2021/10/04

百姓の目から見た長州藩青田伝説

百姓の目から見た長州藩青田伝説

長州藩青田伝説・・・。

近世幕藩体制下の周防・長門両国に流布されていたという長州藩青田伝説を、部落史の世界に全国デビューさせたのは 、当時、山口県立文書館の研究員をされていた布引敏雄でした。布引が、長州藩青田伝説をどのように受け止めていたのか、彼の主著である『長州藩部落解放史研究』の《長州藩天保二年一揆の一断面-エタ騒動にみる民衆の意識情況-》を読めば大概のことはわかります。

しかし、ここでは、私が調べた長州藩青田伝説をご紹介します。

布引の説だけでなく、他の研究者の説もあわせて検証した結果、私は、長州藩青田伝説を次のように解釈します。

長州藩青田伝説も、ひとつの「伝承」である以上、その中には、歴史的な核(歴史上のなんらかの意味)が存在します。 私は、長州藩青田伝説生成のメカニズムを次のように考えています。

長州藩は、「稲の穂はらみ」の頃、その年の「冷害」・「干害」の可能性を考慮しながら、藩財政安定化のための様々な施策を検討していたと思います。「冷害」にしろ、「干害」にしろ、長州藩に入る税収は、減少してしまいます。長州藩は、最大限に拡大した毛利六カ国といわれた時代から比べると、幕藩体制下では、反徳川に加担したということで、 防長2カ国(周防国と長門国)に、事実上封印されてしまいます。毛利は多くの家臣団を抱え、防長2カ国で毛利存続の方策を立てていきますが、藩財政は慢性的に緊迫したものがありました。

長州藩は、藩をあげて、財政の健全化に尽力しました。

「冷害」・「干害」の被害、米の収穫高の減少ないし激減が想定されるときには、米の収穫高の減少を穴埋めすべく、藩の独占品である、「四白」のうち、米をのぞく三白(塩・紙・蝋)の生産高をあげる努力をしました。藩の独占品は、それだけでなく、「皮革」もありました。長州藩が、「冷害」・「干害」で米の収穫が少ないと判断したときは、塩・紙・蝋・皮で藩収入を増やし、藩財政を潤すための様々な施策がとられました。

つまり、百姓は、藩の独占品の動向をみることで、その年の米の収穫についてある程度予想することができたのです。

米・塩・紙・蝋・皮は、それぞれ藩の「番所」によって監視されていましたが、「皮」ないし「革」を扱う権利を得ていたのは、長州藩の近世警察である「穢多」でした。近世警察である「穢多」自ら「穢多」の家職を監視することは、内部の所業に対してあまい対応になりますので、藩は、その取り締まりを百姓の側の村役人たちに命じたのです。村役人は、「皮街道」に「皮番所」をおいて、近世警察である穢多がその家職である皮革について、法令に背いた出荷をしたり、抜け荷をしたりすることがないように監視していました。

この藩の措置を、「穢多と百姓がお互いに差別し合っている」「差別させられている」と解釈する研究者が多いのですが、藩の措置は極めて合理的です。藩の武士は、ほとんどが萩城下にいて、地方の村々には、穢多と百姓しかいない村も少なくないのですから。

そのような藩のシステムが、やがて、百姓側にひとつの教訓を引き起こします。

「藩が、法令に禁止されている時期に皮の輸送をしているところをみたら、その年の稲作は不作と思え」。それが、やがて、布引がいう「迷信」、「稲の収穫期などに皮革などの「穢」れたものを持ち運ぶと、海が荒れ暴風雨となり、稲の収穫が悪くなるという「迷信」」に発展したのです。

百姓の間には、「原因」と「結果」を逆転した「迷信」が流布していきました。

本当は、「不作になる可能性があるから(原因)、皮を出荷する(結果)」のですが、百姓たちは、「皮を出荷すると(原因)」、稲が不作になる(結果)」と受け止めるようになったのです。百姓たちだけでなく、藩の武士や御用商人たちも同じ「迷信」を共有していきます。

しかし、それが迷信であることは、武士も百姓も知っている人はたくさんいました。

布引は、上記の引用文では「皮革など」を「穢れたもの」と受け止めているようですが、近世幕藩体制下を通じて、「皮」も「革」も「穢れたもの」(犯罪に直接関係したもの)ではありません。皮革そのものが穢れているのではなく、藩の法令に違反して、違法に皮革の出荷や抜け荷をすることが「穢れ」(法的逸脱)なのです。

「賤民史観」にどっぷりと身をつけている布引は、長州藩青田伝説の中に、「部落民と百姓の対立」、「藩権力による百姓・エタ間の差別の利用」を唱え、「差別と迷信は相互に作用し合って拡大してゆく」と主張します。布引の説は、青田伝説の担い手は、無知蒙昧な百姓の間で流布していた「迷信」であることを強調しますが、布引の説は、そのことで、藩の支配者である物産方の武士の側については不問に付していくのです。

布引の説は、「百姓」や「穢多」を蔑視して成り立つ「愚民論」に立っているのです。

布引にとっては、「百姓」や「穢多」なる存在は限りなく愚かに見えるのでしょうか。布引は、民衆を限りなく貶める解釈の方を採用します。

長州藩青田伝説は、もうひとつの伝承と融合することになります。

それは、竜神伝説です。長州藩の瀬戸内海沿岸地域には、いくつかの竜神伝説が伝えられています。その竜神伝説は、2種類あります。ひとつは、「般若姫伝説」にみられるような、荒れた海を静めるために、海の竜神に、人身御供をささげて、船の難破・破船を免れるという話です。もうひとつは、長州藩青田伝説と直接関係のある竜神伝説です。

それは、竜神の住む海に「汚れたもの」、牛馬、牛馬の皮、牛馬の骨、蛇、藁や紙で作った牛や蛇・・・を投げ込むと、竜神が怒って、台風を来らせるという伝説です。現代社会においても、この伝説は意味を持っているように思います。竜神の住む海に、「汚れたもの」、産業廃棄物や生活廃棄物を投与して汚染すると、やがて、竜神が怒って、激しい暴風雨を呼び寄せ、その汚れをどこかに運びさってしまうのです。ついでに、米の豊作も奪いさってしまいます。伝説は、あるいは、伝承を研究するに際して、民俗学者の柳田国男の「事実を基にして考てみる学問、どんな小さな事実でも粗末にせぬ態度、少し意外な事実に出会うと、すぐに人民は無知だからだの、誤っているのだのと言ってしまわずに、はたしてたしかにそのようなことがあるのか。あるならどういう原因からであろうかと、覚り得るまでは疑問にして持っているような研究方法の、国の将来の計画のためにも入用な時代は来ているのである」・・・、という指摘を無視することはできません。しかし、布引は、百姓の言葉には耳を貸したくないかのごとく、百姓の言い分を、史料で確認していながら、ばっさりと切り捨ててしまいます。

もうひとつの竜神伝説は、長州藩の中関周辺に伝わった特異な伝承です。

長州藩は、下関・上関という天然の良港を持っていましたが、幕藩体制下において、幕府から瀬戸内の海上交通の整備のため(長崎江戸間の交通安全を確保するため)、下関と上関の間に港を造ることを命じられます。それで作られた港が丸尾崎港、中関でした。丸尾崎、昔から海路に立ちふさがる難所のひとつでした。

丸尾崎沖の台風の凄さを記録した人に、『幕末日本探訪記』の著者・ロバート・フォーチュンがいます。

彼は、イギリスの蒸気船・イングランド号に乗って、瀬戸内海を東から西へ船旅をしますが、三田尻(中関)に寄港して次の日出港しますが、周防灘で暴風にあいます。その年でいちばん遅くやってきた台風だったのでしょう。彼はこのように記しています。

「特に周防灘は猛烈な強風で知られている。・・・朝から始まった暴風は、午後にはますます激しくなった。風は持続的ではなかったが、恐ろしい突風を起こした。危険を冒して甲板に出ている者を、海中に吹き飛ばすほど烈しいものだった。装置したトライスルは、帆が引き裂かれ、恐ろしい暴力で振り回されて、海に投げ込まれた。まるでブルドッグが猫を引き裂いて振りまわし、怒って投げつけて殺したような光景を想起させた」。

彼の乗った蒸気船・イングランド号は、進路を逆にとり、いのちからがら、「天然の良港」である上関に避難するのです(この天然の良港であり、自然の恵み豊かな海域に、日本政府は原子力発電所を建設しようとしています)。

「正保二年七月、幕府の正使として長崎に下る目付新見七右衛門正信(備中守)の乗船が、台風のため丸尾崎の沖合で難破」することもありました。

この丸尾崎の竜神伝説の信奉者は、「百姓」ではなくて、長州藩の物産方の役人(藩士)と、長州藩の御用商人たちでした。米が豊作であったときは、百姓はこぞって喜びます。しかし、全国的な豊作が予見されたときは、藩の物産方の役人にとっては、不安な日々が続きます。大豊作のときには、米値が下がり、最終的には、藩収入が激減してしまうからです。当然、米を商う御用商人の収入も減ってしまいます。そこで登場するのが、藩と御用商人の収入を増加させるための宗教的儀式・祈願でした。

彼らは、竜神の住む丸尾崎で、ひとつの宗教的儀式をおこないました。

それは、竜神が嫌う「汚れ」を海の中に投げ込んで、竜神を意図的に怒らせ、その結果として、台風の襲来を呼び寄せるというものでした。布引も、当時の民間の史料を使いながら、「産物役所や勝手方等が米価を高騰させるために凶作を祈って・・・蛇と牛の生皮を投げ入れたという風評」を伝えています。また『有武日記』にも、「相場師らが暴風雨を祈った」ことをとりあげています。「藩役人・米商人・相場師らによって米価の騰貴を狙った皮革の海中投入」等は、武士を中心に一般的におこなわれていたのは事実のようです。

布引によって、長州藩青田伝説が引用される場面は、長州藩の天保二年に発生した一揆でした。

藩主の奢侈と、藩の経済政策失敗による藩財政の悪化、増大する赤字を何とか解消しようとして、強引になされる藩の税収拡大策、「お上の命令には下々は従わざるを得ない」という漠然とした期待感のもと、藩は、信じ難い奇策さえ採用するのです。一揆のとき、長州藩を旅していた人は、百姓の立場からこのような記録を残しています。「銘々寒暑の厭いなく農業出精し候も、何卒豊作致し、年貢上納滞りなく仕候て、其余を以て親・妻子を養ひ申すべしと存候処、凶年を祈り斯様の事を仕出だし候事、天理・人事に相背き申候。」(『浮世の有様』)

 

長州藩青田伝説という伝説を「迷信」として信じていたのは、実は、百姓の側ではなくて、藩の支配者の側であったわけです。百姓が、暑さ寒さに精を出し、米を作ってきた。藩にささげる年貢は百姓一同、滞納することなく納入してきた。今年は、豊作で、少しは家族に贅沢をさせてやれると思っていたとき、藩の役人が、百姓の豊作祈願を台無しにするように、丸尾崎に汚れたものを投げ捨てて竜神を怒らせ台風を呼び寄せる「風招き」の所作をしたという、藩の財政さえ潤えばいいという、百姓のささなかな生活を犠牲にして省みない藩に対する百姓側の怒りを伝えたものです。「天理・人事に相背き申候」という訴えは、「迷信」にとらえられて、政道のあるべき姿を忘れた藩権力に対する百姓の直訴の内容を伝えています。

布引は、百姓の、この「凶年を祈り斯様の事を仕出だし候事、天理・人事に相背き申候。」という一文は紹介しないで、闇の中に葬り去ってしまいます。そして、天保一揆は、百姓の間に伝えられていた「「迷信」に端を発していた」と主張するのです。布引は、「「迷信」に百姓らは完全に束縛されていた」と断定するのです。

「賤民史観」(「愚民論」)にどっぷりと身をつけている布引は、「穢多」たちに対してだけでなく、「百姓」に対しても、負の部分をすべて強引に押しつけます。歴史学者として、正当な史料批判の手続きを経ないで、また、伝承の恣意的な解釈をすることによって、歴史の事実とは異なる世界を捏造していきます。

布引の牽強付会的な解釈によって、史実とは異なる解釈が、「賤民史観」の世界、「部落史」の世界で一般化・普遍化された例は2、3にとどまりません。彼の部落史研究のすべてに渡って、同様の姿勢をみてとることができるのです。

山口県の部落史の研究家や教育者は、「布引を批判してはいけない」とよく言います。

それは、「山口県で部落史を本格的に研究したのは布引だけである」という「共通認識」にあります。長州藩の部落史を研究してきた「仲間」は、「布引とその説を守らなければならない」というのです。彼らによると、布引を批判すると、「左」の立場を離れて、論争の敵である「右」に利することになるというのです。「研究者」の口から何度も耳にした言葉です。

しかし、私は、由緒正しき貧百姓の末裔です。百姓を限りなく貶める解釈しか採用しない布引は、当然批判の対象になります。「賤民史観」は、「穢多」だけでなく「百姓」にも向けられているからです。天保一揆を起こした百姓に対して、『毛利十一代史』は、本藩・枝藩を問わず、「土民」という蔑称で呼んでいます。布引の中にも、それをとりまく学者や研究者、教育者の中にも、長州藩の権力側に身を置いた人々と同じ発想があるのかも知れません。百姓の末裔でしかない、現代の無学でただの人でしかない私は、布引に組することはできないのです。

私の目には、布引は「左」ではなく、限りなく「右」に見えるのですが、学歴も資格も、地位や名誉も持ち合わせていないただの百姓の末裔にとっては、「左」も「右」も関係がありません。必要なのは、歴史の真実だけです。よくもわるくも本当の姿を知りたいだけです。

次回は、布引敏雄の「賤民史観」と「穢れ論」を批判します。


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