2021/10/03

穢多とキリシタン

穢多とキリシタン


清水紘一著『キリシタン禁制史』の表紙には、「キリスト教伝来から近世にいたる波瀾の歴史の真相を統一政権とのかかわりを中心に解明」とあります。

徳川家康は、1605年イエズス会への書簡の中でこのように記します。

「閣下其地より、屡々日本にある諸宗派付きて説き、又多く望む所ありしが、余はこれを許すこと能わず、何となれば、我邦は神国と称し、偶像は祖先の代より今に至るまで大に尊敬せり、故に予一人之に背き、之を破壊すること能わざればなり、是故に日本に於ては決して其の地の教を説き、之を公布すべからず」。

徳川家康のキリシタンに対する施策は、先立つ統一政権・豊臣秀吉のキリシタン対策をほぼ踏襲するものでした。日本を「神国」と称した上で、「仏教との伝統的な関係を説く」姿勢は、秀吉の継承でもあります。

豊臣秀吉は、織田信長の仏教勢力に対する弾圧政策をやめ、「延暦寺の再興」・「貿易政策」・「日蓮宗・真宗公認」等、信長の政策とは正反対の政策をとります。それは、「勢力のなくなったものを自己の道具に作りかえ、統一に効果的に利用するためにほかならない」(海老沢有道等著『日本キリスト教史』)といわれます。

特に、真宗が広く流布されていた地方では、キリシタンの布教が進まなかったことを確認した江戸幕府は、真宗との間に密約を結び、真宗を、幕府のキリシタン対策の重要な機関として組み込んでいきます。

幕府は、キリシタンに関する禁令を矢継ぎ早に公布するだけでなく、それを有効ならしめるために、多次元的レベルで、キリシタン弾圧政策を展開していきます。

ポルトガル語の「キリシタン」という言葉は、英語の「クリスチャン」という言葉と同じです。「キリスト者」一般を指す言葉で、「キリシタン」と「クリスチャン」の間に本質的な違いはありません。

筆者が所属する宗教団体は、キリスト教です。そういう意味では、筆者は、「キリシタン」(キリスト者)の末裔でもあります。私も妻も、それぞれの家の宗教(真言宗)を離れて、キリスト教を自分の宗教とするにいたりましたので、中世・近世の「キリシタン」とは血統的には何のつながりもありません。

しかし、キリスト教の信仰を共有するという一点においては、中世・近世の「キリシタン」と近代・現代の「クリスチャン」との間には、精神的・歴史的に深いつながりがあります。「キリシタン」の末裔として自己理解をしても不思議ではない立場にあります。

この『部落学序説』は、「百姓の視座」から執筆することを公言していますが、更に言えば、近世幕藩体制下にあって、「身分外身分」・「社会外社会」とされ、差別と抑圧の中を生きていった「キリシタンの視座」から、「部落学」を構築していくことになります。

この『部落学序説』が、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」について、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究と、かなり異なる見解をとっているのは、「同和」とか「部落解放」とか、限られた世界での研究ではなく、常民の学としての民俗学の枠を越えて、さらに学際的な研究を指向し、その過程で、宗教学の研究範囲を神道・仏教に限定せず、「キリシタン」にまで研究の触手を延ばしているところに起因します。

山口県に赴任して以来、二十数年、同和問題に関心を持ったり、研究をしている「学者」や「教師」の方々と交流する機会が与えられましたが、彼らの「キリスト教」理解は、高校の倫理の教科書の枠組みをでません。一般的・通俗的で、「キリスト教」に対する理解は形式的・表層的な場合がほとんどです。

逆に言えば、筆者の、仏教理解は、彼らからみると、同じように、一般的・通説的・形式的・表層的なもので終わっているのかもしれません。口語訳の仏典を読んで、「差別なきこころ、それが仏の浄土である」という言葉を見いだし、「仏教の本質は反差別である。差別的仏教は、仏教の本来の教説からの逸脱である・・・」なんて思っているのですから。「漢文」の羅列である各種仏典には関心がなく、漢字の背後にある字義的解釈ではなく、仏典の持っている意味の方に関心があります。

浄土真宗を例にとっても、親鸞の「教説」というよりは、浄土真宗の「世俗化」とその「世俗化倫理」に興味があります。また、その他の宗教においても、「教説」というよりは、仏教的民俗や習俗の方に関心があります。

キリシタン弾圧を視野に入れるとき、「穢多」と「キリシタン」という構図は、現代的な表現をすれば、「穢多の末裔」と「キリシタンの末裔」という構図に置き換えられるのではないかと思います。さらにいえば、「被差別部落の人々」と「キリスト教の信者」という図式に。

筆者の場合、「穢多の末裔ではないが、キリシタンの末裔である」という強い意識があります。そして、近世幕藩体制下のキリシタン弾圧の時代、近世の司法・警察であった「非常民」としての「穢多」によって、なんとたくさんのキリシタンたちが、その「糾弾」にあい、探索・摘発・捕亡・裁判という一連の弾圧にあい、その多くの命を失っていったか・・・。「切支丹という名が直に罪となり、牢獄に打ち込まれる」(「1619年度イエズス会日本年報」)、そして言語に絶する火責め・水責め等による史上まれに見る残虐な刑が執行されていったのです。

清水紘一は、元和8年(1622年)の大殉教に触れてこのように記しています。

「元和8年(1622)7月13日長崎奉行長谷川権六は、ペドロ・デ・ズニガとルイス・フローレスおよび船長平山常陳の3人を火焙りの刑に処し、同乗の商人や水夫12人を斬首した。12人の首は、焼かれた遺体とともに5日間刑場内にさらされたという。」

「ついで8月5日、大村藩のキリシタン牢に未決のまま投獄されていた教会関係者55人が処刑された。この事件を元和の大殉教とよぶ。55人の内訳は、宣教師21人(イエズス会士9人、ドミニコ会士7人、フランシスコ会士5人)と信者など34人で、なかには朝鮮人のアントニオ夫妻や3歳の男児2人がいた。処刑された信者の大半は、宣教師の家主となって彼らの潜伏や布教活動を助けていた人々とその家族であり、このほかに家主の隣人として連帯責任を問われた人も含まれていたのである。」

「処刑は30人の斬首にはじまり、ついで火刑となったが、薪は前日の雨で湿っていた上、刑柱の周囲4メートルを隔てて少量置かれていたにすぎなかったから、殉教者は緩慢に炙られて、恐ろしい苦痛に直面した。このためタンドウ・ドメニコら3人が、一時「阿弥陀」を唱えて役人に助命を乞うたという。点火は午前9時頃であったが、深夜をすぎてなお生存するものがいた」。

新井白石によると、殉教者数は、「20~30万人」に及ぶといいます。幕府とその諸藩は、実に、4人に1人の割合で、「キリシタン」という名前の下で尊い命を処刑していったのです。そして、処刑されたキリシタンの関係者は「キリシタン類族」として、「人間外人間」・「身分外身分」・「社会外社会」として生きなければなりませんでした。これらの言葉は、「穢多・非人」ではなく、「キリシタン」やそのほかの、幕府によって禁教とされた宗派の人々のための言葉でした。

「穢多・非人」は、古代・中世・近世において、司法・警察に関わる「非常民」として、それぞれの時代の権力の下で、その「役務」を担ってきた人々でした。彼らは、徳川幕府が演出した「キリシタン弾圧」という狂乱の時代においても、その職務を担った人々でした。差別され、疎外され、排除され、処刑されていく「キリシタン」にとって、「穢多・非人」は、キリシタンを迫害する「権力」そのものでした。

私には、部落差別の人々に対する「おそれ」は、このキリシタン弾圧下に、幕府によって演出された「穢多・非人」に対して、一般の人々が抱いたと思われる「おそれ」と通底していると思われるのです。

近世の司法・警察である「穢多・非人」の「役務」の中で、次第に、「宗教警察」の部分が大きくなっていきます。天下の大罪であるキリシタンの探索・摘発・捕亡・・・、キリシタン糾弾の営みは、穢多・非人が避けて通ることができない課題になっていきます。

清水によると、島原の乱が終息に向かったあと、寛文2年(1662)2月8日、「普請奉行保田宗雪が作事奉行となり、即日天主教考察を兼務することとなった」とそうです。清水はこのように記します。

「作事奉行とは、定員2、3名で築城や道路関係など幕府の土木・建築をつかさどる役職のことであるが、宗門改めといった宗教関係の取締役を作事奉行がなぜ兼務したか、その理由についてはよくわからない」。

しかし、筆者は、これまで『部落学序説』の名のもとに、「穢多」概念の内包と外延を研究してきたことを前提にすると、この1662年2月8日こそ、江戸幕府が、「宗教警察」を含む、近世幕藩体制下の司法・警察制度を完成させた日ではないかと思います。「作事奉行」と「宗門改め」が一体化されることで、幕府は、キリシタン弾圧という「恐怖」を背景に、幕府の直轄地だけでなく諸藩にまで、その支配を貫徹していった日ではないかと・・・。

「穢多・非人」は、諸藩の「権力」に直接仕える存在ではなく、幕府の「御法」に仕える役人として、江戸時代300年間を歩みきったのだと思います。

幕府による、近世司法・警察の本体である様々な「非常民」を、与力・同心・目明・穢多・非人という、「非常民」という枠組みの中での身分の確立がなされた時代、そして、明治になって、近代国家確立のため、近世の身分が否定される時代・・・、それは、キリシタン弾圧の完成とキリシタン弾圧の中止の時代は否定しがたく重複しているのです。そして牛の屠殺の禁止と解禁の流れも重複しているのです。

多くの部落史研究者は、何故か、このキリシタン弾圧を不問に付していきます。

桃山学院大学名誉教授の沖浦和光をのぞけば、ほとんどの研究者は、何ら関心を持っていないといえます。『部落史論争を読み解く戦後思想の流れの中で』・『沖浦和光・宮田登対談ケガレ差別思想の深層』・『瀬戸内の被差別部落その歴史・文化・民俗』の中で、沖浦は、それまでの部落史研究者が触れなかった、「穢多」と「キリシタン」の接点について言及しています。

「穢多」(差別者・迫害者・抑圧者・糾弾者)と「キリシタン」(被差別者・殉教者・被抑圧者・犯罪者)との図式をやっと克服して、「穢多」と「キリシタン」の間の「人間性」を再発見した沖浦和光の研究成果なのかもしれません。

次回は、村上直次郎・新村出監修『キリシタン風土記』と沖浦の研究をもとに、近世宗教警察である「穢多」と殉教者「キリシタン」との関係を、『部落学序説』風に追求してみましょう。

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