2021/10/03

渋染一揆の時代的背景

渋染一揆の時代的背景


私は、岡山県児島市琴浦町出身です。

琴浦町というのは、昔から繊維の町として有名です。私が小学生の頃は、学生服の生産・日本一と言われたところです が、琴浦町では、男性でミシンが踏める人も少なくありません。というより、男性もミシンが踏めないと、この町では生活できない・・・、そんな雰囲気のある町でした。

私の母も、父の事業が倒産した頃から、内職でミシンを踏んでいました。その頃は、電動ミシンではなく、足踏み式のミシンでした。琴浦町で生まれた子どもは、子守歌がわりに、ミシンの音を聞いて育ったように思います。

私は学生服の町で生まれ、学生服の町で育ったわけです。

小学校3年生のときでしたか、参観日のときの授業は、家庭科の時間でした。担任の教師は、家庭科が専門の教師で、母親の前で、このような話をしました。「これから、うんしんをします。私に勝ったら、成績5をあげます」。親と子どもの間にざわざわと動揺がひろがります。

全員立って、手が疲れてうんしんができなくなったら、席に座るのですが、そのとき、最後まで、うんしんを続け、担任の教師がその手を止めたときにも、運針を続けていたのは、私ひとりでした。

担任は、「約束通り、あなたに5をあげます。」とみんなの前で約束しました。

そのとき、うしろで、授業を観察していたおかあさんたちの間から、「いいな、あの子、養子にほしい・・・」というような言葉が聞こえてきました。

その学期の終り、家庭科の成績は、やはり5でした。

しかし、それは、当然と言えば当然でした。父の事業の倒産のあと、母は内職の時間を増やし、くる日もくる日も、ミシンを踏んだり、糸つみをしたり、ボタン付けをしたりしていたからです。忙しいときは、私も、その内職を手伝わされました。毎日、毎日、針とはさみを使っていれば、運針が上手になるのは当たり前です。

学生服の町で育った私は、「制服」というものに違和感を感じません。

戦後、「制服」か「私服」か、教育上の問題になったことがありますが、私は、一度も、制服反対論に賛成したことはありません。「制服」に反対することは、私には、何か、ふるさとに反対するような響きがあります。

山口県のある宗教教団に赴任してきて、しばらくたった頃、キリスト教会の牧師が、制服反対運動を展開しているとの報道がありました。その報道の司会者は、山口県の学校教育の現場に制服を持ち込んだのは、下関にある梅光学院であることを紹介していました。昔は、制服に賛成、今は、制服に反対・・・、時代が変わると、主義・主張も変わるようです。

私の知人に、娘さんを大坂に嫁がせている人がいます。彼は、娘さんから、小学生の「制服」の話を聞かされたといって、なんとなくショックを感じているようでした。

娘さんの話では、大坂の小学校では、制服を採用しているところもあれば、私服を採用しているところもあるといいます。「制服」は高価なので、普段着の私服で通うことができれば、親は楽になると言われていたのは昔のことで、今の小学生は、小学生同志で、自分の着ている「私服」の質、ブランド名を競いあうというのです。上着・下着・靴下・靴・鞄・・・、どれだけ有名なブランドを身につけているかを競っているというのです。自分の子供を、友達の家に遊びにやるときには、その身なりに気をつけないと、相手の親から、「安物を身にまとっているところをみると、親の生活水準は・・・」と判断されて、友達つきあいを断られる場合もあるというのです。

私は、柴田一著『渋染一揆論』を読んでいると、「渋染・藍染」は「制服」のこと・・・、というふうに受け止められがちになります。

学生服は、黒か紺が一般的でしたから、「渋染・藍染」の色にこだわる人々を理解することができないのです。

江戸時代の言語学者・新井白石は、その辞書『東雅』の中で、「青」という色に「賤しい」(身分が低い)という意味があるといいます。『古事記』の中に、「民」を指して、「青人草」という字が用いられていると指摘していますが、この場合の「青」は、支配者に対する被支配者全体を指して用いられています。白石は、「青といふをもて、賤称とするの義、つまびらかならず」といいます。

白石のいう「青」は、「渋染・藍染」の色とは異なります。

古代・中世の、司法・警察である「非常民」の着ている服の色を探してみると、多くは、「藍染」のようです。「藍染」の色は、「規律と責任」を示す色なのでしょうか・・・。

この問題に果敢に取り組んだのが、住本健次著《渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か》という論文です。この論文には、「「渋染一揆」再考」という副題がつけられています。

住本は、北九州市教育委員会が作成した同和教育副読本の「渋染一揆」に関する記述をとりあげ、「これまでの教育現場における部落史学習は「権力に対する怒りをもたせる」ことを中心に構成されることが多かった。・・・しかし・・・「怒りをもたせる」ために、歴史の事実をまげて教えてはならないのである。」と問題提起しています。

副読本の内容を二次引用してみましょう。

1856年(安政3年)6月14日の朝、備前平野(岡山県)を流れる吉井川の八日市河原は、備前藩の53か村からかけつけた、およそ三千人の人びとでうずまっていました。河原のはずれには、あわてふためいた役人たちが、つめよる人びとをおしとどめようとしていますが、ばく発した怒りはおさまりません。
「無紋しぶ染や、あい染を着て生きていけん」
「これ以上、差別を許すことはできんぞ」
このさわぎにまじって、笹岡村の良平たちはたぎる胸をおさえていました。(中略)
7か月ほど前、大庄屋が良平たち村の代表を集めて、藩のお触れを伝えました。
-町人どもは、絹類を着るな。町人より身分の低い者は、ナワの帯をしめ5寸4角の革を胸につけよ。夜は、ちょうちんに目しるしをつけること-。
そのうえ、「衣類を新たにととのえる時は、紋なし、無地の一番そまつなものにせよ」
庭先にならんだ一同の顔はあおざめました。いままで、さんざん差別をしておいてこれ以上に衣類まで無紋しぶ染にされれば、農民や町人から、いっそう差別されることはわかりきっています。
わずかばかりの耕地。ぞうりやわらぐつをあんだ、わずかばかりの手まちん。飢えをしのぐために、なんども着物を質に入れたこともあります。
こんどのおふれでは、それさえできなくなったのです。(後略)

この北九州市教育委員会の渋染一揆に関する記述は、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に基づいた典型的な表現です。「賤民史観」に立つ歴史学者や教育者は、「みじめで、あわれで、気の毒な」人びとの姿を、すべて、「被差別部落」の人びとに押しつけるのです。そして、歴史的な事実とは異なる像を捏造して省みないのです。

住本は、「渋染一揆」に関する教育界の「常識」、「衣服統制令は・・・「差別するために」、一目でわかるように特別の色を強制した」という解釈を否定して、「衣服統制令は「庶民と同じような染・色を要求した」ことになる」というのです。

住本は、「当時の被差別部落の人々の中に・・・目立つ程度に高価な染や色の衣服を着ている人がいたからこそ、倹約令として出された」という解釈が成り立つのではないか」といいます。

住本は、そしてこのように結論付けるのです。
「今までの解釈とは別の視点で「渋染一揆」を再考する必要がある・・・」。

インターネットで「荊冠旗」を検索していたら、このような説明に遭遇しまた。

「全国水平社の旗に由来する、部落解放運動の象徴にして部落解放同盟の旗。1923年、全国水平社の結成メンバーの一人、西光万吉が考案。赤い荊冠は、水平社宣言にある「殉教者がその荊冠を祝福されるときがきた」という言葉に象徴されているように、被差別の苦闘の歴史の中で生き抜いてきた彼らの誇りを意味し、黒い背景は差別のある厳しい世の中を意味する。全体として、差別を跳ね返し、被差別者として誇りを持って生きていくという理想を表現している。」

「赤」は「(部落民であること)の誇り」を意味し、「黒」は「差別のある厳しい世の中」を意味しているというのです。

西洋では、「赤」は、十字架の受難とイエスの血の色、「黒」は、絶望・死の色です。

私は、「荊冠旗」をみるとき、このように考えるのです。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」は、その役務の中に、アジアで一般的に存在していた「宗教警察」の職務遂行が含まれていました。特に、最後の宣教師が日本に潜入したあと、正徳・享保年間に、幕府から、キリシタン取締りの命令が出されます。忘れかけられていたキリシタン禁教政策が、またぞろ、宗教警察である「穢多」に大きな影響をあたえます。「穢多」は、近世幕藩体制下全期間において、幕府のキリシタン弾圧について、多大な貢献をしてきました。しかし、幕末期、幕府は、諸外国から開国を求められ、不平等条約を締結させられます。日本が「国辱」として受け止めたのは、「治外法権」でした。日本国内で、外国人が犯罪を犯した場合、日本の国内法で裁くことができないのは、著しい日本の主権侵害であると受け止めていたのです。治外法権撤廃のために、明治政府は、考えられるかぎりの対策をとります。そのひとつに、諸外国から求められていた司法・警察の「近代化」があります。明治政府は、対外的なしるしとして、宗教警察解体を宣言します。近代以前の封建的な制度である宗教警察を解体するのです。それが、明治4年太政官布告でした。宗教警察は、幕府や藩の寺社奉行をトップに当時の「非常民」全体によって担われていました。しかし、明治政府は、スケープゴート(身代わりの犠牲)として、「穢多・非人」を人身御供に捧げるのです。しかし、それは対外的なポーズで、国内的には、「穢多・非人」は、明治警察の「手下」として、実質上のキリシタン弾圧の先鋒を担ぎつづけるのです。明治初期には、「旧穢多」によるキリスト教会襲撃事件も多発しました。彼らの心の中には、「日本をキリスト教の汚染から守ることで、御国のためになる」と信じて疑わなかったことでしょう。しかし、明治中期に、日本はイギリスと軍事同盟を結びます。その結果、両国は、相互の国教を容認しなければならなくなります。日本は、キリスト教徒をはじめて、皇居に入れ、天皇と会見させます。キリスト教弾圧のために、陰の宗教警察として活動していた「旧穢多」は、その場所を失ってしまいます。そして、当時の内務省(警察)と浄土真宗やキリスト教の指導者とが協力して、「旧穢多」を、「特殊部落民」として「棄民」扱いすることを決定します。近世幕藩体制下で宗教警察であった「穢多」が、ふと気がつくと、明治政府から、そして、浄土真宗からも見捨てられ、「棄民」として、かってのキリシタンと同じ、身分外身分、社会外社会に落とされていることに気づくのです。「荊冠旗」の黒は、明治政府によって「棄民」扱いされた人々の「絶望と失望の色」。赤といばらは、浄土真宗門徒として、キリシタン弾圧に関与してきた「穢多」が、明治になって、いつのまにか、かっての「キリシタン」と同じような境遇、身分外身分、社会外社会に落とされたことへの怒りと抗議の色ではないかと思います。

私は、「渋染・藍染」は、「色」の問題ではなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」の「制服」、あるいは「制服の色」として理解します。岡山藩の穢多たちは、「渋染・藍染め」の「色」に反応したのではなく、「渋染・藍染」の「制服」に問題を感じたのではないかと思います。

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