2021/10/04

「高佐郷の歌」にみる穢多の在所

「高佐郷の歌」にみる穢多の在所


少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取

山口県立文書館の研究員・北川健が発掘した、長州藩の近世穢多村の伝承をもう一度とりあげてみましょう。

最初、この伝承が公表されたときには、4カ所が伏せ字になっていました。その後、伏せ字が解かれて、原文で上記のように紹介されるようになったのですが、この伝承の中で、具体的な地名は、「高佐郷」だけです。

「高佐郷」は、長州藩の時代の高佐村のことで、穢多の在所があったのは、その村の一部です。

「高佐郷」は、長州藩の奥阿武宰判に属する19ヶ村のひとつです。19ヶ村のうち、穢多(穢多・茶筅・宮番の総称、上位概念、包括概念としての穢多)の在所は、12ヶ村。戸数10~20が5ヶ村、戸数5~10が5ヶ村、戸数1~5ヶ村が7という、少数点在の地域です。

中国地方の他の穢多村との類似点が多い村ですが、前節でとりあげた西田の「地形からみた被差別部落の立地」の一覧表には、この高佐村はでてきません。高佐郷の穢多村は、ごく一般的な場所にあったのでしょう。

ときどき、北川が、被差別部落の人々に対して、「本当に地名を消していいのか。地名には、被差別部落のマイナスの面だけでなく、プラスの面も含まれている・・・」と指摘されていたと聞いていますが、この高佐郷に伝わる8行詩もそうなのでしょう。

この8行詩を、筆者は、「高佐郷の歌」と呼ぶことにします。

高佐郷の地理的な位置を、前節でとりあげた、『周防國図』・『長門國図』でみてみると、高佐郷から街道を東に行けば、徳山藩・岩国藩や安藝國、西に行けば、萩城下、南に行けば「山口」、北に行けば、石見國にたどりつくことができます。要するに、高佐郷は、江戸幕藩体制下においては、交通の要所でした。しかも、万が一、戦争が発生した場合には、この要所を抑えることで、敵軍が萩城下に侵入してくるのを防ぐことができる格好の場所でした。

長州藩は、「軍事」と「司法・警察」を明確に区別していました。

毛利藩主は、「軍事」に携わる藩士だけでなく、「司法・警察」に携わる人々(穢多もそのひとつ)を大切にしました。特に、戦時ではなく平時にあっては、高佐郷の要所を守っていたのは、「司法・警察」に携わる人々、特に、「穢多」と呼ばれた人々でした。

高佐郷の歌は、その「穢多」たちが自らを歌った歌です。

何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取

「もし、非常事態に直面したときは、高佐郷の穢多たちは、捕り物用の「ひしぎ」・「早縄」・「腰道具」・「六尺弐分の棒」を持って馳せ参じ、街道を通る「旅人」を検問し、その中に強盗が混じっていれば、それを見抜いてすぐに捕らえる。高佐郷は誰一人として村から他村へ抜け出ることはできない・・・」。この8行詩をそう読みますと、この高佐郷の歌は、高佐郷の穢多たちが、自分たちに与えられた職務に忠実に、場合によってはいのちをかけてその職務にあたっている、しかも、その職務の熟練度はすぐれていて、誰ひとりとして、彼らの支配地から逃亡することはできない。あやしいものはすべて捕らえてみせる・・・、そんな自信にあふれた歌ではないかと思います。

高佐郷の歌には、「穢多「たちが、「人の嫌がる仕事を無理やり背負わされて、いやいやその仕事に従事した・・・」というようなイメージは露もありません。彼らは、自分たちが穢多であることを誇っているし、何よりも、責任と使命を持って、与えられた職務に忠実であろうとする姿勢は、今日の警察官のような姿勢です。

いままで、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わってきた人々は、江戸時代の「穢多「といわれた人々は、「人の嫌がる仕事を押しつけられ、下級警察の仕事をしていた」と解釈する場合がほとんどです。

『部落差別を克服する思想』という論文で、従来の通説、「人の嫌がる仕事を押しつけられ、下級警察の仕事をしていた」、あるいは、「警察の手下をしていた」という見解を、正面から否定したのが、その著者、「部落学」の提唱者でもある川元祥一でした。私は、『部落学序説』を書くにあたって、先行研究として、彼の研究に負うところが多いのですが、彼の説を確認してみましょう。

川元は、『日本の警察』(警察制度調査会)から次の言葉を引用します。

「領内の安寧を保持する警保の組織は多少の差異は見られるが、実際に現在の巡査の役職を果たしているのは、主として各奉行の配下に属する同心、岡引、穢多等であって・・・捜査の結果犯人の逮捕の段階になると、これはもはや岡引の役職ではなく、当時これを捕らえることは不浄なこととして極度に嫌い、捕縛を持って岡引に随行した穢多の仕事であった。・・・捕らえられた罪人は、上下の牢屋に入れられ、これが看守もまた、穢多の役・・・」。

川元はこの史料を分析して、「穢多」は、下級警察の仕事、警察の手下としての仕事ではなく、警察本体の仕事「現業的部分の仕事」として認識するのです。私は、川元の見解は、的を射たものであると思っているのですが、川元は、「この仕事の中に差別の対象となる側面と、周辺社会との関係性を示す側面の両方を見るのはむずかしくない」と指摘しながらも、その仕事の故に、「穢多「たちは、差別・排除の対象とされたと結論づける点では、せっかく、「穢多」の本質にたどりつきながら、その瞬間、もう一度賤民史観のまっただなかに鼻柱を突っ込んでしまうようなところがあります。

川元は続けてこのようにいいます。「明治政府は・・・種々の社会的機能を果たしていた部落に対して棄民政策をとる。そのため、歴史の中の関係性が見失われ、差別ばかりが残るのである」。

川元の説は、明治四年の太政官布告によって、「穢多」は、近世的身分から解放されたのではなく、明治政府によって「棄民」扱いされたと主張しているのです。この「棄民」という言葉を、権力者や政治家、学者や教育者は「賤民」という学術用語で言い換えていったのです。川元は、「部落問題は・・・日本の官僚たちの喉に刺さった魚の骨」であるといいますが、まさにそのとおりであると思います。その「刺さった魚の骨」をどう取り除いていくのか、それが、部落差別完全解消につながっていくことになるというのは想像に難くありません。

しかし、川元の研究は、そこで、暗礁にのりあげてしまいます。

「部落差別」は「国家的差別」と言い切るのはいいのですが、切り捨てられた理由として近代警察機構の「強引な欧米模倣」というところへと落ち着いていくところに、『部落学序説』の筆者は、彼の研究が暗礁にぶつかったことを見いださざるを得ないのです。穢多をはじめとする近世警察が切り捨てられた背景は、明治政府による、単なる「欧米模倣」ではありません。筆者は、近世警察が排除されたのは、明治政府と、それをとりまく諸外国との交渉、欧米諸国による、新しい日本政府に対する外交的抑圧、場合によっては、日本が欧米諸国との戦争によって植民地化される、あるいは属国とされる可能性がある事態を回避していく、そのひとつの手段が、明治四年の太政官布告でなかったのかと思っています。川元がいう、「日本の官僚たちの喉に刺さった魚の骨」、それは、日本国家の存続のため、切り捨てたくなかった近世警察を新政府が切り捨てざるを得なかった苦渋に満ちた決断ではないかと思います。筆者が、川元氏に期待するのは、『部落差別を克服する思想』を、政治の問題として徹底して研究してほしいということです。できれば、文化論に逃げないでほしいということです。

穢多の在所は、地理学者が指摘するような、自然災害の危険性の高い場所ではなく、長州藩高佐郷に伝わる伝承のように、近世警察である穢多の、職務遂行のための派遣・配置の場所なのです。国立国会図書館所蔵の『周防國図』・『長門國図』を見て、治安・警察の責任者になったつもりで、警察署や駐在所を配置してみるとすぐにわかるのですが、それは、「穢多「の在所と同じ場所になります。「穢多村」を示す記号や言葉がなくても、この地図をみるだけで、「穢多」の在所がわかるというのは、そういう意味です。

ひとこと、付け加えれば、私は、33年間15兆円という巨額な同和対策事業費は、単なる貧しい社会層に対する救済費ではなく、明治政府の喉にささった刺を取り除くための、「旧穢多」とその末裔に対する国家賠償的性格のものであると思っています。

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