2021/10/03

穢多と習俗

穢多と習俗


前節で一茶の句を紹介しました。

穢太町に見おとされたる幟哉

中山英一著『被差別部落の暮らしから』の二次的引用です。

筆者の書斎は、わずか一坪です。その狭い部屋の中に、情報処理関連の数百冊の書籍や資料、サーバー1台・クライア ント3台を設置して、プログ上の原稿を書き下ろしているのですが、小さな扇風機一台では、なかなか夏の暑さにはか てません。私だけでなく、パソコンの方も・・・。

勢い、比較的涼しくなった深夜にパソコンのキーボードを叩くことが多いのですが、気分転換にインターネット上の部落差別問題に関するブログを検索していて、『顏の見える部落史』に遭遇しました。

そしてその文章の中に、上記と同じ一茶の句を見いだしたのです。

学歴もなく資格もない私にとって「部落学」構築のための基礎的な研究方法としてよく使う方法は、部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者の論文の内容の比較です。

一茶の「穢太町に見おとされたる幟哉」という句の解釈についても、同じ研究手法を適用します。中山英一と、『顏の見える部落史』の著者・石瀧豊美(イシタキ人権学研究所所長・福岡教育大学非常勤講師)の比較研究です。

石瀧豊美の解釈と中山英一の解釈を転載します。

【石瀧豊美の解釈】

「幟は鯉のぼり。あちこちの家で、男の子が生まれたお祝いに鯉のぼりを上げています。道行く人はおやあそこでも、などと、指さしながら、話題にして通っていきます。一茶が見ていると、「えた」町にも他と変わらない鯉のぼりが風にそよいでいるのに、道行く人は見て見ぬふり。一茶は多少頭に来て、「見おとされたる幟」と表現しています。もちろん、私は見落としてはいないよ、というメッセージ付き。
男の子の健やかな成長を祈るのは「えた」町でも同じなのです。教科書の身分制度の記述では、貧しさ、悲惨さを強調し、百姓・町人といかに違うかという視点でのみ描かれていました。一茶が表現しているのは、身分は違っていても、人間としては変わらないということ。乳児・幼児の死亡率が高い時代で、子どもの成長を祈る気持ちは今よりももっと切実だったことを知らねばなりません。
この場合の穢太町は加藤さんによると、「浅草の新町と思われる」とのこと。」

【中山英一の解釈】

「「幟」は初夏の季語で、端午の節句にあげる「のぼり」のことである。町内の被差別部落で節句を祝う幟が白くはためている。「えた」町の幟の方が立派で、隣接の町の幟が貧弱で「えた」町から見おとされている。「えた」町の人々の力強い心意気が彷彿と感じられる。」

両者の解釈を比較すると言っても、残念ながら、私には俳句の解釈はできません。文学的才能は皆無に近いですから・・・。特に、俳句とか和歌とかいうものは、本当に解釈が苦手です。それでも、「部落学」構築上必要とあれば、両者を比較する方法を模索することになります。

そこで思いついたのが、「穢太町に見おとされたる幟哉」という句と同じ構造の句を一茶の中から探し出し、部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者ではない、一茶を一般的に研究している文学者の解釈方法を援用することです。

「穢太町に見おとされたる幟哉」から、句のひとつの構造を抽出します。それは、「○○○○に□□□されたる△△△哉」という構造です。これに該当する一茶の句を探していると、『小林一茶』(宗左近・集英社新書)の中に、このような句と解釈を見つけました。

江戸衆に見枯らされたる桜かな

宗はこのように解釈します。

「一茶は江戸で冷遇された、という思いをもっていました。そのこともあって、「江戸衆」にむかって冷たい批判を、一茶は抱いていました。だから、情のない江戸の奴らに見られて枯れてしまったのだ、この桜のむれ、と怒っているのです。」

宗は、「○○○○」は、「□□□されたる」の主語と解釈しています。「江戸衆に」と「見枯らされたる」は、主語と述語の関係になります。この主語と述語は、続く「△△△」の修飾語句を構成します。「江戸衆に」・「見枯らされたる」は、「桜かな」と、修飾語句と被修飾語句の関係になります。

宗の解釈方法を、「穢太町に見おとされたる幟哉」に適用すると、「穢太町に」は主語、「見おとされたる」は述語、「穢太町に」・「見おとされたる」は主語・述語関係で、被修飾語「幟かな」の修飾語を構成すると解されます。

詩人で、東京大学哲学科卒業、法政大学名誉教授の宗左近の解釈に従うと、イシタキ人権学研究所所長・福岡教育大学非常勤講師の石瀧豊美より、『被差別部落の暮らしから』の著者・中山英一の解釈の方が理にかなっているようです。筆者は、学歴や資格(教授・助教授・講師)によって、判断しているわけではありません。『部落学序説』の基本的な研究方法として、史料や資料に直接あたることとあわせて、研究者の研究内容の比較・検証を重要視しているので、つい、こういう方法をとってしまうのです。

一茶の句「穢太町に見おとされたる幟哉」を「穢多と宗教」というテーマの中でとりあげましたが、この端午の節供に関する句は、「穢多と宗教」というより、「穢多と習俗」というテーマでとりあげるべき内容であったと思います。

柳田国男編『歳時習俗語彙』の中に、50近い節供の名前があげられていますが、端午の節供もそのひとつです。

習俗とは何か・・・。

それを考え出すと、またまた脱線を余儀なくされてしまいます。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いのあと、筆者は、その古老の語る言葉の真実であることを確認しようと思って、このような作業を延々と繰り返してきました。以前、『部落学序説』の研究方法は、情報処理教育でいわれるスパイラル方式であるといいましたが、本当に、スパイラル、渦潮のように、くるくる廻りながら中心へ迫っていく研究方法です。

筆者が「習俗」を理解するために参考にした文献は、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』(塙新書)です。

佐藤は、「習俗は慣習風俗をつづめた言葉と介してよいであろう」といいます。「慣習」という言葉から、一般の人は、「個人の習慣に対応する社会の慣習というようないわば内的構造を思うであろう」。また、「風俗」は、「時代・社会とともに変化する服装の流行といったような外的現象をとくに思うであろう」といいます。「習俗」は、「かなり違った二側面」を持つ「含みのふかい言葉」であるといいます。

佐藤は、言葉を変えて、このようにも説明します。

「日本語には「しきたり」および「ならわし」という二つのいたって直截な表現がある。「しきたり」は文字どおり「先祖代々してきたこと」つまり歴史的な伝承であり、「ならわし」は「世間一般になされていること」つまり社会的な慣習であるが、このばあい、伝承なればこそ慣習となったとも、または慣習なればこそ伝承となったともいえるのであって、両者は二つ切り離して考えるわけにはゆかない。ここで習俗と用いるのは、「しきたり」「ならわし」の両面をひとつにした意味のことといってもよい」。

習俗としての端午の節供の「幟」について検証しようとすると、「幟」についての、「しきたり」「ならわし」の両方を明らかにしなければならなくなります。

佐藤は、「自分ら自身の習俗は、あたかも自分自身の顏がそうであるように、自分にはかえってみえないのであり、またみようともしないものである。」といいます。

「幟」についての、「しきたり」と「ならわし」を明らかにするのに、現在の自分の経験や知識を交えて解釈すると、とんでもない解釈に発展する可能性があるというのでしょうか・・・。

「幟」の「しきたり」(時間的側面)を探ってみると、「幟」は、「非常民」の中でも、軍事に関与していた「士」の間に、江戸時代初期にひろまったと言われています。近世幕藩体制下に入って、戦争の時代から平和の時代に移行していく段階で、「士」の身分が固定されていきます。その中にあって、少しでも安定した社会的地位を手にするためには、「上司」にその実力を認めてもらう以外に方法はありません。当時の「士」の世界では、現代の受験戦争の時代と同じく、「御家」の発展のためには子息に対する教育と訓練に熱心でした。端午の節供に「幟」を立てる習慣は、「士」の世界からはじまったと言われます。その場合の「幟」というのは、武家屋敷の玄関に飾られた家紋入りののぼりでした。

江戸の中期以降になりますと、「士」の世界の習俗を模倣して、「農・工・商」においても、端午の節供に、その家の繁盛と継続を願って「幟」が立てられるようになります。しかし、「士」の習俗をそのまま流用することができなかった「農・工・商」は、家紋入りののぼりに代えて、家紋の入っていない「こいのぼり」を使うようになりました。「士」と「農・工・商」の端午の節供のときの「幟」の立て方は大きく異なっていたわけです。

次に、「幟」の「ならわし」(空間的側面)を探ってみると、江戸時代中期以降になって、はじめて、「士」ののぼりと「農・工・商」ののぼりが共存するようになります。そうなると、はじめて、両者の比較が可能になります。一茶は、中期以降の人間ですから、一茶の生きた時代は、「士」ののぼりと「農・工・商」ののぼりが共存していたと思われます。

この『部落学序説』の副題は、「非常民の学としての部落学構築を目指して」ですが、「非常民」という枠組みを前提にすると、「穢多・非人」ののぼりは、「農・工・商」よりも「士」ののぼりに近いということになります。

宗左近と佐藤俊夫の説を、「穢太町に見おとされたる幟哉」という一茶の句のふたりの解釈者、中山英一と石瀧豊美に適用すると、面白いことが見えてきます。

中山が想定しているのぼりは、「白くはためている」のです。真っ白な、無紋ののぼりなのでしょう。「穢多の類」は無紋と定められていましたが、それは、近世幕藩体制下の司法・警察である穢多・非人について、「匿名性」を保持するためのものでしょう。現代でも、私服刑事や制服を着た警察官の胸には名札がありません。何もつけないことで、彼らは「権力」を象徴しているのです。それと同じように、無紋であることは、司法・警察の職務に従事していることのしるしでもありました。おそらく、端午の節供の「幟」にもそれが反映したのでしょう。これは推定ですが、おそらく、中山は、信州の「穢多村」に伝えられた伝承の継承者として「幟」を「白くはためている」と表現したのでしょう。

ところが、石瀧の場合、穢多が、子供の成長と家の繁栄と継続を願って立てたのぼりは、「鯉のぼり」なのです。「士」の「幟」ではなく、「農・工・商」の「幟」なのです。石瀧は、「穢多」の「鯉のぼり」は、「農・工・商」の鯉のぼりと何ら「変わらない鯉のぼりが風にそよいでいるのに、道行く人は見て見ぬふり・・・」をすると解釈するのです。

石瀧は、「常民」と「非常民」の区別を知らないか、認めようとしないので、上記のように混同してしまうのです。

石瀧は、「一茶が表現しているのは、身分は違っていても、人間としては変わらないということ」であるといいます。彼がいう「人間としては変わらない」というのは、善意で解釈すれば、「穢多」も「農・工・商」も同じ「常民」という意味になるのでしょうか・・・。

石瀧は、さらに、「一茶は多少頭に来て、「見おとされたる幟」と表現しています。もちろん、私は見落としてはいないよ、というメッセージ付き。」といいますが、筆者は、石瀧のこの表現の中に、石瀧が無意識に保有している「賤民史観」が見え隠れしていると思われます。

「道行く人はおやあそこでも、などと、指さしながら、話題にして通っていきます。一茶が見ていると、「えた」町にも他と変わらない鯉のぼりが風にそよいでいるのに、道行く人は見て見ぬふり・・・」。

一茶の句自体は、差別的な表現は何もないにもかかわらず、石瀧が解釈すると、そこに、差別性が明確になっていきます。町行く人々は、他の家の鯉のぼりには関心を持つが、差別されていた穢多の家の鯉のぼりは無視して通り過ぎる・・・、というのです。

石瀧は、「穢太町に見おとされたる幟哉」という一茶の句の中にも、「賤民史観」でいう「みじめで、あわれで、気の毒な」存在としての被差別者のイメージを読み込んでいきます。「賤民史観」に立つ研究者や教育者は、部落研究・部落問題研究・部落史研究に際して、まず、「はじめに差別ありき」という立場を踏襲します。卑近な表現でいえば、彼らは、「賤民史観」という色めがねをかけて史料や資料を解釈するのです。その結果、すべての穢多の姿は、「被差別」として映るようになります。

歴史学者・石瀧豊美は、文学者・宗左近の解釈と違って、「穢太町に、見おとされたる幟哉」と受け止めることで、「見落とす」という言葉の主語を「町民」と理解するのです。「町民は、見落としたけれども、一茶は見落とさなかった・・・」と解釈するのです。

この解釈に見られる意識構造は、一茶のそれというより、このような解釈をしている石瀧自身の意識構造を反映しているように思われます。「差別者である一般の人は、被差別部落の中の鯉のぼりを無視して通り過ぎる。しかし、差別者ではない私・石瀧は、被差別部落の中の鯉のぼりを決して見落としはしない・・・」。石瀧の言葉には、中産階級・知識階級の面目躍如たるものがあります。

石瀧の解釈は、端午の節供の「幟」についての「しきたり」・「ならわし」を無視した、「賤民史観」に根付く彼の差別性の読み込みでしかないように思われます。

中山の解釈の方が歴史の事実に近いような気がします。

「町内の被差別部落で節供を祝う幟が白くはためている。「えた」町の幟の方が立派で、隣接の町の幟が貧弱で「えた」町から見おとされている。「えた」町の人々の力強い心意気が彷彿と感じられる。」

無紋であるけれども、真っ白な幟が、五月の青い風にパタパタとはためく・・・。一茶が、町の多くの鯉のぼりとくらべて、そこに力強さを感じたとしても不思議ではありません。

石瀧豊美は、「江戸時代は封建的身分制度の時代であり、もちろん差別を前提に社会は成り立っています。しかし、そういう中にも時代を突き抜けた小林一茶のような人物がありえたことがわかりました・・・」と、いいます。石瀧にとって、一茶は、差別社会から突出した希有な人物なのでしょう。

しかし、筆者は、そうは思わないのです。一茶は、近世幕藩体制下の庶民が、その時代の司法・警察官に持っていた一般的な感情ではないかと思うのです。

当時のお触れ(法)に違反した犯罪者ならともかく、一般の民衆は、社会の安定と秩序の維持に、命をかけてその職務に従事する、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」がいればこそ、安心して日々を過ごし、商いや巡礼にあっては、彼らの街道警備によって、安全に街道を往来できたのですから、一茶のような思いを民衆がもっていても何ら不思議ではありません。

石瀧のような解釈が成立するのは、明治4年の太政官布告以降のことです。

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