2021/10/03

「庄屋」の目から見た「穢多」

 「庄屋」の目から見た「穢多」


『藩政一覧』(日本史籍協会)は、戦前の政府によって、「学術研究ノ為メ非売品」という条件の下に印刷・頒布された ものです。

「例言」によると、「明治初年、太政官ガ各藩に向テ・・・調査ヲ命セシニ対シテ、明治二、三年ニ亘リ、各藩ヨリ上申セシモノヲ収録」したもので、「明治初年ノ国勢ヲ知ル唯一ノ資料」であるといいます。

『藩政一覧』は、明治初年に実施された最初の「国勢調査」なのです。

長州藩の記述を見てみましょう。

長州藩は、本藩は「山口藩」、支藩は「岩国藩」・「徳山藩」・「豊浦藩」・「清末藩」として報告されています。

【山口藩】
人口・・・66,463人
その内
士族11,589人
卒族10,362人
陪臣25,487人
社人2,263人
寺人5,108人
盲僧652人
山伏285人
茶筅29人
非人261人
穢多10,380人

【岩国藩】
士族3,533人
卒族2,715人
倍卒1,764人
郷士185人
社家277人
山伏155人
盲僧106人

【徳山藩】
人口・・・54,471人
その内
士族2,003人
卒族2,147人
社家150人
寺院338人

【豊浦藩】
人口・・・76,096人
その内
士族2,121人
准士1,456人
卒族3,601人
倍卒4,487人
社家464人
寺1,037人
穢多509人
非人461人

【清末藩】
華族9人
士族848人
卒族677人
社家・山伏・盲僧99人
非人78人
穢多38人

『藩政一覧』が貴重な史料であることは否定すべくもないのでしょうが、この史料を「部落学」の資料として使用するにはかなり努力が必要なようです。

全国の諸藩に調査を命じたとき、調査項目に関して具体的な指示がなされなかったためでしょう。調査項目についても異同が認められます。

「長州藩」といえば、薩摩藩・土佐藩と並ぶ明治維新の雄です。

倒幕後、彼らが政権を取ったときの方策は、かなり以前から立てていたものと思われます。建前は、「万機公論に決すべし」という姿勢がとられましたが、本音は、長州・薩摩・土佐、とくに長州の政治的な野望を貫徹しようとする意志があったのではないかと思います。

明治4年の太政官布告に先立って、「穢多・非人」制度の廃止を前提とした数字が並びます。徳山藩は、穢多・非人の人数については、①報告していないか、②卒族に合算しています。岩国藩は、他の史料を突き合わせて検証すると、「郷士」として計上しているように思われます。いずれにしても、徳山藩も岩国藩も、「穢多・非人」の数を伏せています。

幕末から明治4年にかけて、徳山藩や岩国藩の「穢多」は大きく変貌していきます。

「穢多」役の反対給付であった死牛馬処理の権利は藩に返上されていきます。皮革や骨粉に関する権利がなくなるということは、幕末期にはすでに「穢多」の役務から解放されていた(正確には、穢多の役務から罷免されていた)可能性があるということを意味しています。

岩国藩の穢多は「郷士」と表現し直され、明治に入ると、長吏頭は、「刀禰準格」に処せられます。「刀禰」というのは、村役人のことで、古代・中世・近世へと受け継がれていった警察機能のひとつです。土地の測量・地図の作成という専門技術を持った人々で、時代の政権の移り変わりにかかわらず、その職務を執行し続けることができた人々でした。いわば、明治以降の副村長といってもいい存在ですが、岩国藩の長吏頭は、それと同じ身分・待遇に置かれるのです。

明治4年の太政官布告のときには、旧長州藩にあっては、本藩・支藩とも、「穢多・非人」の組み替えが完了されていたとしますと、この『藩政一覧』の数字は、そのままでは使用することができなくなります。長州藩だけでなく、ひとつひとつの藩についても検証が必要になります。

山口県の被差別部落を訪ねて話を聞いていて思うのですが、農村部の被差別部落は別として、都市部の被差別部落は、「先祖の歴史」を知らないところが結構多いのです。「長吏頭」・「穢多頭」の名前を忘れてしまった、あるいは、知らない被差別部落が少なくないということです。

都市部の被差別部落の歴史というのは、『怒りの砂』の著者・村崎義正の文章をみてもわかるのですが、彼らの歴史というのは、明治以降の「賤民史観」の歴史学者が研究し、教育者によって普遍化された通俗的な部落史の内容と何ら違いはないのです。「賤民史観」がいう、「みじめで、哀れで、気の毒な」被差別部民の歴史をそのまま自分たちの歴史として信じきっているのです。

山口県の被差別部落は、二つに分かれます。

この『部落学序説(削除文書)』の中に触れている、「山口県北の寒村にある、ある被差別部落」の古老のように、明治以降も、その在所を変えることなく、ずっと、現在に到るまで住み続け、子々孫々、自分たちの歴史を語り継ぎ、明治以降の部落差別の風雪に耐えて生き抜いている人がいる一方、先祖の歴史から、凧の糸がきれたように切り離され、歴史なき虚空をさまよい続けている人々もいるのです。

私は、徳山藩や岩国藩の史料をみながら、「もしかしたら、幕末から明治にかけて、穢多・非人と言われた人々はその在所から出ていったのかもしれない。そして、明治以降の司法・警察の行政の中に組み込まれていった・・・。しかし、ふるいにかけられて、在所に残された無役の人々と、あとで、経済的貧困とか、日清日露の戦争で破綻した武士や百姓の末裔が流れこんできて、近世幕藩体制下の穢多村の住人とは異なる人口構成に至った・・・」と推測せざるを得ないのです。

被差別部落の人々の証言に耳を傾けることで、近世幕藩体制下の「穢多」の語り伝えた伝承にたどりつくことができる場合もある一方、どんなに被差別部落の人々の語る言葉に耳を傾けてもそこから何も得ることもできない場合も多々あるのです。

山口県の部落解放運動の担い手のかなりな部分が、長州藩の「穢多・非人」の末裔によって担われているのではなくて、山口県に出稼ぎにやってきた九州地方出身の被差別部落の人々によって担われているのです。彼らが語る被差別部落の歴史は、最初から、長州藩の「穢多・非人」の歴史から切れていて、その歴史の継承は何もなく、「みじめで、哀れで、気の毒な」「賤民史観」の歴史そのものの焼き直しである場合も多々あるのです。

岩国藩は、「穢多・非人」を「郷士」として報告しています。郷士階級は、長州藩だけでなく、薩摩藩にも土佐藩にもいます。「穢多・非人」と「郷士」階級を峻別しなければならないとすると、ことはやっかいです。

『新民世界』の著者・中江兆民は、「余は社会の最下層のさらにその下層におる種族にして・・・昔日公らの穢多と呼び倣わしたる人物なり」、「余輩旧穢多」、「余は・・・旧穢多の一肉塊にして、すなわち新平民の一人物なり」と語ります。下級武士の兆民が、「穢多」を名乗って書いた文章であるというのが通説ですが、兆民の中には、「穢多・非人」と「郷士」の判然としない部分があったのではないかと私は思うのです。兆民の言葉は、もしかしたら、士族の側からの穢多身分の救済の提言ではなく、彼の本心から出た言葉ではなかったのかと・・・。後代の「賤民史観」の歴史学者の方針に従って、「士」は限りなく「貴」へと、「穢多・非人」は限りなく「賤」へと追いやられた結果、兆民の『新民世界』は穢多を名のった偽作として評価されるに至ったのではないかと思います。

筆者は、同じ「非常・民」に属する兆民の「熱い思い」を否定すべきではないと思います。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」に属していた人々の中には、兆民と同じような発言をする人が少なからず存在します。

師岡佑行は《宮武外骨と「穢多」の語》(『部落の過去・現在・そして・・・』(阿吽社))の中で、「私は外骨の部落への関心の原点がほかでもなくみづから自任する「旋毛曲がり」にあったと思う。」といいます。

しかし、私は、宮武外骨は、「旋毛曲がり」ではなく、もっと、本質的な提言をしているように思います。

外骨は、被差別部落民を表現するのに「穢多」を多用したといわれます。師岡は、宮武は、「特別視をそのままにしめす特殊部落という言葉よりも旧来の穢多の語のほうが適切だ」と考えたといいます。宮武は「庄屋様といふ役をも勤めた立派な農家」の出であったのですが、一方で、穢多に対する差別に異を唱えて「余の先祖は・・・穢多であるそうな」と、明らかに事実に反する宣言をするのです。

外骨の言葉に激怒した彼の親族たちは、自分たちが「百姓」の末裔であることを証明します。

しかし、それでも外骨は、「穢多の末裔」を説いてやまないのです。

宮武外骨は、近世幕藩体制下で同じ「非常・民」を勤めた「穢多」の末裔の、明治後半期における悲惨な姿を嘆いてこのようにいいます。「卑屈、辺境、猜疑、暴戻、軽薄、怠惰にして、自暴自棄の者、個人主義に陥る者、反省心なく向上心なき者が多い」。「穢多の穢多」たるゆえんと挑発的な言葉を連ねるのですが、私は、骸骨の言葉の中に、旧穢多に対して、「穢多」は、近世幕藩体制下の司法・警察として、「非常・民」として、生き抜いてきた歴史を忘れるな、「隠すような量見ではダメだ。穢多は穢多であることを捨てるな」と力説しているように思うのです。

「村役人」の末裔として、「穢多」と共に、近世幕藩体制下の「非常・民」として共に闘い、当時の法を遵守して、社会の治安に勤めてきた、そういう自負心から、外骨は、明治以降の司法・警察のあり方について厳しく批判します。「外骨は権力者の犯罪を見て見ぬふりをし、庶民のささやかな罪をことさらに罰する司法界、なかでも検事にきびしい筆誅を加えた」といいます。

「村役人」や「穢多」の末裔の中で静かに進行する記憶の喪失、そして、国策によっていやがうえにも押し寄せる「賤民史観」の波に抗いながら、歴史の真実を手繰りよせようとする宮武外骨の生きざまは凄まじいものがあります。

「非常」の時は、「村役人」と「穢多」は、連携してことにあたっていたのです。

明治後半期に、宮武外骨と同じように、庄屋・村役人の末裔として、同じ「非常・民」の立場から、「穢多」の歴史の真実を伝えようとした人に、小説家の島崎藤村がいます。島崎藤村は、『破戒』を書く前に、旧穢多村の長吏頭の家を訪ねて聞き取り調査をしています。島崎藤村は、小説の主人公に、「春駒」の末裔ではなく、「長吏頭」の末裔をとりあげたのです。『破戒』の主人公・丑松は、近世幕藩体制下の「長吏頭」の末裔として登場してくるのです。島崎藤村は、同じ「非常・民」の末裔として、外骨と同じように、「穢多」に親近感を持って、当時の「穢多」が差別的状況に置かれていることに異を称えたのです。藤村は、丑松の中に、自分の精神(こどもの頃の思い出)を感情移入します。『若菜集』の詩の言葉を丑松の語る言葉の中に散りばめます。

島崎藤村は、水平社から不幸な糾弾を受けます。

当時の水平社は、旧穢多と、明治以降「賤民」化した武士や百姓の末裔によって構成されていました。その時代にあって、すでに、穢多の歴史は、穢多自身によって忘却のかなたに追いやられようとしていたのでしょう。島崎藤村の真意を解する人はほとんどいませんでした。

藤村は、「非常・民」に関する思いを持ち続けます。

明治4年に、「非常・民」の役を奪われたのは、「穢多」たちだけではありませんでした。近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常・民」は、与力・同心をはじめ、明治4年4月には、「名主庄屋等の称が廃止」(古島敏雄『地方史研究法』)され、庄屋等、幕藩体制下の「村役人」の役務から解放されます。

多くの庄屋は、穢多と同様、没落の道をたどりました。

島崎藤村は、明治という時代が、旧幕藩体制下の多くの人々を切り捨てることで成立していった過程、その苦悩と葛藤を自然主義という文學手法で表現していきました。藤村は、水平社から理不尽な抗議を受け、この問題から遠ざかったように見えますが、決して、そうではありませんでした。藤村は、晩年、『夜明け前』という大作を書きます。本陣庄屋・青山半蔵を主人公に、幕末から明治を生き、希望と失望に揺れ動き、失意の中を去っていった、村役人としての「非常・民」の生きざまを記すのです。

『破戒』から『夜明け前』まで、藤村は、一貫して、小説家を志した初志を貫徹していきます。

明治初年の『藩政一覧』は、近代日本最初の国政調査として、数字の羅列のように思われますが、その背後には、歴史学者がまだまだ解明していない大きな謎がいくつも横たわっているように思われます。

筆者は、この『藩政一覧』から多くの示唆を受けるのですが、この『藩政一覧』の詳細な研究がいままで出てこないのは、そのためには、背後にある諸藩の膨大な史料の検証が伴うためでしょう。しかも、明治維新の立役者として、「官軍」の雄として勝利をおさめた側の「恣意」が見え隠れするところでは、この『藩政一覧』を史料として取り扱うときの難しさが更に倍加します。

筆者は、『藩政一覧』を横目でみながら、これまでの部落史の研究者の残した論文を参考にして、「穢多とは誰か」というテーマを考察せざるを得ません。「賤民史観」に彩られた世界から、歴史の事実を抽出する作業をせざるを得ません。

近世幕藩体制下の各種史料や『藩政一覧』に取り上げられた数字を見て思うのですが、「非常・民」である穢多は、最後のひとりまで数えられているということです。「茶筅29人・非人261人・穢多10,380人」という数字は、藩権力は、近世司法・警察官である「穢多・非人」を最後のひとりまで数え上げているのです。

「穢多」の外延とは何か。

この数字に出てくるひとりひとりの「穢多・非人」をおいて他にはありません。それぞれの資料が物語る穢多の数は、「穢多」概念の「外延」そのものなのですが、当時、周知の事実であった「穢多」の外延は、今日では具体的に把握することができなくなっています。

しかし、壬申戸籍では、明治の身分制度の中で、「平民」とされている人々も、「社寺籍簿」の部分を見れば、近世の「穢多」身分であるかどうかが判別できます。被差別部落の中の寺、被差別部落の中の神社に所属する旨、記載されているからです。

幕末から壬申戸籍が作られる明治5年(1882年)までの間に、「穢多・非人」身分は、大きく再編成された可能性があります。

山口県の被差別部落には、ある伝承が伝えられています。
それは、白馬に関する夢です。被差別部落の人々は、あるとき、夢をみるのです。白馬にまたがった人から、「村(穢多村)を出て行きなさい」と語りかけられる夢を。白馬にまたがる人、それは、軍服を身にまとって白馬にまたがる明治天皇の姿ではないかと思うのです。

明治4年の太政官布告の本当の意味は、ある人々には最初から知らされていたのかもしれません。明治政府は、「優秀な人材」として、近世幕藩体制下の司法・警察官である「穢多」を、司法・検察・警察へ、組み込んで行ったと思われます。

自民党の元幹事長の野中広務の姿を見ていると、厳格な警察官、『部落学序説』でいう、近世幕藩体制下の「非常・民」の風格と言動を備えています。野中広務は、「特殊部落民」の末裔ではなく、近世の「穢多」の末裔ではないかと思います。

華族・士族の血を引く国会議員からは、「被差別部落出身者の野中は総理に相応しくない」というようなことを言われたそうですが、日本の将来のために身をささげるのに、華族・士族の末裔であるかどうかは何ら関係がありません。むしろ、華族・士族出身の政治家によって、日本の政治はいつも汚職と不正の温床になってきたのではないでしょうか。野中の律儀さと筋を通すところは、私は好きです。彼が日本の総理になることは大賛成です(被差別部落の本当の歴史を忘れ、ただ、同和対策事業に群がっていった「金」の亡者でしかない部落民が日本の総理になることは絶対反対ですが・・・)。

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