2021/10/03

明治天皇制下の基本的共同体としての「部落」

明治天皇制下の基本的共同体としての「部落」


日本語の場合、言葉の意味を探るのに、一般的には『広辞苑』を使用します。

「部落」という言葉の語源を尋ねる場合、漢語の意味を尋ねただけでは不十分であることを前項で証明しました。

「部落」という言葉は、明治政府の近代地方自治制度確立の動きの中で、ドイツの法制用語「ゲマインデ」の訳語として登場してきました。この「部落」という言葉の意味を尋ねるには、やはり、ドイツ語の辞書を引く必要があるでしょう。

筆者が日頃使用しているドイツ語の辞書は、佐藤通次編『NEUER SEUTSCH-JAPANISGER WORTSCHATZ(独和言林)』です。

筆者は、学歴や資格をもちあわせていません。英語もドイツ語も、すべて独学です。苦手なのは、英語もドイツ語も、会話になります。筆談はできても会話はできません。文献を読んでいると、どうしても、英語やドイツ語の原文をあたらなければならない場合も生じてきますので、若いときに、NHK教育ラジオの語学講座で英語とドイツ語を習いました。

あるとき、京都大学文学部哲学科をでられた教師の方から、「君は、その辞書を使っているのかね・・・」と言われたことがあります。ちょうど、『独語言林』を開いて、辞書を引いているときでした。

その教師は、続けて、『独語言林』を書いた佐藤通次というのは、全体主義者で問題があるというのです。彼の話では、佐藤は、第二次世界大戦中に、ドイツのヒトラーを賛美していた学者であったというのです。

そして、彼は、「もっと他の辞書にした方がいいよ」と進めるのです。

筆者は、58歳の年まで独学を通しましたから、自分にとって何が適切な資料であるかは、いつも手にとって見ることにしています。

私が生まれた岡山県は、昔から書店が充実している地域です。

岡山市にある「丸善」に行ったのは、高校1年生のときでした。ずらりと並ぶ、学術書や洋書に、岡山城や後楽園以上に感動したものです。新しい本の香りを、新しい学問の香りと受け止めました。いつか自分にも、こんな学術書や洋書が読める時代がくるかも知れない・・・、そう思うと胸踊りました。

しかし、残念なことに、私の成績は、岡山県立児島高校で最下位の成績。学力不足で、大学に進学することはできませんでした。私は、人一倍、「complex」の持ち主だったのでしょう。大学のカリキュラムを手に入れて、自分で自分の教育をすることにしました。

「丸善」で、読めそうな洋書見付けては、自分で読んでいました。そのうち洋書を読むのは決して難しくはないことが分かつてきました。最初の40~50頁をていねいに読めば、あとは楽に読めます。しかも、洋書の場合、論文の構造がはっきりしていて、まず、結論部分を読んで、内容の概略を確認した上で、最初から読んでいきます。

手にとって試読したあと、読めそうだとわかれば入手したものに、岩波書店の学術書があります。当時、岩波書店の書籍は、岡山市の「丸善」にいかなければ入手することができませんでした。他の書店では、注文になりますので、内容を確認しないで購入することになります。しかし、「丸善」に行くと、誰でも、岩波書店の学術書を手にとって見ることができましたから、私は、自分で作成した大学のカリキュラムに対応する教科書を、岩波書店の学術書から入手しました。

しかし、独学は、それほど簡単ではありません。

最も大切な資料は、辞書類でした。日本語も英語もドイツ語も中事典以上を集めました。よく使う辞書は、新村出編『広辞苑』(初版)、中島文雄編『岩波英和大事典』(初版)。『岩波英和大事典』は、いまでもほとんど毎日使用しています。この辞書のいいところは、英単語の語源が明記されていることです。ラテン語の語源を調べるために、田中秀英編『研究者羅和辞典』も入手しました。ドイツ語は、上記の『独和言林』。短文を訳してみて、辞書を引くだけで独文の意味を理解できる明快さが筆者の心をひきました。ドイツ語は、もう一冊、小学館編『独話大辞典』を使用しています。辞書選択には、筆者は、相当思い入れがあります。

それなのに、京都大学文学部哲学科を出た教師に、佐藤通次の『独話言林』を使用していることで、「馬鹿」にされたときは、少々頭にきました。それと同時に、学者や教育者の世界は、「無学でただの人」である」常人には理解することが難しい世界なのだなあ・・・、と驚きの思いを持ちました。確かに、言語というのは大切です。言語を使って考え、哲学したり思想したりするのですから。無意識に使っている言語が、その人の哲学や思想に大きな影響を残すことも十分間考えられます。

そのとき、筆者は思ったのです。「佐藤通次の辞書を使い続けたらどうなるのだろうか・・・」。そこで、筆者は身を挺して実験をすることにしました。ドイツ語の辞書は、『独話言林』を使い続けようと、決心しました。

その『独話言林』で、「Gemeinde」をひくと次のように記されています。

①共同、②共同体・地方自治団体・市町村・市町村民、③聖堂区・聖堂区の人々・教会、④公衆、⑤協会

明治政府の地方自治制度確立の動きの中で注目すべきは、②と③の意味です。②と③の意味から、次のような等式を想定することができます。

市町村=教会

ドイツ語の「ゲマインデ」という言葉は、ただ単に、地方公共団体としての「市」・「町」・「村」を指すだけでなく、宗教団体である「教会」をも指す言葉だったのです。西欧において、キリスト教は国教になります。国によって、手厚い保護を受ける反面、国の事務手続の機関としての機能を担わされる場合があるそうです。

ドイツにおいて、「ゲマインデ」というのは、村落共同体を意味すると同時に、その文化と歴史の中核となる信仰共同体(キリスト教会)をも意味していたのです。

明治政府が、日本の地方自治制度を確立するときに、そのプロトタイプをドイツ(プロイセン)に求めたのは、近代日本を、欧米の「キリスト教国家」に対峙すべく「神道国家」にしたてあげる政治的・外交的意図に合致するところがあったからであろうと思います。

ドイツ語の「ゲマインデ」=市町村+キリスト教会

日本語の「部落」=市町村+神社

明治政府は、ドイツの地方自治制度に擬することで、とかく、諸外国から批判されがちな、神道国教化の方針を徹底的に貫こうとしたのではないかと思います。

日本の近代中央集権国家・明治天皇制国家の地方自治制度における、最も基本的な村落共同体をあらわす概念としての「部落」は、「ゲマインデ」の翻訳語として、日本の法制用語として誕生したときから、「市町村+神社」(神社を中心とした信仰共同体)として存在していたと考えられるのです。

近世幕藩体制下の村落共同体である「村」は、神社だけでなく寺院も、それぞれの「村」の重要な歴史的文化的要因でした。自然村としての「むら」は、神道と仏教が、神社と寺院が融合した風景・生活環境を作り出していたのです。

幕末期、諸藩の中には、廃仏毀釈を打ち出し、日本を神道国家として宣言する藩も出てきました。長州藩もそのひとつですが、長州藩は、幕末期にすでに、近代国家として「長州藩」の構築をはじめています。欧米のキリスト教国家に日本の神道国家を対峙させる・・・、その遠大な思想は、長州藩が薩摩・土佐・肥前と共に明治維新によって新政府を手にいれたとき、新政府の強力な方針になっていきました。日本の津々浦々まで、近代中央集権国家・明治天皇制国家の下部機関としての村落共同体・「部落」を、「市町村+神社」(神社を中心とした信仰共同体)として構築しようとしました。

その政策は、日本の周辺部分から実施されていきました。沖縄・北海道・島嶼・・・。日本の村落共同体の、近代中央集権国家・明治天皇制国家への抱え込みは、日本の周辺部分から日本の中心部分へと実施されたのです。

その結果、日本の周辺社会に行けば行くほど、「村+神社」の習俗(ならわしやしきたり)が濃厚に温存されることになります。民俗学者は、沖縄に、古き良き時代の日本の村(「村+神社」)が残っていることを指摘しますが、筆者は、明治政府によって、日本の「部落」(「村+神社」)であることを強制された結果であると思っています。

もちろん、全国の農村・漁村・山村に、仏教伝来以前の日本の古きよき時代の「村」とその歴史と文化が残存していることを否定するものではありません。「民俗」というのは、「政治」と違って、時の流れは、百年、二百年と、大きなうねりとなって、場合によっては、千年、二千年の大きな波となって後世に伝えられていくものです。現代社会の農村・漁村・山村にも、そのうねりが、今も、到達していることを否定するわけではありません。

しかし、より身近な、「部落」(「村+神社」)のうねりは、百数十年前の波なのです。明治政府が、意図的に作り出した村落共同体が「部落」(「村+神社」)なのです。

明治政府がつくりあげた「部落」(「村+神社」)が、その本当の姿を明らかにするのは、かつての太平洋戦争中でした。「部落」(「村+神社」)は、日本の戦争遂行の重要な機関として機能していったのです。

この「部落」(「村+神社」)は、「戦後のポツダム政令によって消滅」(『民俗探訪事典』)していきます。そして「部落」(「村+神社」)は、国策遂行の下部組織としての「部落」(「村+神社」)ではなく、「自然村」・「むら」としての「部落」に変貌していくのです。民俗学は、神道民俗学から脱皮して、仏教民俗学をも抱え込んでいくことなになります。

話をもとに戻しましょう。

「部落」とは、明治政府が、近世幕藩体制下の村を解体・再構築して作った、明治天皇制下の、新しい村落共同体のことだったのです。「部落」は、「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」の共通語としての「部落」という概念に還元できるものではありません。「部落」が、「部落」は、「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」のみを意味するとき、「部落」差別の本質と根源は、永遠に闇の中に葬り去ってしまうでしょう。

「部落」とは何か。その問いに十分に、答えることができるとき、はじめて、「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」が何であったのかが解明されることになります。「部落」が何であるのか、把握することに失敗しますと、「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」の本当の姿を見失ってしまいます。

部落差別は、「政治」に起因します。歴史・文化・民俗は、その反映に過ぎません。「政治」に起因する部落差別問題は、「政治」的に解決することが可能です。部落差別の淵源を尋ね、その原因を追求することなく、またぞろ、33年間15兆円に匹敵する同和対策事業・同和教育事業を展開したところで、部落差別問題を解消することは不可能であると思われます。大切なのは、部落解放運動の継続・存続、そのための被差別部落・同和地区の継続・存続ではなく、部落差別そのものの解消にあります。

日本の歴史学に内在する「賤民史観」を除去するように、文部科学省が命令をだせば、日本全国の学者・教育者などの研究者が、わずかな期間とわずかな費用で、またたくまに、「部落史」の全貌を書き直すことができるでしょう。抑圧された、歴史学者を、部落解放運動の途上において見られた、間違った解釈から、まず、解放する必要があります。「部落史」研究を、具体的に考察する道を保証することなく、どうして、部落差別解消に至ることができるでしょう。「運動」の追究ではなく、「真実」の追究こそ、日本の社会に、差別なき明日をもたらします。

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