2021/10/03

「村境」の変貌

「村境」の変貌


近世幕藩体制下の「村」は、明治4年頃までは、そのまま継承されていきます。明治4年8月、「太政官布告第61号」が出されることによって、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての最後の身分が廃止されました。

その布告は、「えた非人等の称廃され候条、自今、身分職業とも平民同様たるべきこと」として出されました。

『明治維新と部落解放令』の著者・石尾芳久は、「身分と職業とがなぜ併記されているのか」、問題があるといいます。「身分を解放すればいかなる職業を選ぼうと自由なわけなので、平民同様の身分と職業を持つというように限定した理由は何か、ということが問題になる」といいます。

近世幕藩体制下の「身分」は、「役務」と「家職」(職業)から成り立っていることは既に説明してきたとおりですが、太政官布告が、「身分」と「職業」を併記するとき、それは、「身分」からの解放が、「役務」と「家職」(職業)のうち、「家職」(職業)のみに限定されたと解釈されます。つまり、太政官布告によって、「家職」(職業)は明確に自由になったことが宣言されたけれども、「穢多」の「役務」については、ひとことも言及されず、あいまいな状態に置かれた・・・と解釈されます。

私は、明治4年の太政官布告の特質は、「半解半縛」であったと思います。

「半解」というのは、「役務」と「家職」(職業)のうち、「家職」(職業)のみが解放されたこと。「半縛」というのは、旧穢多の「役務」について一切の言及がなされず、あいまいな状態に置かれたこと。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」が、近代明治政府によってどのように位置づけられたのか、きわめてあいまいであっことが、明治以降の、旧穢多・新平民に対する差別の温床につながっていったのではないかと思います。

このことは、後日あらためて論ずるとして、明治4年の太政官布告によって、同心・目明し・村方役人についで、近世幕藩体制下の「穢多」身分の称が廃止されたことによって、近世幕藩体制下の「村」はその性格を大きく変えていきます。

近世の「村」が、近代の「村」へ、そして、大日本帝国憲法下の地方自治制度の基本的な共同体としての「部落」へと変遷していきます。その尤も大きな変化は何であったのか、「村境」を中心に考察してみましょう。

近世幕藩体制下の「村」と「村」の境を「村境」といいます。

筆者は、「村境」も二重定義の概念であったように思います。ひとつは、「点」としての「村境」と、もうひとつは、「閉じられた線分」としての「村境」です。

「村境」は、「点」であったのか、「線」であったのか、歴史学者や民俗学者の間でその是非をめぐって論じられてきました。しかし、その議論は、平行線のまま、未解決の状態で今日に至っていると思われます。

学歴も資格もない筆者は、そのような学問的葛藤から自由になって、二重定義された「村境」の意味を大胆に整理してみたいと思います。

「村境」について、優れた著書である、赤坂憲雄著『境界の発生』があります。赤坂は、近世幕藩体制下の「村境」は、「点」として存在していた・・・と、考えているようです。

赤坂は、民俗学者・折口信夫の『民族史観における他界観念』(全集第16巻)の一節を引用します。

「一体地境は相接した地の何れに属するかと言ふことになると、議論が出るが、此は境の観念が変わった為に起こったことで、両方のいづれにも属せぬ地境の様なものを想像して居たのである。だが、本来は、ここから向こうまで、又向こうからあれまでといふ風に見とほしの地物を連ねて考へていたのでは、実はなかった。中間にどちらから来ても、ふみ越えねばならぬ地帯があり、此が空虚-想像の上にばかりあったことも多い-な所である。坂といふ後は、此に関連している。坂を間において二つの土地の関係を考へる時に、さかふという語を思ふようになった。其観念的な語から具体的な地域に表して考へた時、さかひと言ふ語が使われるようになった。其境は横に山の尾や、地点を通し連ねて物を観察する語ではない。その道の堺になった地点だけを言ふのである。道の通過する地点以外に神の固めている所はないが、-人はさう言ふ地点と地点とを横に連ねて、境界線といふやうな脊梁地帯を考へる様になったに過ぎない。だから境は線ではなく点であったと言へば、少し比喩に近い言ひ方になるが、大体間違ってはいない」。

折口は、「村境」は、「線」ではなく「点」であったといいます。

しかし、筆者は、近世幕藩体制下の史料を検証していくうちに、「村境」は、折口や赤坂が指摘するように、「線」ではなく「点」であったと、あれかこれかを突き詰めて、一方を受け入れ、もう一方を斥ける論理というのは、一面的ではないかと思われるのです。

近世幕藩体制下の「村境」は、二重定義の概念で、「点」でもあるし、「線」でもあるのです。少しく史料を集めれば、近世幕藩体制下の「村境」を「点」として描くことも、「線」として描くことも可能なのです。

まず、「点」としての「村境」を論じて、のちに、「線」としての「村境」を論じてみましょう。

【点としての村境】

長州藩の『地下上申絵図』では、「村境」は「線」として、地図上に図示されています。一方、『御国廻御行程記』では、「村境」は「点」として表現されています。

山口県立文書館発行の『絵図でみる防長の町と村』には、この『地下上申絵図』や『御国廻御行程記』から、長州藩の主要な村の地図が収録されています。この、『絵図でみる防長の町と村』は、山口県の公立図書館にもれなく配布されていますから、誰でも閲覧することができます。


「凡例」には、このような記述があります。

「原本はいずれも近世封建期のものであるので、その記載内容と表現には当時の身分制度にもとづく差別的な事象と表記が含まれています。このため本書では、これらの差別の撤廃に沿うよう、特定の身分・集落・職業にかかわる差別的な表記としての文字・図象については、一定の配慮と措置を講じました」。

つまり、山口県立文書館発行の『絵図でみる防長の町と村』は、原本が改竄されているので、一般の人は、その地図を見ても、どこに被差別部落が存在しているのか認識できない・・・ということを意味しています。

「特定の身分・集落・職業にかかわる差別的な表記」というのは、地図上で表記された「穢多」を含む記載のことであると思われます。山口県立図書館に行けば、原本を自由に閲覧できるわけですから、長州藩の「穢多」の在所を知ろうと思えば、簡単に知ることができるのです。

しかし、筆者は、山口県立図書館に通う時間的ゆとりをほとんど持ち合わせていなかったので、公開された資料を検証して、「穢多」の在所を推定することになります。『絵図でみる防長の町と村』を手がかりに、「穢多」の在所を知るてがかりのひとつに、「村境」があります。

『御国廻御行程記』では、「穢多」の在所は、「村境」を示す表記と記号で記されています。表記というのは、岩国藩を例にとると、「岩国村・関戸村村境」、「関戸村・錦見村村境」・・・と、記され、家一軒分と同じ大きさの赤く塗りつぶされた●で表現されているのです。「村境」は、まさに、「-」(線)ではなく、「●」(点)でしるされているのです。

「●」(点)としての「村境」とは何なのでしょう・・・。

《岩国領の被差別民について》の著者・宮田井津美は、「村境」には、「番固屋」が配置され、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」(この場合は、「集団を離れて各地に散在する」道の者・茶筅)が勤務していたといいます。「●」(点)としての「村境」は、近代以降の表現を使用すれば、「駐在所」が配置された場所であったのです。

多くの場合、「●」(点)としての「村境」は、「穢多」の役務遂行の勤務先になります。「穢多」は、近くにある彼らの在所から、その番固屋に毎日勤務していたと思われます。「穢多」に対しては、その「役務」の代償として「日別米一升」の給与が支払われています。

要するに、「●」(点)としての「村境」は、犯罪を未然に防止したり、犯罪が発生した場合の取締りをしたりする拠点になった場所なのです。この「●」(点)としての「村境」は、近世幕藩体制下の支配者の側から見て、非常に重要な「役所」のひとつであったのです。「村境」に勤務する「穢多」は、さまざまな検問・探索・捕亡の近世警察の職務に従事していたのです。「穢多」は、凶悪犯逮捕の際には帯刀することもめずらしくありませんでした。「●」(点)としての「村境」は、長州藩の主要街道の重要な拠点にくまなく配置されていたのです。

『瀬戸内の被差別部落(その歴史・文化・民俗)』(解放出版社)の著者・沖浦和光は、「大三島などの比較的大きな島には、村から村への街道筋、特に村の入口には必ずと言ってよいほど部落があったが、これらの地区もやはり警固役が主たる役務であった」といいます。

沖浦は、またこのように語ります。「広島藩では・・・街道筋や川筋に一定の距離をおいて点々とある。あるというよりも、配置されていると言った方が適切であろう」といいます。「藩の命令によって、もともと住んでいた所から、街道筋や村境、河原や山裾などに強制的に移住させられた「かわた」集落もあったのではないか・・・」といいます。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、「穢多」が、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」のひとりであったことを、限りなく否定します。そして、「穢多」は、読んで字のごとく、「穢れ多い」存在として、差別され排除されていた身分外身分・社会外社会とするのです。筆者は、「賤民史観」の解釈は、「穢多」の歴史の真実を覆い隠すものであると考えています。

明治4年に至るまで、近世幕藩体制下の村に存在していた「村境」は、歴然と存在していと思われます。しかし、明治4年の太政官布告によって、「村境」を守る「穢多」は、排除されていきます。「穢多」のいなくなった「村境」・・・、それは、もはや「村境」ではありませんでした。明治4年以降、「●」(点)としての「村境」は廃止されていくのです。すべての国民は、この「村境」を自由に越えることができるようになるのです。「村境」を警固していた「穢多」についても同じことが言えます。

この「村境」は、明治政府によって、政治的に廃止されていきますが、中世・近世の時代を「村」の中で生き続けてきた「百姓」にとっては、その生活と内面世界に、「村境」は生き続けることになります。権力装置としての「村境」は消滅し、近世・中世と悠久の時間の流れの中でつちかわれ、「百姓」・「村人」にとって、習俗・慣習となった「村境」は、「村人」の心の中に生き続けることになるのです。

明治4年の太政官布告以降、「村境」にまつわる「穢れ」(法的逸脱)は廃棄され、近世幕藩体制下の「特別な場所」(波平恵美子著『ハレ・ケ・ケガレ』)「村境」は、単なる習俗・慣習に変質し、「心意的な村境」(『民俗学探訪事典』)にその内容を大きく変えていくのです。

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