2021/10/03

近世法と穢多

近世法と穢多


明治以降、日本は様々な分野で「近代化」を指向してきました。その「近代化」は、往々にして、日本古来の政治・文化を棄てて、欧米諸国の政治・文化の模倣を引き起こしました。模倣を繰り返している間に、日本古来の政治・文化に関する知識は忘却のかなたに追いやられてしまいました。忘却されないまでも、「欧米化」された政治・文化の輝きの中で、昼間のたき火の炎のように、極めて存在感の薄いものにされてしまいました。

明治以降の社会の中で、忘れられていった古き時代の政治・文化の美風は、近代化・欧米化に彩られた学者の批判によって、否定されるか、歪曲・萎縮され、今日、通説という「歪んだ形」(大木雅夫)をとることを余儀なくされたものが少なくありません。

『部落学序説』に「「非常民」の学としての部落学構築を目指して」という副題をつけた筆者は、部落差別も、日本固有の司法・警察制度が否定され、明治以降の近代司法・警察が構築される中で、否定・歪曲・萎縮され、本来の「穢多」とは似ても似つかぬものにされた結果であると考えています。

部落差別完全解消につながる希望は、明治以降の学者によって、否定・歪曲・萎縮される以前の本来の「穢多」の姿を取り戻すことによって手にいれることができると信じています。

『日本人の法観念西洋的法観念との比較』の著者・大木雅夫は、「法史学」の分野で、同じことを主張しています。

大木は、「近代化を西洋化と同義のものと心得て専心西洋に追従する路線」に沿って日本の法史学が研究されてきた結果、「われわれ自身の日本法ですら西洋法学のレンズを通して研究されなければならなかった」と指摘しています。「そしてとりわけ日本法史はその盲点をなし、少数の専門家以外の日本の法学者たちにとって、外国法継受以前の固有法は、ほとんど忘却の彼方に押しやられたといってよい。」といいます。

大木は、さらに、「文化は連続的に発展するものでありながら、日本法文化を論ずる際に日本固有法を無視してよいとする奇妙な習癖の結果として、われわれの間に行われていた「通説」は、かなり歪んだ形をとっていたといわざるをえないのではなかろうか。」といいます。

大木は、「あとがき」で、「われわれ日本人は、われわれ自身の日本法を知ることの難しさを思わせられる」といいますが、筆者は、「日本法」だけでなく、その「日本法」の法の執行者であった、「同心・目明し・穢多・非人」という、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」についても、同じことを感じざるをえないのです。

「本書の主題は、早くからわたくしの脳裏に去来していた。そしてこれほど先人に多く教えられながら、これほどわたくしを混迷の淵に押し沈めたテーマはない。通説が晦渋で曖昧だったからではない。むしろそれがあまりにも明快で、揺るぎなく確立されていたからである・・・。」

大木が、『日本人の法観念西洋的法観念との比較』執筆に際して直面した様々な事象は、『部落学序説「非常民」の学としての部落学構築を目指して』の執筆を指向している筆者にとっては、かけがえのない先駆者でした。民俗学の分野では柳田国男、小説・歴史の分野では島崎藤村、法学の分野では大木雅夫・・・、学歴も資格もない、「無学なただのひと」でしかない筆者にとって、彼等は、尊敬すべき師でした。そして、今も・・・。
通説に反する研究は、「はかり難く困難なものであるだけに、今後各方面から種々の視点に立って、さまざまの方法を用いて解明されるべきもの」なのですが、最初に通説を覆そうとするものは、ひとりで、その作業を遂行しなければなりません。

大木は、ヨンパルト教授の言葉を引用してこのようにいいます。「「学問とは、箱のようなものである。われわれは、箱の外側をよく知っているが、その中身は知らない。それを開ける試みに成功しても、内にはまだ中身のわからない箱が入っている。」・・・そして、一つの鍵で全部の箱が開けられないことも、わたしはよく知っている」。

箱の中に箱、またその箱の中に箱、またまた箱の中に箱・・・。筆者の、『部落学序説』が、章・節・項毎に、「種々の視点に立って、さまざまの方法を用いて解明」しようとしているのは、『部落学序説』の提唱者として、できる限り多くの「箱」をあけて、部落差別完全解消への希望を提示したいと思ったからです。

大木は、「日本人の権利意識が一般的に萎縮したのは、想像以上に近い過去-恐らくは明治以降に求める方が真実に近いとすら思えるのである」と主張します。大木によると、権利意識の萎縮は、明治以降の知識人による「よらしむべし、知らしむべからず」という主張に見られるといいます。

「よらしむべし、知らしむべからず」という言葉は、孔子の「民可使由之、不可使知之」(論語)を「曲解した・・・近時の学者」に由来するというのです。明治以降の学者は、「単に民に対して法令に従わせることはできるが、その立法理由を理解させることはできないという慨きを表現したにすぎない」孔子の言葉を、近世幕藩体制下の各種法の立法趣旨として解釈してきたというのです。

明治以降の法学者によって、日本固有の法は、著しく疎外され、拒否・歪曲・縮小され、その輝きを失ってしまいます。

大木は、「通説」を否定し、「通説」の彼方にある、日本固有の法の輝きを取り戻そうとするのです。
大木は、「通説」と異なって、日本人は「権利義務の用語こそ用いなかったにもせよ、実質的には訴人も論人も理非の弁別を求め、権利義務の争いをしていたに相違ないとわたくしは考える」といいます。「一般民衆の間ですら・・・強烈な、西洋人とさして異ならない、権利意識があったことは、史実に照らして明らかである。」と確言します。

明治以降の学者によって、「鎌倉時代における恩顧と奉公の道徳が過度に強調され、江戸時代における義理人情の美風があまりにも宣伝される場合に、日本文化は、いかにも義務中心の法文化であるかのように見えるのである」。「・・・通説は、この誇張や宣伝による脆弱な基礎の上に立てられているのではなかろうか。わが国の実証主義的史家は、むしろそれぞれの時代における強烈な権利意識の存在を指摘している」というのです。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての、同心・目明し・穢多・非人に関する考察は、彼らの法意識や法観念が正当に評価されるときにのみ、法の執行者としての彼らの歴史的存在の意味が明らかにされ、明治以降の近代化・西洋化の流れの中で輝きを失ったその輝きを取り戻すことができるのです。近世における「法意識」・「法観念」が大木の指摘する通りなら、それに基づいてなされる司法・警察としての「非常民」である、同心・目明し・穢多・非人も本来の輝きを取り戻すことができるのではないかと思うのです。その結果として、部落史の「通説」の背後に押しやられ隠されてしまった歴史の真実を取り戻し、私たちの社会から、私たちの子孫の生きる社会から、部落差別を完全に取り除くことができるのではないかと、私は思うのです。

『部落学序説』(「非常民」の学としての部落学構築を目指して)を、ブログ上で書き下ろしをはじめて、3カ月が既に経過し、書き下ろした文章も30万字を既に越えました。

しかし、なぜか、この『部落学序説』に対して、ほとんどコメントらしいコメントは寄せられていません。不思議と言えば不思議です。なぜなのでしょう・・・。

筆者にとって、こころの中の師である大木雅夫は、その「はしがき」でこのように語っています。

「久しく西洋を学んできた者にとって、西洋のレンズを通さずに、自己の立場から世界を観察することは、容易ならざることである。したがってわたしくは、差し当たり西洋の学問の方法に従い、「極東」のような、西洋における既成概念を利用しながらも、せめて自分自身を見失うことなく、わたくし自身の立場から日本法を見直してみようと思いたったのである。

このことは、しかし、わたくしに途方もない課題を課するものであった。西洋における学問的方法の基礎には批判精神があり、祖述よりも独創を尚ぶ気風があるかぎり、それは、わたくしを駆り立てて、通説批判への道を歩ませることとなったからである。しかもその通説たるや、これまでのわたくしの学問的生活をはぐくみ育ててきたものである。それはあたかも、新しい生命を産みだすために母鶏が胎内でつくり、自らの温もりを与えて温めた堅い殼のようなものである。しかし、雛は、そのなかで力の限りもがき闘ってその殼を打ち破るのでなければ、新しい生命を得ることはできない。

非力の雛は、間もなくもがき始るであろう。突破口を模索して無駄な努力を繰り返すであろう。もちろん今は忙しい時代であるから、要するに生まれたのか生まれなかったのかを早く知りたいと思われる向きがあっても不思議ではない。本書を読む場合にも似たところがあって、もし読者がわたくしの主張をしりたければ、最後の章の「総括的考察」を一読してから最初に立ち戻るのも一案であろう。しかし、比較法学を愚者の学とするツヴァイゲルト教授のことばの意味を正しく理解される方々に対しては、願わくば冒頭からわたくしの模索の跡を心静かに読んでいただきたいと思う」。

大木雅夫は、1931年福島県生まれ、東京大学法学部卒業、上智大学法学部教授のときこの書を出版、現在、聖学院大学・大学院、政治政策学研究科教授。無学歴の筆者は、当然、一面識もありません。高等教育を受けることが可能であったなら、筆者は、必ず受講して、質問ぜめにしたことでしょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...