2021/10/03

部落史研究とキリシタン弾圧

部落史研究とキリシタン弾圧


戦後の部落史研究の集大成とも言える『部落解放史』(全3巻・解放出版社)において、穢多とキリシタンとの関連を示 す記述が皆無であるというのは何を意味するのでしょうか。

同書は、近世初頭のキリシタン弾圧について触れないばかりか、近代初頭のキリシタン弾圧についてもほとんど言及しません。

『部落解放史』構築に際して、キリシタン弾圧問題は、何の関係もない・・・、と判断されたためでしょうか。それとも、『部落解放史』という通史を書く際に支障となったり、部落解放運動を展開する上に不利な証言が出てくるのを畏れたためでしょうか。

中世・近世・近代を通じて、キリシタン弾圧問題は、日本の歴史を語る上で避けて通ることができない課題です。この問題を、視野から遠ざけることで、歴史上の様々な問題の曲解につながっていく可能性は多分にあります。

中世・近世・近代を通じて、キリシタン弾圧問題は、それぞれの時代の司法・警察である「非常民」にとって、キリシタン弾圧を強制する権力に対して抗うすべのない「役務」でした。司法・警察としての「非常民」は、キリシタンに対する、探索・摘発・弾劾等の「糾弾」行動に追従せざるを得ませんでした。

特に近世初頭においては、徳川幕府によるキリシタン弾圧は苛酷なものがあります。

徳川のお膝元ではじまったキリシタン弾圧は、次第に、江戸・大阪・京都という大都市から、日本全国津々浦々に到るまで、苛酷な「糾弾」が実施されていきました。

黒死病という伝染病が流行り、その病魔の手によって、多くの人の命が苦しみの呻きの中、奪われていったように、キリシタン弾圧によって、諸藩の藩主はもちろん、藩士や、その支配下の百姓・町人に到るまで、成人だけでなく、小さなこどもや老い先短い老人に到るまで、人々の疑心暗鬼の中、多くの人々が「糾弾」されて尊い命を失っていきました。

キリシタン弾圧に、直接手を下したか、下さなかったか、という問題はありますが、いずれの立場であったとしても、キリシタン弾圧が、近世以降の日本人の精神構造に大きく影響したであろうことは想像に難くありません。

ある藩では、キリシタン弾圧時、「糾弾」の一手法として、「鋸引き」が行われました。

キリシタンの身体を土の中に埋め、土から出た頭と土の中の身体を切り離すために、首に鋸を入れるという残酷な刑です。キリシタンの系列(血筋と血統)を根絶やしにするために、ありとあらゆる残虐な、見せしめ的な刑を執行しました。多くの場合は、街道筋の、多くの人々が行き交う場所で刑が執行されました。その街道を行き来する人々は、ひとりひとり、キリシタンの首に鋸を入れることを強制されました。「非常民」の看視の下、「常民」も、キリシタンでないことの証のため、その刑の執行に関わらせられたのです。

徳川家康・秀忠のあとを継いだ徳川三代将軍・家光は、「実に世に比類ないほどの苛酷な断罪政策を真向からふりかざして一路弾圧の鬼と化していった」(山口弥一郎)といわれます。

中世の司法・警察であった「非常民」の一翼を担っていた当時の「穢多」も、このキリシタン弾圧の怒濤の中に巻き込まれていったものと思われます。穢多もまた、キリシタン弾圧時の「糾弾」の担い手であったのです。

多くの部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者が指摘しているとおり、近世幕藩体制下の「穢多」制度確立の時期は、キリシタン弾圧の頂点たる島原の乱の前後であるという、共通見解の上に立っています。

しかし、彼らは、それ以上に、穢多とキリシタン弾圧の問題について、深入りすることはありません。時期は重なっているが、穢多とキリシタン弾圧の問題は直接関係がない・・・、とでもいうのでしょうか。

『部落解放史』だけではありません。

原田伴彦著『被差別部落の歴史』・井上清著『部落の歴史と解放理論』等、多くの部落史研究者の論文や著作においては、この穢多とキリシタン弾圧の問題が不問に付されているのです。なぜ、日本人の精神構造の深くに刻み込まれているキリシタン弾圧の問題を避けて通ろうとしているのか、筆者は納得がいきません。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」では、「士農工商穢多非人」という身分制度の中での「穢多非人」は、「身分外身分」・「社会外社会」として歴史的に評価されてきました。

しかし、近世幕藩体制下のキリシタン弾圧政策を視野に入れるとき、「穢多非人」は、決して、「身分外身分」・「社会外社会」でなかったことがはっきりしてきます。近世幕藩体制下にあって「身分外身分」・「社会外社会」であったのは、キリシタン探索・摘発・弾劾等の「糾弾」にあって、殺害されたキリシタンとその家族・親族等であったのです。

徳川第5代将軍・綱吉は、キリシタン類族に関する、新たなキリシタン禁令を公布します。1687年に出されたその法律は、8カ条から構成されています。その法文の中には、キリシタンの嫌疑がかけられたものの「葬儀執行権」の停止がありました。「キリシタンであった者の遺体は塩詰としておき、宗門改役」の検証にさらされ、問題がなければ、強制的に、幕府や諸藩によって指定された「旦那寺」で葬儀が執行されました。キリシタンの死に際して、キリシタンが信じている天国への旅立ちを否定し、キリシタンの信仰にとって屈辱的な葬儀を強制するためでした。

元禄8年(1695年)、キリシタン類族規定の詳細が明らかにされますが、「男子の類族は耳孫を含めて、卑族の五代までとされ、類族には、死亡・出産・新縁・転居・養子・出家・欠落・死罪・剃髪・改名・離別・義絶・離檀・宗旨替などが生じた際には、すべて書類によって役所への届け出が義務づけられた」(清水紘一著『キリシタン禁制史』)といいます。

類族が死亡すると、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」(奉行所から派遣された検死役・穢多非人・町役人・村役人・穢多医・僧侶など)が呼び出され、諸々の吟味が行われました。幕府のキリシタン弾圧政策は、キリシタンの「天国に行きたい」という末期の願いをも徹底的に奪いさるものでした。

清水紘一は、以上のことから、このように結論づけます。「共同体の中の類族の一生は出生から死亡にいたるまで、生活に変化が生じた際はすべて町の年寄りを経て役所に報告され、町中の監視と官憲による掌握の下にその生活が営まれたことがわかる。かくして類族は生まれながら「平民」でなく、町の厄介者であり、あるいは村八分の対象者となり、最長五代を経て「平民化」したものを除いて、幕末に及ぶことになったのである」。

キリシタンとその類族こそ、近世幕藩体制下の「身分外身分」・「社会外社会」であったということです。近世幕藩体制下300年間・・・。キリシタンとその類族を、他の「非常民」と共に監視する「穢多・非人」は、決して、「身分外身分」・「社会外社会」ではありませんでした。「穢多・非人」は、「非常民」として身分制度の中に正式の身分として位置づけられ、社会の中に存在していたのです。

日本歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、ありとあらぬる「みじめで、あわれで、気の毒な」存在に関する歴史資料や伝承を、「ブラックホール」のように吸収してしまいます。キリシタンとその類族に適用されるべき「身分外身分」・「社会外社会」の属性すら、その「ブラックホール」に吸収してしまいます。その結果、「賤民史観」上、大いなる矛盾を抱えることになり、抵触することになったキリシタン弾圧問題を、部落史研究の視野の外へと追いやって省みなかったのではないかと思います。

このブログのある読者は、筆者の『部落学序説』は、「穢多・非人」のことを「きれいに描き過ぎている」といいます。「問題提起に徹底するなら、徹底的に穢多・非人の精神性の高さを極度に強調すべきである」といいます。

しかし、筆者は、日本の歴史学に内在する差別思想としての「賤民史観」を打破するために、もうひとつの別な「幻想」を対峙するような手法は用いません。ある「幻想」を、もうひとつの「幻想」で打ち消すこともまた、本質的に「幻想」であるとの批判を免れません。

この『部落学序説』は、常民の学としての民俗学が実証の学であるのと同じく、非常民の学としての部落学もまた同様の意味で実証の学でなければなりません。

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」について、彼らが何であるのか、的確な判断を下すためには、「穢多・非人」という「非常民」の組織やシステムを解剖するだけでなく、その「社会生理」・「社会病理」も明らかにしなければならないと思っています。「社会病理」なしの「社会生理」研究は皮相な楽観論でしかなく、「社会生理」なしの「社会病理」研究は単なる悲観論でしかありません。

穢多とキリシタン弾圧の関係を論じる前に、幕藩体制下のキリシタン弾圧の歴史の概略を展望してみましょう。参考にする資料は、前掲の、清水紘一著『キリシタン禁制史』(教育社歴史新書)です。この書には、近世幕藩体制下の司法・警察の本体である「穢多非人」に関する記述は一切でてきません。

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