2021/10/03

吉田向学と部落差別

吉田向学と部落差別


現在筆者が所属している宗教教団の山口県の施設に赴任して二十数年が経過しますが、当時、教団が部落差別事件を引 き起こしたということで、部落解放同盟という運動団体から糾弾を受けたことがあります。教団は、全国の教区に、同和問題の委員会を作って、教団内部に向けて啓発活動をすることになりました。

山口県に赴任して早々、先輩の宗教教師たちは委員になることを嫌ったため、赴任したばかりの私にその委員が命じられたわけです。私が配属された施設には、当時地方公務員の方が多く、私が、その委員を引き受けることに反対はしなかったのです。むしろ、公務員としての「建前」から、「この問題は避けて通ることができない」ということでした。

私にとって、部落問題は、まったく縁遠い問題でした。

観念的には、いろいろな雑知識は持っていましたが、部落差別問題の取り組みの必要性を説く、教団の同和問題担当部門の「先達」を見ていると、差別事象を分析して、他者をするどく批判する姿勢を見てただ驚くばかりでした。彼らは、私に、具体的な取り組みをすることを要求しました。「具体的な取り組み」というのは何なのか、尋ねると、「被差別部落に入って行って活動することだ、お前は、そんなことも分からないのか」と部落差別問題の認識のあまさについて怒りを買う始末でした。

それでも、2期8年同和問題の担当委員をしていると、山口県の被差別部落の方々との出会いが生まれます。被差別部落の中の隣保館で開かれる「学習会」に参加するようになって、被差別部落の老若男女の方々から、いろいろな被差別の体験を聞く機会も与えられました。ときどき、山口県教育委員会を相手にした糾弾会に陪席することもありました。

糾弾会の場においては、私は、被差別部落の側の末席に座っていたのですが、山口県の同和問題の担当部門の方々の姿勢は、至って、低姿勢でした。被差別部落の側からの厳しい追求に、県の同和問題の担当部門の方々は、できる限り、丁寧に対応しているように見えました。

あるとき、私が所属している教団が、ある問題で、山口県と交渉するということがありました。

そのとき、私は、教団側の席に座っていたのですが、そのときの山口県の担当者は、どちらかいうとふんぞりかえって、とても横柄な姿勢でした。陳情している私が所属している教団の信者からの訴えに馬耳東風を決め込んでいるようでした。

私は、そのときの、山口県のひとりの担当者の顔をじっとみつめていました。

初対面のはずなのにどこかで会ったことがあるような気がしたからです。私の視線に気がついた担当者の方も、私と同じように気づいたのか、同時に、あっと声をあげました。

彼は、部落解放同盟の糾弾会で、これ以上低姿勢はないと思われるような低姿勢で対応していた山口県側の窓口になっていた人でした。交渉の相手が誰であるのかを見て、こんなに対応が違うものか、と驚きの思いを持ちました。彼は、すぐに、横柄な姿勢をあらためて、椅子に深く腰を下ろして、交渉相手に対して丁寧な姿勢をとりました。

その余韻がさめやらないある日、私の所属する教団・教区の「先輩」教師から、きついお叱りを受けました。彼は、「即刻、部落問題の取り組みを止めろ」というのです。理由は、私の想像を絶するものでした。「お前に同和問題の担当をまかせておけば、何もしないだろう、なにもできないだろうということで、担当委員にしたのに、なぜ、具体的な取り組みをしているのか。即刻、被差別部落に出入りをするのは止めろ。糾弾会に参加するのは止めろ」というのです。

日本共産党との関係が強い彼は、社会党系の部落解放同盟と接点を持ちはじめた私に激怒したのです。それからというもの、いろいろな場面で、彼は、私を疎外・排除しはじめました。それは、徹底したものでした。

私は、分区の教師会から離脱しました。

私は、その時から、日本共産党が大嫌いになりました。

理由は、彼らは、権力者と同じ体質、否、それ以上に恐るべき権力指向を持っているからです。自分たちのイデオロギーに抵触する人物は、徹底的に排除してやまない体質を持っているからです。しかも、正義を振りかざして・・・。

彼は、いうのです。「人の嫌がる問題に首を突っ込み、その歴史を調べるなどというのは、お前の人格に歪みがある証拠だ。人間性に問題がある」と口調を強めます。彼は、ありとあらゆる手段を使って、私を排除しようとしました。

しかし、そのときには、被差別部落の人々との人間関係が多少なりともできていましたし、私が所属している宗教教団・教区の「信用」という点からも、部落差別問題との取り組みを止めることはできませんでした。私が関わったからといって、山口県の部落解放運動や同和教育に、いかなる貢献もできないことは十分知っていたのですが、私は、日本共産党シンパの上司から「激怒」されたということで、手の平を返すように、部落差別問題から撤退することはできませんでした。

それに、山口県北部にある、ある寒村の古老から聞いた話は、私にとっては、極めて衝撃的で、「賤民史観」と「愚民論」に色濃く染め抜かれた「唯物史観」に基づく、「部落史」とは、まったく別な調べをそのうちに持っていました。

私は、彼をはじめとする、日本共産党支持の宗教教師からの嫌がらせを甘んじて受けながら、この『部落学序説』・『部落学』構築の日々を歩みはじめたのです。「執行部」によって排除されるということは、公務員である学校の教師と違って、宗教「教師としての身分」が保証されていないため、直接、経済的に深刻な状況に追い込まれます。

税務署に確定申告にいくと、税務署の職員は、同じ教団に属する、同年代の宗教教師の確定申告書を横目で見ながら、「宗教教団というのは、平等を指向しているのではないのですか。同じ教団に属していながら、こんなに報酬に格差があるのは信じられない。税務署の立場からいうと、あなたに対する課税は、他の教師に対する課税と同じ額にせざるを得ない」といいます。そのときは、その税務署の担当者と大喧嘩になってしまいました・・・。

『部落学序説』は、決して、「有閑階級」である宗教者の戯言ではありません。

私は、被差別部落出身者ではないけれども、少なくとも、自分の人生の何分の一かは、様々な敵意と憎しみにさらされながら、「国民的課題」としての「部落差別完全解消」のために尽力してきたと自負しています。

被差別部落の当事者でも、様々な立場の政党活動家や運動家でもない分、イデオロギーや運動方針とは何の関係もないところで、ただ、徳山市立図書館の郷土史料室の資料や、生活を切り詰めて購入した岩波書店の『日本近代思想大系』等の資料集によって、実証主義的な分析と総合の指向錯誤を繰り返してきたのです。

いわば、『部落学序説』は、筆者の「独白」なのです。

今までは、地道な方法で文献の収集と解析を進めてきたのですが、ブログというものに出会って、私は、驚喜しました。ブログ上で『部落学序説』を公開すれば、一人でも二人でも賛同者が生まれるかも知れない、その人たちが、実証主義的な立場から部落史を見直し、日本歴史学の差別思想である「賤民史観」を取り除いてくれたら、日本はもっと「差別・被差別」から自由になって住みやすい社会になるに違いないと思ったのです。

同じ教団に属する宗教教師は、「誰も読まないブログを、いつまで書いているのか。」と云いますが、最初から「独白」ではじめた研究・・・、最後まで「独白」で終わろうと、この『部落学序説』は最後まで書き続けることにしています。

『明治維新と部落解放令』の著者・石尾芳久は、「あらゆる歴史が階級闘争の歴史であるという歴史研究の方法を部落史について適用することを拒否する」と宣言します。彼は、「支配権力の側の資料」だけでなく、「部落に伝えられた史料」を実証史学の立場から評価します。そして「史料の解釈の客観性」を説いて、「史料にこめられた思想的意味を、その史料の一言一句について厳格に考証するという立場に立つ」と宣言します。

「唯物史観」も、「賤民史観」や「愚民論」に色濃く染め抜かれています。その歴史学者が自覚しえないほど、「賤民史観」や「愚民論」は、その研究者の臓腑にしみこんでいます。それは、彼らが、「反権力」の装いを取りながら、実は、「権力」そのものを指向していることを示しています。

部落差別は、歴史上のひとつの「結果」です。

『民俗学の方法』の著者・井之口章次は、このようにいいます。「原因のわからない現象は無数にあるが、原因のない結果があろうとは考えられない。わからないということは、そこにまだ、われわれの知らない知識がかくされているということである。われわれの身辺には、わからないことが無数にあって、それを少しずつ解きほぐしていくと、過去の生活が大写しにあらわれてくるのである。しかも、その原因は、すべて現在以前の、過去に求め得べきものである。過去があって、はじめて現在があるというのは、あたえまえの話であるが、文化科学の領域では、常に忘れることのできない前提である。」

明治4年の太政官布告(「賤民史観」がいう「賤民解放令」・「身分解放令」)は、明治4年以降の歴史学者や研究者・教育者の論文や資料に基づいて判断されるのではなく、明治4年以前の史料や資料に基づいて解明されなければならないのです。部落史の解釈に際しても、「解釈学」の基本原則、「読み込み」ではなく「読み出し」が徹底されなければならないのです。「読み込み」は、「賤民史観」に立つ研究者や教育者が、「みじめで、あわれで、気の毒な」被差別部落像を歴史の個々の史料の中に読み込んでいく所作を指します。「読み出し」は、歴史研究の前提を批判検証しつつ、史料の語ることを語らせていく所作を指します。

『地方史研究法』の古島敏雄は、日本史学は、長い間、「明治以降は卒業論文のテーマとすることを許されなかった」といいます。「何故、何の時代につき、何を問題とするか」という「問題意識」よりも、「史料についての知識や、それを取り扱う技術の方が重んじられてきたといいます。今日においても、部落史研究においては、研究方法や論文作成の作法・技術のみ重んじられて、その研究の結果、どれだけ歴史の真実にたどりつけたかということは問われないと言われます。部落史については、現在の高等教育の成果である、修士論文・博士論文は、研究方法や論文作成の作法・技術はともかく、「何故、何の時代につき、何を問題とするか」という「問題意識」については、修士論文や博士論文に値しないものが多いと思うのですが・・・。修士論文は、通説の部分的修正、博士論文は、通説の否定と学問的視野を開く新説が必須であると思うのですが、学歴も資格もない筆者の思い過ごしかも知れません。

古島はいいます。
「新しい問題意識は歴史研究者が過去の研究方法を技術的に踏襲している中では容易に出てこない。旧来の方法を踏襲して、未研究の地域や時代の、同様な実証的研究を積み重ねることによって、内発的な展開を求めることを繰り返しても、そのような事例追加は、各時代の様相の具体的内容を豐富にはしても、新しい問題への転化・発展は困難であり、研究の行きづまりを意識させることも少ない。むしろ新しい世代の意欲的な研究に眼を背かせる結果になることが多い」。

部落史研究についてもあてはまることであると思います。

しかし、こころある歴史学者や研究者、教育者は、実証主義の立場から、貴重な研究成果を積み重ねてきています。学歴も資格も持ち合わせていない、ただの人である筆者は、それらを集めて、比較検証して、「総合」作業の上に、『部落学序説』という題目の下に、「総合」を試みているのです。

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