2021/10/03

真の人生、真の学問を求めて

真の人生、真の学問を求めて


2005年5月14日、初めてブログ上で、『部落学序説』を書き始めました。約3ヶ月半に渡って、102個の文章を書き続けました。すべて書き下ろしの文章です。

短期間でこんなに長い文章を書くのは、筆者にとって、初めての経験です。

筆者が所属している宗教教団の教区の中では、ここ数年、年度報告の中に、『部落学序説』執筆の予告をしてきました。同和対策事業終了後、「ほとんどの人が部落問題あるいは同和問題から手を引いていく段階で、いまさら何の論文を書くのか・・・」、疑問の声を聞きましたし、私がこの『部落学序説』を書くことを期待しておられた方から、「早く書き上げたら、部落問題から手を引いてほかの研究をした方がいい・・・」と忠告の声も耳にしました。

1冊の本にすべく、何度も試作を繰り返していたのですが、今年に入り、ブログの存在を知り、ブログ上で『部落学序説』で書き下ろすことにしました。

筆者は、本来、文章を書くのが苦手で、原稿用紙10枚程度の文章を書くにも「七転八倒」していました。しかし、文章の長短はありますが、ふと気がつくと、作成した文書数は100を超えていました。もとより文芸作品を書く積もりはありませんでしたので、淡々と事実を伝えればそれでいいと、キーボードをたたき続けました。下手な文章ほど長くなる・・・という人もいますが、まさにそのとおりです。

新書版3冊分をはるかに超える文書量となりますと、個人出版は絶望的です。それなら、全部、ブログで読んでいただこうと思ったのが間違いのもとだったのかも知れませんが、文書量はさらに増えていきました。

しかし、文書量が増えれば増えるほど、伝えたいことの数パーセントもお伝えできていないもどかしさに、途中、気が焦って文章が乱れることがしばしばありました。

山口の地に赴任して二十数年間、同和問題や部落問題にかかわって、具体的に知った同和地区やその運動団体から、「わたしたちのことは一切触れないで欲しい・・・」といわれた時には、この『部落学序説』は流産の危機に直面しました。

しかし、筆者が、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の話から受けた衝撃が、歴史の真実に根ざすものなら、長州藩領の中から傍証を求めずとも、日本全国に散在する資料や伝承から証明すればいい・・・と思うようになりました。ある種の居直りの思いを持つことができるようになると、精神的にはかなり楽になります。歴史の真実は、民俗学者の柳田国男がいうように、決して隠されたままではいないのですから、どこかに、その真実のかけらが、文書や伝承の言葉の陰に隠れているはずだと、時間をかけて資料を漁ることにしました。

休日には、妻と二人でドライブして、山口県の被差別部落を訪ねました。といっても、個人的に誰かを訪ねて話をお聞きするというわけではありません。

同和地区の方から、「有名な学者の人が書いてくれるならともかく、無名のただの人に書いてもらっても何の役にも立たない」といわれたことが、学歴も資格も持ち合わせていない筆者の脳裏にはそのことばがいつのまにか刻み込まれていたからです。

筆者が所属している宗教教団の同和問題担当部門のトップ、被差別部落出身の彼は、「あなたが、部落の人から信頼されていない証拠だ」と強調します。

しかし、長州藩の「穢多村」の探索方法が自然に身についてくるようになると、歴史にその名を残す被差別部落の人々が生きた自然や村の姿をイメージすることができるようになってきます。

「この街道沿いに往還松があったはずですが、ご存知ないでしょうか」とたずねると、切り株のあったところに案内してくれます。草むらに隠れて、通りすがりには発見できません。しかし、往還松があることがわかると、この松の高さを○○メートルと推定して、それが二階の部屋から見える家は・・・、「ああ、あの家がそうだ」とその家の庭から南の方を見ると、文献に記載された通りの山が見える。近くを通りかかった人に、「あの山、何ていう山ですか」と尋ねると山の名前を教えてくれます。こんな方法で、歴史上の有名な被差別部落出身の実家を探し当てました。最後は、お墓の所在を確認すれば、この調査は終わりです。そして、春夏秋冬、晴れの日も雨の日も、その家の周辺を訪ねて、小さな種から結晶をつくるようにイメージを構成していきます。

筆者のなかにある潜在的な差別意識は消え去り、被差別部落の昔の記憶に1歩近づいたような気になります。

穢多の末裔たちは、直接、彼らの生きていた被差別部落の名前に触れなくても、さまざまな情報を発信し続けていたのです。「この人たちが黙れば、石が叫ぶ」(新約聖書)のです。石だけではありません。空も、雲も、山も、木々や草花も、そして、古い街道の町並みや辻も、いろいろなものが、「穢多村」の在所であることを、筆者に語りかけてくるのです。

川を挟んだふたつの被差別部落。ひとつは、同和対策事業がなされて立派な家が立ち並ぶ。川を挟んだ反対側の被差別部落は未指定地区で事業がほとんどなされなかったようで、昔ながらの家並みが立ち並ぶ・・・。なぜ、地区指定を受けて同和対策事業の恩恵に与らなかったのか・・・。一度、話を聞きたいと思いながら、そのときが訪れるのをじっと待ち続けます。

『部落学序説』を書くのに、長い時間がかかったのは、そのような時間の積み重ねをしていたからです。

長州藩の「穢寺」のひとつを尋ねたとき、その寺の住職は、「私たちのことを話す前に、あなたのことを知りたい」といわれました。その住職の寺のことについて話をお聞きするわけですから、私が所属する教会のことについても、ありのまま話をしました。

前任者が自害したと噂される教会で、信徒も、そんな教会に明日はないといって、教会を捨てて去っていってしまったこと、近所に人は気味悪がって教会に近寄らないこと、今は、それでも教会を離れず、教会を支えているごくわずかな人と礼拝を守っていること・・・、そんな話をしたとき、その浄土真宗の僧侶は、「そうですか、それで、あなたは被差別部落の人の気持ちがわかるようになったのですか・・・。浄土真宗の寺でも、僧侶が自害したと噂されたら、なりたちません。この寺は、近世に穢寺といわれていた寺が廃寺になり、その寺の歴史を引き継ぎました。それは、昔の話になりますが、あなたは今現在重荷を負わされているのですか。分かりました。あなたが聞きたいということは、全部お話ししましょう・・・」といって、話をしてくださいました。その浄土真宗の寺を訪ねてお話をお聞きしたのは数回ですが、その前に、1年間、春夏秋冬、その寺の立っている村や自然を訪ねました。お話を聞くことができたあとも何度となくその村と浄土真宗の寺を尋ねました。寺の境内から見る秋の夕日、初雪が舞う冬の境内・・・、村はずれで聞いたその寺の鐘の音・・・、筆者の「穢多村」や「穢多寺」のイメージは、頭で獲得したものではなく、足で獲得したものです。それらの風景は、「差別意識」をはねつける生きる力に漲っています。

フランスの小説家アンドレ・ジイドの『田園交響楽』の中で、幼いとき失明した女の子が青年になって手術を受け視力を回復する場面があります。その女の子は、記憶に間違いがなければ、このようなことを語っていました。「目が見えるようになったとき、ありとあらゆる光が目に飛び込んできました。自然は美しい・・・。しかし、同時に、人間の表情が湛えている悲しさも見えてきました・・・」。

ドイツの小説家ゲーテは、その著『ファウスト』の中で、「人生は彩られた影の上にある」と語りました。どのような人の上にも、七色の光が注がれているのです。それぞれの人生の季節にふさわしい光を浴びて生きているのです。

ニーチェは、無神論の代表的な哲学者のように言われます。しかし、筆者が高校生のとき呼んだ感想では、ニーチェは決してそのような言葉だけで表現できるような人物ではないと感じていました。彼はこのような言葉を残しています。これも私の記憶の中の言葉です。長い間に多分に変形されてしまっているかも知れません。

「この美しい夕暮れ時には、この世で最も貧しい漁師ですら黄金の櫂で舟を漕ぐことになる・・・。神の恵みを思ってさめざめと泣けてきた・・・」。

被差別部落の人々の差別の原因は、自然や村や、目に見える環境にあるのではない。差別は、人の表情の中にある・・・。人の表情は、その人の知・情・意識の凝縮したものがにじみ出てきたものだから、目は口ほどにものをいうのかも知れません。「視線」・「まなざし」から差別的なものがなくなると、被差別部落に伝えられた「伝承」がいろいろと昔の記憶を語り始めます。

最近読んだ文庫本の中に、このような言葉がありました。「ニーチェはわたしにとって一つの啓示でした。わたしがそれまでに教えられてきたのとはまったく異なる人がいるとわたしは感じたのです」。そう語ったのは、『自己のテクノロジー』(岩波文庫)の著者ミシェル・フーコーです。

彼は、《心理・権力・自己》という論文の中でこのように語ります。

「真の学問と偽りの学問との相違を、あなたはご存知でしょうか? 真の学問は自らの歴史を認めて受け入いれる・・・」のです。

「学問」をアドホック(間に合わせの言葉)として、ほかの言葉に置き換えてみると、いろいろな視座が見えてきます。

「学問」の代わりに、「部落史」・「部落民」等と置き換えてみてはどうでしょうか。

試行錯誤したら、「学問」の代わりに、あなたの名前を代入して読んで見られたらどうでしょうか。筆者が、このブログを読んで下さった皆様に一番訴えたいことが見えてくると思います。そうです。自分自身の「所与の人生」から逃亡してはいけないのです。「所与の人生」がどんなに暗い闇に閉ざされているように見えようとも、悲しみや苦しみに浸潤しているように見えようとも、生きる価値のない人生に見えようとも、決してそうではない、私たちが生きている人生は、誰でも、「色どられた影の上にある」のです。自分自身さえ気がついていない、「色どられた影の上にある」のです。その光を見つけるには、「所与の人生」から逃亡しないこと、「所与の人生」に立脚し、それを引き受けて生きていくことです。

次回から、第4章に入ります。

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