2021/10/03

近世幕藩体制下の身分とは何か

近世幕藩体制下の身分とは何か


『広辞苑』によると、「身分」は次のように説明されています。

「①身の上。境遇。 ②社会関係を構成する人間の地位の上下の序列。封建社会においては制度的に固定し、世襲的で 、他への移行が認められなかった。」

「社会関係を構成する人間の地位の上下の序列」というのは、「身分」概念の通史的な説明です。日本社会においては 、古代・中世・近世・近代・現代を通じて、「身分」という概念は、「地位の上下の序列」を意味していて、「人間」 性の「上下の序列」を意味するものではないということになります。

つまり、「地位の上下の序列」の中にあって、「上」にいる人も、人間的にみて、優れた人もいればそうでない人もいるということになります。逆に、「下」にいる人も、人間的にみて、優れた人もいればそうでない人もいるということになります。地位の「上下」と人間性の「上下」とは直接関係がないことを示しています。

『広辞苑』によれば、「地位の上」・「地位の高いこと」は、「貴」と表現され、「地位の下」「地位の低い」ことは、「賤」として表現されます。

しかし、「封建社会においては」、通史的な説明とは異なる要素が見受けられます。『広辞苑』は、それを、「封建社会においては制度的に固定し、世襲的で、他への移行が認められなかった。」と説明しているのです。

近世幕藩体制下においては、「身分」というのは、①制度的に固定され、②世襲的で、③他への移行が認められなかったと説明されています。近世においては、「身分」は、「地位の上下の序列」ではなく、人間の価値の序列・・・という側面をもっていることを示唆しています。

つまり、近世幕藩体制下では、「賤しい」という言葉が、「地位が低い」という意味だけでなく、「②貧しい、みすぼらしい、③とるにならない、④下品である。おとっている。つたなく、まずい。⑤さもしい、けちである。⑥(特に)食物などに対する欲望が、むき出しである。いじきたない」という意味を持つようになってきます。「賤しい」という言葉が、「地位の上下の序列」ではなく、「人間の価値の序列」としてみなされるようになってきた・・・という状況をうかがうことができます。

しかし、これは、明治以降、政治家・研究者・教育者、そして旧穢多の末裔たちによって、「賤民史観」的なものの見方や考え方が導入された、それ以降のことがらで、近世幕藩体制下において、「賤しい」という言葉が、「地位の上下の序列」を越えて、「人間の価値の序列」として受け止められていたという確固たる証拠は未だに見いだされていません。

「貴賤」を、「地位の上下の序列」ではなく、「人間の価値の序列」と受け止めたのは、「賤民史観」樹立と深い関係があると思います。「賤民史観」は、政治家・研究者・教育者だけでなく、被差別部落の人々によっても受け入れられ、いつのまにか、「賤」は、被差別部落の祖先と末裔の本質を示す言葉として解釈されるようになっていきます。

山口県光市の浅江部落出身の村崎義正の『怒りの砂』にでてくる、被差別が自ら語る言葉は、被差別部落の人々の「賤しい」姿、「賤民史観」にでてくる、被差別部落の人々を賤民視する言葉が数多く登場してきます。彼らにとっては、「賤しい」という言葉は、「地位の上下の序列」ではなく、「人間の価値の序列」として、受け止められていたのです。

被差別部落の人々が、歴史の事実に違うて、自分たちの子孫に語り伝えることができない「賤民史観」を採用していったのは、なぜだったのでしょうか。「みじめで、あわれで、気の毒な」人間像を引き受けていったのはなぜなのでしょうか。しかも、「江戸時代三百年間を通してずっと差別されてきた」という、ありもしない幻想を受け入れてきたのはなぜなのでしょうか。「特殊部落」という言葉がささやかれるようになった時代には、すでに、旧穢多の歴史は、失われてしまっていたのでしょうか。「賤民史観」という差別思想を水平社運動の中に持ち込んだ、早稲田大学教授・佐野學の『特殊部落民解放論』を全面的に受け入れていったのはなぜなのでしょうか・・・。

「賤しい」という言葉が、「地位の上下の序列」から「人間の価値の序列」へと大きく変質していった時代こそ、近代的な部落差別が構築された時代であると言えます。佐野の、明治4年の太政官布告を「解放令」とする解釈、「特殊部落の人々は・・・解放令に依りて解放された」という彼の説は、なぜ、批判の対象にならなかったのでしょうか。被差別部落の人々は、なぜ、佐野の思想を受け入れていったのでしょうか。

「貴賤」概念は、「地位の上下の序列」を意味する言葉であって、決して、「人間の価値の序列」を意味する言葉ではないのです。「賤民史観」が、なぜ、「地位の上下の序列」から「人間の価値の序列」へ、その解釈のシフトを移していったのか、そこに、現代の被差別部落生成の謎が秘められているような気がします。

『広辞苑』は、「封建社会においては制度的に固定し、世襲的で、他への移行が認められなかった。」と説明しますが、最近の部落史研究の成果としては、①制度的に固定、②世襲、③他への移行が認められなかったという認識が是正されつつあります。

長州藩の枝藩である岩国藩については、「穢多」は、支配者の政治的な理念によって意図的に作り出されていきます。百姓一揆の再発を防ぐために、一揆が発生した地方の村々や街道の要所要所に「穢多村」を配置していきます。岩国藩にあっては、武士(藩士)の家に跡継ぎがいなくて「御家断絶」の状況に置かれると、ためらうことなく、穢多の家から養子をとって、「いい養子をもらった」と自慢している節さえうかがうことができます。長州藩では、「穢多」の勤めに熱心であった人を「ご褒美」として、その職を解いて、百姓身分にしている例もあります。『広辞苑』の「封建社会においては制度的に固定し、世襲的で、他への移行が認められなかった。」という説明を覆す資料は、例外とはいえない程、多数、資料の中に散見できます。長州藩に限らず全国的に確認されつつあります。

あらためて、「近世幕藩体制下の身分とは何か」という問いを立ててみましょう。

その答えとして、『広辞苑』に記載されているような説明では、不十分であることが分かります。近世幕藩体制下の中で、「身分」とは何であったのか。部落史研究家の数冊の書籍を読めばすぐに分かります。「身分」概念についての説明は、千差万別・多種多様であると。

先行する「部落学」の第一人者、立教大学の川元祥一は、「当時の身分について、共通の認識をもって誰もが自分で考えることができる」ようにするために、「江戸時代の賤民、ことに「穢多・非人」身分の呼称を社会全体の職業的カテゴリーに置き換えて考える必要がある」としています。「ひとつの課題を考えたり議論するとき、共通の認識が基盤にないと何も進展しないだろう」と言います。川元は、「部落差別の祖型としての差異」を「職業」におくことによって、「この問題の解決の第一歩と考える」と、その自信の程を披露しますが、同和対策審議会答申で否定されてきた被差別部落の「職業起源説」を、またぞろ、持ち出すことで、本当に彼のいうように問題解決につなげることができるのでしょうか。

近世幕藩体制下の「身分」概念について、「部落学」構築上無視できない視点を提供してくれる人に、桃山学院大学の寺木伸明がいます。彼は、その著『部落史を読みなおす-部落の起源と中世被差別民の系譜』(解放出版社)・『近世身分と被差別民の諸相-<部落史の見直し>の途上から』(解放出版社)の中で、興味ある発言をしています。

寺木は、穢多の「身分」を「役負担」と「職業」に分けて考察することを提案するのです。
そのときひな型になったのは、武士のそれでした。寺木は、「支配権力をもった武士身分の特徴を他の身分にももってきた」というのです。

私は、寺木の説は、「部落学」上の勇断であったと思います。

なぜなら、穢多・非人という身分を考察するとき、武士身分をひな型にしてそれを普遍化する方向で押し進めていきます。ということは、穢多・非人は、近世幕藩体制下にあっては、「身分外身分」ではなく、武士と同じ身分、身分制度の中に正しく位置づけられた身分であったということになります。寺木はこのように言います。

「現在の部落の成立に関連して、近世の穢多身分の差別の実体の特徴を明らかにする必要がある、ということで江戸時代の穢多身分の職業と役負担のことを明らかにした・・・。」

寺木が、他の多くの歴史学者と共に、「賤民史観」に強く影響されていたとはいえ、その中にあって、近世幕藩体制下の穢多身分について、その解明に向けて大きく一歩を踏み出した瞬間であると思います。幕藩体制下の「身分」は、「役負担」と「職業」から構成される、という命題を私は、「部落学序説」の第4番目の命題としてとりあげることにします。表現は少々違いますが、内容は同じです。

命題4:穢多の身分は、役務と家職によって構成される。

寺木が考察の結果抽出した命題は、明治4年の「穢多非人等の称廃せられ候条、自今身分職業とも平民同様たるべき事」という太政官布告には、「身分」・「職業」は、「平民同様たるべき事」とうたわれているが、「役負担」については何も言及されていないことを示唆しています。これは明治4年の太政官布告の身分解放が、「職業」については、「平民同様たるべき事」としていますが、「役負担」については何の言及もしていないところに、明治4年の太政官布告が、明治以降の「部落差別」につながっていった遠因があるように思います。

明治政府は、キリスト教を一度も解禁するとは明言しませんでした。明治政府は、ただ、明治6年2月19日に全国の津々浦々からキリシタン禁制の高札を撤去したのみでありました。小崎弘道は『国家と宗教』の中で、「諸外国に対して基督教禁止の高札を撤去したが如く吹聴すれども内に向っては其の法令を撤回するに就いて何らの布令書を出すことはなかった」と言います。

諸外国に対しては、キリスト教を解禁したと装いながら、国民に対しては、近世のキリスト教弾圧を継承していることを装った、国の「外」に向けた対応と、国の「内」に向けた対応の二重性を、日本宗教史家は、「半禁半許」と言います。

明治政府は、日本の国辱として捉えている、諸外国に与えた治外法権を撤廃するため、その条約に不利に働くキリシタン弾圧政策から後退を余儀なくされました。そして、国の「外」に向けては、宗教警察の解体(明治4年の太政官布告)を宣言し、国内においては、「身分と職業」は、「平民同様」になったけれども、穢多の宗教警察機能を含む「役負担」については言及を避けることで、国民に対して、「穢多は野に放った宗教警察である」というイメージを強くしていきました。私は、キリスト教に対する政府の「半禁半許」に対して、穢多に対する政府の施策の姿勢を「半解半縛」と呼びます。この「半解半縛」が、近世幕藩体制下の警察である「穢多」の末裔たちを差別の奈落へ落とす大きな要因になっていきました。この点については、第4章で、「解放令」批判を取り上げる際に詳述します。

寺木伸明の「身分」概念の定義は、「部落学」構築上、重要な命題となります。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...