2021/10/03

穢多と維新前夜 岩倉と長州藩の非道

穢多と維新前夜 岩倉と長州藩の非道


『部落学序説』執筆を急いだ理由に、筆者の年齢があります。

昭和23年(1948)生まれの筆者は、現在58歳。「団塊」世代のひとりであるが、どちらかいうと精神的には「団塊」世代とその内容を共有していません。小学校・中学校・高校までは、「団塊」世代に属していましたが、岡山県立児島高校3年のとき、大学進学を前に父が脳軟化症で倒れて以来、病床に臥した父と家族を支えて、ひたすら働きに働いて10年・・・、ふと気がつくと、同じ「団塊」の世代から遅れること10年あとの時代を生きていました。

あるときふと思ったのです。病気の父と家族の生活のために費やした10年間は、なかったものと考えよう・・・、と。それからというもの、いつも、自分の年齢は、実年齢から10歳引いたもの・・・、と自分に言い聞かせてきたのですが、しかし、体力的には、そのような「錯誤」は通用しそうにないので、もういちど「団塊」世代の仲間入りをして、自分の人生を考え直そうと考えた結果、人生の節目として、山口の地で知り得た、部落差別問題に関する雑学を、『部落学序説』としてまとめようと考えたのです。

歳を重ねると共に、体力だけでなく、精神力も減退していっているようで、あるとき、突然、「あの史料はどこへいったのだろう・・・」と何時間もかけて探し回る場合があります。書籍を探すならともかく、「あの言葉はどの文献に書いていたのだろう・・・」と思って探索を始る場合には、延々と時間がかかります。そして、とうとう見付けることができずに終わってしまう場合があります。

今回の文章を書くのに、ある言葉を探したのですが、見付けるのに、半日以上かかってしまいました。

『足軽目付犯科帳 近世酒田湊の事件簿』の著者・高橋良夫は、「時代小説の作者にとって、タネ本を公開することは、みずから首をしめるようなものだ」といいます。時代小説の作者は、ネタ本を公開しないのが一般的であると、はじめて知りました。高橋は、「そうと知りながら、『亀ヶ崎足軽目付御用帳』という史料を、多くの人々に知ってもらいたいという要求をおさえることができなかった」といいます。

『部落学序説』の筆者にとっては、そういう史料が手元にあるというのは、うらやましいかぎりです。

『部落学序説』第1章~第3章までと同様、第4章を論述するときにも、筆者は、特別な史料や資料はもちあわせていません。依然として、この論文執筆に使用する史料や資料は、徳山市立図書館の郷土史料室の蔵書と、筆者が、近くの書店で入手した誰でもその気になれば入手できる資料に限定されています。

史料や資料を分析することで、『部落学序説』を実証的に論じるために必要な資料を抽出しているのです。

今回、資料のありかを見失って、徒に時間を浪費することになった資料というのは、『会津若松史』に収録されている明治元年10月民政局発行の文書です。

その文書をみると、会津戦争終結時に、会津藩の「穢多」が200人ほどいたことがわかります。明治新政府側は、会津藩の「検断」と「穢多」に、「城中死人取片付候はゝ、郭内郭外共死人取片付候樣」命令を下すのです。
筆者は、この史料は、近世幕藩体制下の「穢多」が何であるのかを物語る貴重な史料であると思っています。
近世幕藩体制下の「穢多」の行動を律しているのは、「権力」ではなく、「法」なのです。会津藩の「穢多」は、近世幕藩体制下の司法・警察として「法」に忠実に生きるように教育されていますので、会津落城と共に、「権力」を失った「穢多」は、明治新政府という新しい「権力」のもとで、司法・警察である「非常民」としての職務を遂行することを求められているのです。

会津藩の「穢多」の在所・役務・家職については、大内寛隆著《近世陸奥国南部における被差別身分の実態》(『東北学別冊5』)や横山陽子著《会津藩における被差別民の存在形態》(『東北学別冊6』)に詳しい説明があります。

横山の論文の中に、「「穢多」は処刑後の死骸を取り扱う者として動員されている」といいます。一般刑事事件についてそのように言及しているのですが、戦時下にあっては、戦死者の死骸片付けも、「穢多」によって行われたと思われます。

会津藩の「穢多」が、会津城内の戦死者のなきがらを葬ったとき、会津藩の「穢多」のこころにどのような思いがよぎったのか・・・、以前から、気になっていました。江戸時代300年間、会津藩主の下に仕えてきた「穢多」は、会津落城と会津藩敗戦の樣をどのように受け止めていたのか、いろいろ想像をめぐらしていました。

そして、あるとき、井口富夫著『会津と長州と』を読んだときに、その謎がとけました。

井口は、「私は会津とは縁も所縁もない、まったくの他所者である」といいます。井口は、「少年の頃から妙に反骨精神が旺盛」であったといいます。彼は、いつしか、「純粋であるがゆえに数々の悲劇を背負い込み、朝敵の汚名を着せられて、以後延々と差別に喘ぐことになる」「会津に惹かれていくことになった」といいます。

平成8年、会津若松市に萩市長が訪れたとき、会津若松市長は、「萩市側からの二度の和解申し入れにも応じなかった」といいます。会津若松市長は、「藩はむつ(青森県)に流され、遺体は放置され、そういう明治新政府のやり方が心に残る」と述べ、「百三十年を経てなお残る怨念を訴えた」といいます。

井口は、会津若松市長の言葉は、「遺体は放置され、遺族の目前で腐敗の進むままに、埋葬も許されず・・・」という意味だといいます。

井口によると、幕府「討幕の秘勅」は「偽勅」であったといいます。「旧幕臣で、維新後は言論界で活躍した東京日々新聞主筆の福地源一郎氏が、その著の中で、「(前略)幕府滅亡後数年を経て、初めてその密勅の写しを拝読して、為に愕然たり」と述べているといいます。井口は、この「陰謀の主役を演じたのは、公卿の岩倉具視と断じていい」といいます。

長州藩の残虐さを史料をあげてこのように綴ります。

「激しく抵抗してくる少年を、鉄砲で撃ち殺し、首をはね、その首を宿営に“お肴持参”と持って帰り、酒座にそえて酒盛りをした」。

「縛られたままの会津藩士の前に行き、刀を抜き、彼の耳を切り、次に鼻を切り、次に胸を割くに及んで死す」。

井口は、この史料は、「宣伝用に誇張された中傷文書ではない」といいます。「自軍のあまりの残虐行為に、堪りかねて上司に出された報告文書」であるといいます。

明治元年「9月22日、降伏文書の調印が行われたあと、政府軍は「戦死者一切に対して何等の処置も為す可からず、若し之を敢て為す者あれば厳罰す」という布告を出していたのである」といいます。

「激烈な籠城戦が繰り返された城中、城下町はもちろんのこと、奥羽地方至るところの山野で、無残な遺体が何千と知れず晒されたのである。日毎に腐乱が進み、その遺体から発する異臭はとても耐えられるものではなかった。特に、目の前に横たわっている遺体が、家族や縁者のものであることがわかり、その傍らうずくまり、棒切れを持って鳥や犬猫の近付くのを追い払うことしかできなかった遺族たちの心情は、いかばかりであったことか。とても、拙い筆力では表現し得るものではない。「せめて埋葬だけでも」と、泣きながらの嘆願も、「賊軍の死者に墓などいらん」と、冷たく突き放されるばかりであった」。

そして、会津藩藩士や百姓のなきがらに「降り積もった雪が、淡い初春の陽光を浴びてゆるんでくると、腐敗の進んだ屍体から発する異臭に、彼ら自身が耐えられなく」なって、埋葬の許可が出されたというのです。

井口は、「三千余の遺体はようやく土に還ることができたが、それには一体どれほどの日数と費用を要したのであろうか。詳しくは分からない。この頃、屍体処理に携わる人夫は限られており・・・」といいます。

会津戦争でなくなった武士や百姓のなきがらを、こころの奥底から突き上げてくる「無念の慟哭」に堪えながら、もくもくとそのなきがらを手厚く葬っていった人々の中に、前述の、会津藩の司法・警察である「非常民」としての「穢多」もいたのではないか・・・、そのように思うのです。

会津を血で染めた下参謀・世良修蔵は、仙台と米沢藩士数名によって、「狂乱の酒宴後、酌婦と枕を重ねているところを捕らえられ、近くを流れる阿武隈川河原で斬首」されたといいます。「戦死」とは言えない死にざまですが、「後年になって、破格の処遇を受け」て、靖国神社に合祀されたといいます。死者に笞をうつかのごとき処遇を受けた会津藩藩士は、「賊軍」として、靖国神社に合祀されませんでした。靖国神社は、「官軍」の記念碑でしかなかったからです。

長州藩という周防国と長門国を守るため、四境戦争に参加した「穢多」たちは、四境戦争終結後は、「士分取立て」を放棄して、司法・警察である「非常民」の役務に戻っていきます。風聞としては、「穢多」の中にも会津戦争に参戦した人がいる・・・といわれますが、私は、そのような「穢多」はひとりもいなかったのではないかと思います。長州の「穢多」は、会津藩の人々を殺害しなかった、筆者はそう確信しています。軍人としての「非常民」と司法・警察としての「非常民」の間には、大きな違いが存在します。

明治維新前夜を生き抜いた「穢多」に関する史料や資料は、決して多くはありません。ほとんど史実が歴史の忘却のかなたに追いやられてしまっていると思われます。しかし、歴史の真実は、どんなに隠しても隠しきれるものではありません。会津の人々の経験した悲惨は、いつまでも語り継がれていくのです。

妻の実家から送られてきた「会津みたらし柿」の説明書には、会津の人々は、「会津みたらし柿」を一緒に食べながら、おばあさんが孫に、会津戦争のことを語り伝えていると記されてありました。

井口富夫著『会津と長州と』を読み終わったとき、会津若松生まれの、福島県立安積女子高校出身の、私の妻は、目を真っ赤にして泣いていました。泣き終わったあと、福島の大学で勉強している娘に電話して、その話を伝えていました。「あなたは、長州(山口)ではなく、会津(福島)のために働きなさい」。

私と妻は、月に1回周防大島をドライブします。車で、周防大島を一周するのです。その途中に、海岸沿いの道の側に、会津の仇敵・世良修蔵の墓碑があります。周防大島は、いつ尋ねても、瀬戸内の美しさと優しさを湛えています。しばし、時の流れるのを忘れて、その美しさにこころを奪われるのですが、それと同時、いつも思うのです。こんな美しい自然の中に生まれて育った人間が、どうして、あんな残虐な非道を繰り返して鬼になることができたのか・・・。

筆者の師である、元山口県立文書館研究員の北川健先生は、維新における「虚構の歴史のヒトリ歩きは、絶たねばならない。」といいます。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」という「虚構」を突き崩す旅を続けましょう。

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