわらず、同和対策事業が終了した今日においても、未だに、部落差別事件が発生し、そのことで悩み苦しむ青少年がいるということは、33年間の同和対策事業及び同和教育事業が瑕疵のある常識や通説を取り除くことができなかったことを意味します。

筆者が提唱する部落学は、日本の社会を部落差別に拘束する常識や通説を取り除くことを目的としています。

部落学は、2、3の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者によって、それぞれの立場から提唱されてきてはいますが、いずれも学として確立されているとはいえません。むしろ、いずれの部落学構築も様々な困難に直面しその壁を突破できないでいるといっても間違いではありません。

この部落学序説は、部落学構築に先立って、部落学構築の前提と可能性を批判的に検証します。これまで、部落研究・部落問題研究・部落史研究によって認定されてきた常識および通説も、あらためて、批判・検証の対象になります。部落差別の根源について、多くの学者・研究者・教育者が、徹底的な批判・検証が必要であることを認識しています。

明治以降積み重ねられてきた部落差別に関する史料や伝承は、皇国史観や唯物史観の背後にある共通の史観・賤民史観から解放されて、正当な解釈がなされることを求めています。

この部落学は、解釈原理として、(1)常民・非常民論、(2)新けがれ論を採用しています。いずれも、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究では、とりあげられたことがない理論です。無学歴・無資格の筆者が創設した理論が、どれだけ人々によって受容されることになるのか、まったくの未知数ですが、単なる学際的研究としてではなく、ひとつの新しい総合科学としての部落学は、従来の個別科学研究がなし得なかった、部落差別に対する体系的な分析と総合を可能にしてくれるでしょう。

総合科学としての部落学は、日本の社会を薄暗い差別の中に閉じ込めた、日本の歴史学に内在する差別思想である賤民史観を批判の対象にします。部落学序説は、既存の被差別部落に関する史料・伝承のテキスト批判として遂行されます。決して、被差別部落の人々やその運動団体、また彼らに支援と連帯を主張している、学者・研究者・教育者・運動家・政治家等のことばとふるまいを直接批判するものではありません。

部落学序説の筆者である私は、日本の社会が、この差別思想である賤民史観から解放されて自由になる日、その日が部落差別完全解消の日であると思っています。賤民史観は、「差別する人」・「差別される人」・「差別させる人」、すべての人の精神の奥深くに根を張っています。差別者・被差別者、それぞれの課題として、賤民史観を粉砕・打破するために課題を共有し、共闘していかなければ、日本の社会から部落差別を取り除くことはできないでしょう。差別思想である賤民史観からの解放は、隣人や他者だけでなく、私たち自身をも、賤民史観から解放し、愚民としてではなく、賢民として生きることができる可能ならしめるのです。

差別者のうえにも、被差別者のうえにも、差別なき社会が実現するよう、祈りをこめて、無学歴・無資格・無能力をも顧みずこの部落学序説を執筆します。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...