2021/10/03

「部落」と「暴力団」に関する一考察 8 総括の方向性について

「部落」と「暴力団」に関する一考察

第8回 総括の方向性について・・・

筆者の手元にある資料のみをもちいて、「部落」と「暴力団」に関する一考察という主題で論じてきました。

近世幕藩体制下の西日本(長州藩)においても東日本(守山藩)においても、「博奕」は、最初から最後まで犯罪のひとつです。

「博奕」が合法化され、組織としての「博奕」集団が社会的に認知される・・・、という可能性はほとんどあり得なかったのではないかと思います。

「博奕」は、違法行為であり、犯罪そのものです。

『部落学序説』の筆者は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」概念の外延に、「同心・目明し・穢多・非人、村方役人」を数えました。「非常・民」は、権力に無条件に屈従するのではなく、権力の定めた法・法度に忠実にその職務を遂行していました。

「穢多」と「博奕」について考察するとき、「穢多」は、違背行為である「博奕」を取り締まる側であり、「博奕」は、司法・警察官である「穢多」によってその法的逸脱を摘発される側でした。「穢多」と「博奕」は、相互に相矛盾する存在であったのです。

もちろん、どの世界にも常に例外が存在します。

司法・警察官といえども、あるときは誘惑に負け、違法行為と知りつつ「博奕」に身をゆだねることもあったでしょう。しかし、それは、司法・警察官全体が「博奕」であったということを証明するものではありません。「穢多」=「博奕」という事実は、あくまで、法的逸脱、犯罪事例としてのみ存在します。

『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』の著者・成松佐恵子氏は、このように記しています。

「幕府が出す法令を集めた『御触書天保集成』によると、「博奕之部」(天明八年より文化一三年まで)に見える博奕禁止令は二〇回に及んでいる。いずれも博奕、賭の勝負について前々より御禁制であるにもかかわらず、いまだに止まないとして厳重に取締まる内容となっている。」

近世幕藩体制下の「博奕」は、「やくざ」という組織的集団として一度たりとも公認されることはなかったのです。上記『御触書天保集成』を見ても、「博奕」と、それが組織化され、集団化されることを、時の権力者は極力警戒し、早期にその芽を摘み取っていたのです。

明治維新によって、近世幕藩体制は破棄され、近代中央集権国家が構築されていきますが、明治元年、「新刑法が定立」されるまで「従前通り」という方針のもと、『仮刑律』が制定されます(以下の引用は、岩波日本近代思想体系『法と秩序』)。

「博奕

凡、博奕いたすものは皆笞五十、当場之財物は官没す。若博奕せずといへども奕の宿いたし座銭を受るものは同罪。宿いたす迄の者は笞三十、奕座之世話いたすものは笞二十、礼銭を受るもの一等を加ふ。若軽き帯刀人并浮浪之徒犯すは奪刀、庶人と成す。僧尼犯すものは脱衣、追院。其奕場におゐて奕犯を捕へ及び捕へ得ずと雖も官に訴へ告るものは、奕之財物を以賞に充」。

明治3年、明治政府が出した『新律綱領』では、次のように規定されています。

「賭博

凡財物ヲ賭シ、博戯ヲ為ス者ハ、皆杖八十。賭場ノ財物ハ、官ニ入ル。其賭房ヲ開帳スル人ハ、其列ニ与ラズト雖モ、同罪。飲食ヲ賭スル者ハ、論ズルコト勿レ。
若シ産業無クシテ、常ニ帯刀ヲ挟帯シ、無頼ノ徒ヲ招結シ、賭場ヲ開帳シ、四隣ニ横行スル者ハ、皆流一等」。

明治6年の『改定律例』においては、次のように明文化されています。

「賭博条例

第二百六十九条 凡賭博、三犯以上ハ、懲役一年。
第二百七十条 凡賭場現在ノ財物ハ、官ニ入ルト雖モ、其田宅等不動産ニ係ル者ハ、原主ニ還付シ、官ニ入ルゝノ限ニ在ラズ。
第二百七十一条 凡博戯ニ用フル骰子・骨牌ヲ売ル者ハ、賭博者ト同罪。再犯ハ、一等ヲ加ヘ、三犯以上ハ、懲役一年。
第二百七十二条 凡賭博ノ列ニ与ラズト雖モ、母銭ヲ借シ、息ヲ収ル者ハ、犯人ト同罪」。

明治13年の、ボアソナードの指導のもとに編纂された近代的刑法である『刑法』には、次のように記されています。

「第六章 風俗ヲ害スル罪

・・・
・・・
第二百六十条 賭場ヲ開帳シテ利ヲ図リ、又ハ博徒ヲ招結シタル者ハ、三月以上一年以下ノ重禁錮ニ処シ、十円以上百円以下ノ罰金ヲ附加ス。
第二百六十一条 財物ヲ賭シテ現ニ博奕ヲ為シタル者ハ、一月以上六月以下ノ重禁錮ニ処シ、五円以上五十円以下ノ罰金ヲ附加ス。其情ヲ知テ房屋ヲ給与シタル者、亦同ジ。但、飲食物ヲ賭スル者ハ、此限リニ在ラズ。
賭博ノ器具財物、其現場ニ在ル者ハ、之ヲ没収ス」。

近世幕藩体制下の司法・警察官である「非常民」のひとつであった「穢多・非人」は、明治政府の外交上の諸問題(キリシタン弾圧等)の影響で、旧制度の解体に合わせて解体されます。しかし、明治4年の「穢多・非人ノ称廃止」の太政官布告によって、表向き、宗教警察機構としての「穢多・非人」制度が廃止されますが、明治政府は、近代中央集権国家を神道国家にすべく、キリスト教弾圧の方針を徹底しようとします。そして、「穢多・非人」を、「半解半縛」(『部落学序説』の筆者による造語)のかたちで、「警察の手先」として組み込んでいきます。

「穢多・非人」は、明治初期には、近世幕藩体制下の司法・警察官としての職務を、事実上遂行していたのです。

法の執行者としての「穢多・非人」の職務に対する忠実さは、「博奕」・「賭博」についても及んだことと思われます。「旧穢多」は、明治12年頃まで、「博奕」・「賭博」に関与することはないと思われます。あるとしたら、それは、「旧穢多」の先祖達が、近世幕藩体制下において、法に忠実に職務をになってきた歴史を否定し、それを反故にして顧みない場合のみです。

「穢多」=「博奕」という等式は、あり得ない等式なのです。

しかし、日本国家によって、「旧穢多」が「特殊部落民」・「同和地区住民」として、また、「博奕」が「暴力団」として、新たな行政用語として再認識されていく過程で、「部落」=「暴力団」という等式が、行政・政党・運動団体によって唱えられるようになります。

『部落学序説』の筆者としては、「部落」=「暴力団」という等式からかもしだされるイメージを一人歩きさせないためにも、「旧穢多」の末裔である、被差別部落民、同和地区住民は、「穢多」≠「博奕」との認識をもって、部落解放運動の「正常化」を図るべきではないでしょうか。

同和対策事業の認証システムは、行政・政党・運動団体・暴力団等による似非同和行為を生み出すことに結果したのではないでしょうか・・・?  国の同和対策が、本来の立法主旨からそれて、同和対策事業費の適用範囲を拡大していったことが、似非同和行為問題や「部落」=「暴力団」というキャンペーンを拡大再生産させていったのではないでしょうか・・・?

33年間、15兆円の同和対策事業・同和教育事業に群がっていった行政・政党・運動団体・暴力団・新左翼等は、部落差別問題の解消ではなく、その利権漁りに汲々としてきたのではないでしょうか・・・? その証拠に、部落差別の現実は、ほとんど何の解決ももたらすことなく(経済的改善も被差別部落の中の格差を広げたのみ・・・)、部落差別として現存しているのです。「旧穢多」・「特殊部落民」・「同和地区住民」・「被差別部落民」・・・、彼らは、33年間、15兆円の同和対策事業・同和教育事業に群がっていった行政・政党・運動団体・暴力団・新左翼等によって、昔、「賤民」という差別的なレッテルをはられ、そして、今も、「賤民」としてラベリングされ続けているのです。

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