2021/10/04

村境と芝境、気枯れと穢れ

 村境と芝境、気枯れと穢れ


近世幕藩体制下の「村」は、すべて、幕府や諸藩の管理下に置かれています。「村」は、大小を問わず、藩権力が及ぶ場所です。

長州藩では、近世警察の管轄区分を「芝」(しば)と呼びました。「芝」は、一つ以上の村から構成されていました。その「芝」は、近世警察である「穢多」の管轄区分で、その管轄下の個々の「村」には、「穢多」が駐在しているところもあれば、そうでないところもありました。しかし、一端、「非常」が発生しますと、その「芝」に属する「穢多」が駆けつけてくることになります。

「芝」と「芝」の境を「芝境」(しばざかい)といいますが、「芝境」は、多くの場合は、村と村の間の境界線上に設置されていますが、「芝境」は、藩の治安維持のために設定されていて、長州藩の萩本藩においても、枝藩・支藩においても、「芝境」からもれる地域や農村はどこもありません。

「芝」は、穢多の死牛馬処理の権利の及ぶ範囲・旦那場のことではないかと思われる方があるかもしれませんが、長州藩においても、近世初頭はそうでした。しかし、幕藩体制が安定し、その長期継続が予想されていく中で、近世警察もより安定した方向へと秩序づけられていきました。そして、死牛馬処理の権利の及ぶ範囲が、近世警察の管轄と同じものとみなされるようになり、結局、「芝」というのは、近世警察の管轄区分を指すようになっていったのです。どの村も、いずれかの「芝」に組み込まれていて、そこから漏れるということはありません。

その「芝」を意識していたのは、非常民である武士や穢多たちであって、百姓ではありませんでした。「百姓」は、芝と芝の境の「芝境」(しばざかい)より、村と村の境である「村境」(むらざかい)の方に関心がありました。百姓の日常生活に直結していたのは、「芝境」ではなく「村境」でした。もちろん、両者がダブル場合もありました。ある村とある村の境が、重要な街道に関係していたりすると、その「村境」は同時に「芝境」とみなされました。

近世の百姓は、その村の中で、どのように生きていたのでしょう。

前のページで取り上げた、山口県熊毛郡内の八代(やしろ)という村を例にとってみると、村の中心は農家の家々が立ち並んでいます。ちょうど、盆地のようなところですが、農家の家々の外には、「野良」という原っぱがあります。秋には、美しいススキの花が咲いています。「野良」を過ぎると、山に入ります。山には、冬の薪をとるための入会地があります。そして、更に山に深く入っていくと、峠があって、そこには、村の境をしめす、様々な指標が設けられています。小さなお堂であったり、道祖神であったり、道案内であったりします。そこまでくると、村から外に出ていくという雰囲気になります。

八代は、四方を山に囲まれて、住人が村から出ていくには、村の家を離れて、野良を通って、山に入り、さらに峠を通って、村の外へと出ていかなければなりません。近世の百姓は、自分の住んでいる村境から外へは出ていくことは許されなかったといわれます。村を棄てて出ていく百姓は、「走り百姓」と呼ばれました。

伊藤博文の父母は、先祖伝来の農地を棄てて他所(萩城下)に移り住んだ「走り百姓」でした。倒産して夜逃げをした百姓の息子である伊藤博文(当時は幼名・利助)は、百姓の世界を捨て、武士の世界に入っていきます。伊藤博文が最初についた仕事は、「毛利家保管地相州宮田」(神奈川県)の「警護」の仕事でした。

長州藩で、一般的に「警護」の仕事に携わったのは、「穢多」と言われていた人々でした。伊藤博文は、「武士」の世界の最下層の仕事からはじめて、その実力を認められていきます。そして、たどりついた武士の世界の身分は、中間でした。伊藤博文は、明治近代国家の創設に尽力し、45歳のとき初代内閣総理大臣となります。韓国併合条約締結の前の年、ハルビン駅で狙撃され死去します。一説に、明治の重臣の中で、伊藤博文は、その出身賤しきがために、国策遂行のための人身御供にされたのだという説もあります。伊藤博文は、明治天皇から拝領した軍服しかあとに残しませんでした。日本の近代国家設立のために全力を尽くして伊藤博文は、現代の汚職にどっぷりつかった政治家とは雲泥の差があります。

脱線はこれくらいにして、伊藤博文も、「走り百姓」の悲しさを経験しています。

村を捨て、村を出る・・・というのは、村人の衆人環視の中を事実上でていくわけですから、たいへんなことであったと思います。

近世の村では、その村人はどのような生活をしていたのでしょうか。

山口県周防大島町に、「民俗資料館」があります。私が知っている限りでは、最大の民俗資料館です。農民・漁民・大工等いろいろな道具や器具が豐富に陳列されています。その中に、何の説明もなく、そっと、目のつく場所に、近世警察の捕亡道具も展示されています。

民俗学で議論されていることに、ハレ・ケ・ケガレというのがあります。

『部落学』構築を視野に入れるとき、ハレ・ケ・ケガレを、私は次のように解釈します。まず、村の住人の日常生活を「ケ」と呼びます。「ケ」というのは、百姓が朝早く起きて、農作業に従事するときの、毎日繰り返される通常の営みのことを指して用います。

ところが、「ケ」は、農作業のマンネリ化の中で、「気」が失われてきます。「気」が失われることを「気が枯れる」、「気枯れ」(けがれ)と呼ぶことにします。「気枯れ」の状態をそのままにすると、農業の生産に著しく悪影響が出てきます。そこで、適当な時期に、この「気枯れ」を取り除いて、百姓の日常生活に意欲と活力を取り戻させる必要があります。

そのための装置が「ハレ」です。

稲作のはじめに行う春の祭り、稲作の終わりに行う秋の祭り、そして、盆と正月・・・、百姓の日常生活の中に、これらの祭りを取り込むことで、「晴れ」の時を創出するのです。「ハレ」の時を過ごすことで、百姓は、もう一度、「ケ」の世界、日常の世界に戻っていきます。

「気枯れ」は、時として、病気の形をとりますし、年をとってくると老衰という形をとって現れます。しかし、全快祝いとか、葬<祭>という「ハレ」(広義の意味でのハレ)を経由することで元の「ケ」、百姓の日常生活に戻っていきます。

村の生活は、ケ→ケガレ→ハレ→ケ→ケガレ→ハレ→ケ→ケガレ→ハレ・・・という形で、ひとつの循環を継続していくことになります。私は、この「ケ→ケガレ(気枯れ)→ハレ」という循環を、「常」の世界と呼びます。

この「常」の世界に身を置いている限り、近世警察である「非常民」(同心・目明し・穢多等)のお世話になることはありません。

しかし、ケガレ(気枯れ)が、ケガレ(穢れ)に発展する場合があります。

この場合のケガレ(穢れ)は、法的逸脱のことをさします。軽犯罪から重犯罪まで、いろいろなケガレ(穢れ)が存在します。火付・強盗・殺人等の重犯罪の場合は、本人とその家族だけでなく、被害者の家庭にも大きな悲惨と不幸をもたらします。ケガレ(穢れ)に陥ったものは、警察・司法の機関によって、捜査・逮捕・取調・裁判・判決を経て、刑罰が課せられていきます。これらの一連の営みを「キヨメ」といいます。この「キヨメ」を経由することで、村人は、もう一度、ケの世界に戻っていくことができるのです。この「ケ→ケガレ(穢れ)→キヨメ」という循環を、「非常」の世界と呼びます。

法的逸脱の程度によっては、キヨメの過程の中で、処刑され、命を持って償わされる場合もあります。近世幕藩体制下のキヨメは、藩にとっての貴重な人材を、できる限り温存しようとします。嵯峨天皇によって、設置された検非違使制度という警察制度は、政治犯に対する死刑廃止(第一次世界大戦後のワイマール憲法下の刑法を起草した法学者・ラートブルフが主張した法政策)を実施するなど法的逸脱をしたものに対する社会復帰の方法を内包する先進的なものでした。

筆者は、「ケガレ」という概念は、二重定義であると考えています。

「ケガレ」という言葉が、「常」の世界にあっては「気枯れ」を意味し、「非常」の世界にあっては「穢れ」を意味していると捉えます。民俗学でいう「気枯れ」と歴史学でいう「穢れ」は、同じ「ケガレ」の常・非常の区分に過ぎないのです。民俗学も歴史学もおのれの立場をゆずらず、ひとつの意味で、あるいは両者を恣意的に混同して用いることによって、いたずらに混乱を引き起こしているように思われるのです。

「穢れ」を前にして、「キヨメ」の営みをするもの、それが、「非常の民」・「非常民」なのです。近世幕藩体制下の穢多・非人は、キヨメの一端を担っているに過ぎないのです。穢多・非人は、「非常民」の一部であるのと同様に、「キヨメ」の一部なのです。

「キヨメ」は、それぞれの時代の警察機構の共通した所業であって、決して、「穢多」に固有の独占的な所業ではないのです。「賤民史観」は、この「キヨメ」を「穢多・非人」に集約してしまいますが、私は、間違いであると思います。「賤民史観」が差別的な歴史思想であることの証左であると思っています。「キヨメ」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の共通の属性なのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...