2021/10/04

村崎義正(運動家)と長州藩青田伝説

 村崎義正(運動家)と長州藩青田伝説


『怒りの砂』・・・。

著者の村崎義正が、なぜ、このような文書を後世に残すことに決めたのか、私は、未だに解せないでいます。

この本を読むと、被差別部落の実名と所在が出てきます。

一般の人が、被差別部落の名前や住所を明らかにすると、差別事件になります。しかし、被差別部落の人がそれらを明 かすことは差別事件にはなりません。

記録は、著者の村崎が生存されているときはもちろん、逝去されたあとも、ずっと、残ります。時代から時代へと受け継がれていきます。後世の被差別部落の末裔は、村崎と彼が書き残した文書をどのように受け止めることになるのか、筆者の脳裏にいろいろ雑念がわいてきます。

村崎の部落史の記述は、「賤民史観」に色濃く染め抜かれています。

山口県立文書館の研究員をされていた布引敏雄の『長州藩部落解放史研究』に収録されている彼の論文を下敷きにして、それを絵取ったような文章構成になっています。一説には、『怒りの砂』のゴーストライターは、布引ではないかといわれますが、真偽の程は確かではありません。この『怒りの砂』は、村崎義正によって記された、被差別部落の側の直接の記述であるとして、論を進めていきます。

村崎は、長州藩は、「士、農工商身分の下に、穢多、非人という最下層身分を法制的に固定化」したといいます。「士・農工商・穢多・非人」という近世幕藩体制下の身分制度を、通説・一般説にのっとってこのように表現します。そして、このような説明を付加します。「つまり、人間外の人間の位置に突き落とされ、同時に居住地も辺鄙な所へ押しやられ、職業まで、きびしく制限されてしまった」と。

部落史の記述の中で、「人間外人間」という表現が用いられますが、江戸時代における、「人間外人間」、人間なのに人間扱いされなかった人々というのは、近世警察である「穢多や非人」のことではなくて、キリシタンや不受不施派の人々のことではないかと思うのですが、宗教警察でもあった「穢多や非人」は、権力の末端の機関(近世警察本体)として、キリシタンや不受不施派の人々に対する弾圧に関与してきましたが、村崎は、そのことは一切触れずに、先祖である穢多が、如何にいわれなき差別を受けてきたかを滔々と語ります。

村崎は、「穢多の家に生まれたら、どれだけ努力しても、穢多の身分から、またその職業から逃れることはできない」といいます。長州藩から「与えられていた仕事は、人が嫌がる、また、恐れおののくようなものばかりである」といいます。

「いずれにせよ、死牛馬を処理し、皮革を生産するだけでも嫌われるのに、肉まで食いつくしてしまうのであるから、農民にとって、胴震いするほど恐ろしいことであった。人の世にあってはならないことであり、死牛馬に群がる情景は、正に地獄図であり、浅ましい畜生の集団に見えたに違いない。」といいます。

近世幕藩体制下の百姓は、近世警察である「穢多」に対して本当にそのようなイメージを抱いたでしょうか。「死牛馬に群がる情景は、正に地獄図」・・・、と。幕末・明治初期にあっては、穢多が、百姓の見ている前で、死牛馬の毛皮を剥ぐ作業をすることを禁止されていますが、近世の穢多は、皮だけを持って帰ったのではないでしょうか。外国からいろいろな人が日本にやってくるようになると、日本の政府は、それすら禁止してしまいます。村崎がいうように、穢多が、死牛馬に群がってその肉を貪る地獄図のような光景を、当時の百姓がみることはほとんどありえなかったと思います。

村崎が言うように、人里離れた「辺鄙な所へ押しやられ」ているなら尚更です。

村崎は、『怒りの砂』に続く、『怒りの砂』発行から五、六年後に発行された『猿まわし上下ゆき』では、水平社宣言が否定する「卑屈なる言葉」を、より前面に出し、強調していきます。

彼の住んでいる被差別部落は、「山口県百余の部落の中でも最低と言われたほど極貧だった」といいます。山口県の他の部落の人々から、「「浅江には娘を絶対にやるな」というのが合い言葉になっていたくらいで、差別される部落の中でさらに差別を受けていた」ことを強調します。

決定的な言葉は、村崎がいう、彼の住んでいる被差別部落は「陸の孤島だ」という言葉に呼応するような当時の光市長・松岡三雄の言葉です。「浅江の被差別部落は格子なき牢獄である」と宣言して、同和対策事業の先駆をなしていったといいます。村崎は、「陸の孤島」の住人は、「餓鬼の集団と変わり果てた」といいます。そして、このように綴るのです。

「毛利藩は良民たちに布告した。「あの連中は人間ではない」と・・・。まこと、もう誰が見ても人間ではなかった。野原へ出て、蛇をつかまえたり、手当たりしだい雑草を摘み取って食べたりするのである。毛利藩は意地が悪い。先祖たちに死牛馬の処理をまかせた。先祖たちは天の助けとばかり小躍りして死牛馬に群がり、皮を剥いで肉をむさぼり食った。良民たちには、その光景が、地獄の餓鬼図にみえた。さらに毛利藩は罪人逮捕や獄門の手伝いをさせる。・・・」

『怒りの砂』では、「死牛馬に群がる情景は、正に地獄図であり、浅ましい畜生の集団に見えたに違いない」という推測表現が、『猿まわし上下ゆき』では、「死牛馬に群がり、皮を剥いで肉をむさぼり食った。良民たちには、その光景が、地獄の餓鬼図にみえた」と確定表現に変えているのです。わずか、五、六年の間に、村崎の部落民としての卑賎感は著しく増長されていきます。

「賤民史観」は、村崎の頭の中で増殖する「卑賎感」を受容する装置ともなっているのです。被差別部落の人々に対する、「みじめで、あわれで、気の毒な」イメージを、事実として固定する役目をになっているのです。

村崎は、水平社宣言が否定した「卑屈なる言葉」(自らを卑下し、貶め、辱める言葉)を次から次へと繰り出すのです。村崎は、おのれとおのれの住んでいる被差別部落の住人だけに、その「卑屈なる言葉」をなげかけるのではありません。長州藩の枝藩である徳山藩の穢多村の住人にも投げかけるのです。

徳山藩の天保一揆についてこのように綴ります。

「一揆の突発のきっかけになったのが、前述のように、皮革の運搬によるもので、部落にとって、とんでもないとばっちりであり、災難であった。・・・農民たちは、稲作中に、穢い皮革を運搬すると、海があれ暴風雨となり、稲作に打撃を受けるという迷信を信じ込んでいた。・・・この一揆は、最も大きくふくれあがった時、十万人を突破したといわれており、豪商を中心に激しい打壊しが行われた。あたかも蝗の大群が襲来して来たようなもので、藩は、まったく手のほどこしようもなく途方にくれていた。そこで一揆の勢いは、ますます強まり、向かう所、敵無しのありさまであった。この一揆のもう一つの特徴は、町人はほとんど殺さず、穢多部落を片ッ端から襲い、五十戸、八十戸と、打壊し、焼きつくし、部落の人達を虐殺した。稲作中に、皮革を運搬するというのは迷信に過ぎないのであるが・・・農民達は、穢多さえ居なければ、自分たちのくらしが守れると考えたから、皆殺しにせよ、ということになったのである。」

「毛利藩は一揆が一段落すると、徳山の農民達のなかで、一揆の指導者とみられる者を四十名余りを逮捕したが、こともあろうに、その指導者を穢多に渡した。すると穢多はたちまち群がり寄り、手足の爪を抜き、あるいは身体の筋を切り、殴る、蹴飛ばすなどし、拷問のかぎりをつくした。藩内のいたるところで部落を襲い、兄弟達を、打壊し、焼きはらい、虐殺した片割れに対する呪いは、ここでもいかんなく爆発したのである」。

「エタによる仕返しも激烈なものである。」としてしか解釈しない布引の説を、村崎は忠実に絵取っているのです。布引の歴史解釈は、「賤民史観」にそった意図的な解釈でしかありませんでした。布引は、現代的な「賤民史観」で染め上げることによって、徳山藩の天保一揆の本当の意味を覆い隠してしまったのです。

「賤民史観」という枠組みの中で、歴史の事実とは異なる穢多像を捏造していった、歴史学者・布引敏雄と部落民・村崎義正、彼らが残していったものは、水平社宣言の「先祖を辱かしめ人間を冒涜してはならぬ」という言葉をいちじるしく踏みにじるものでした。

「非常民」の末裔が、このような、布引や村崎がいうような、考えるのもおぞましい姿の部落民像として提示されるとき、被差別部落の、どの親が、その歴史を自分のこどもに語り伝えることができるのでしょうか。

村崎の書を朗読してみればすぐにわかります。

これでもかこれでもかと卑賎感をふりまく手法で書かれた文章は、気分が悪くなります。

耳にした言葉を反吐と共に吐き出したくなります。

山口県光市にある被差別部落と「山口県北の寒村にある、ある被差別部落」を比較するとよくわかります。江戸時代、共に穢多身分であったのに、光市の被差別部落は、明治以降、融和事業や同和事業の「恩恵」に浴してきたにもかかわらず、卑賎感のみをつのらせ、自分たちのこどもに被差別部落の歴史を語り伝えることができない・・・。一方、同じように差別されてきながら、融和事業や同和事業に浴することのなかった「山口県北の寒村にある、ある被差別部落」は、未だに「穢多」の歴史を「賤民史観」に売渡すことなく自分たちのこどもに語り繋いでいるのです。

次回は、教育者・西田秀秋の見た「長州藩青田伝説」と「穢れ」について言及します。


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