「穢れ」をめぐる歴史学と民俗学の相克
「けがれ」という言葉が多義的に使用されてきたということは、多くの学者や研究者が指摘している通りです。
前節で、筆者は、「けがれ」を「気枯れ」と「穢れ」の二重定義として捉えました。近世幕藩体制下の「村」に住む「村人」に焦点をあてて、「村」・「村人」の「常」の時に発生する、百姓として生きる気力の喪失・生産性の低下を「気枯れ」と定義し、「村」・「村人」の「非常」の時に発生する法的逸脱を「穢れ」と定義しました。ここで、第3の命題をあげておきます。
命題3:「けがれ」は、二重定義された概念である。「けがれ」は、「常」の時には「気枯れ」として、「非常」の時には「穢れ」として定義される。
表題の新「けがれ」論という表現は、以上のことを指しています。
ここで、歴史学や民俗学で指摘されている「けがれ」論についてその概略を把握してみましょう。最初に取り上げるのは、歴史学者の沖浦和光と民俗学者の宮田登の対談集である『ケガレ 差別思想の深層』(解放出版社)です。
沖浦は、「ケガレとは何か」と自ら問いを立てたあと、その問いに答えます。
「ケガレは、古来からきわめて多義的に用いられてきました。今日では、民俗学をはじめ文化人類学・宗教学・社会思想史・比較文化論など、学問の各分野で論じられていますが、はっきりと定まった一つの観念体系として<ケガレ>を規定することはむずかしい・・・」。そして、ケガレの解釈を、①神話学、②文化人類学、③宗教学、④民俗学の個別科学研究の現時点での一般論を紹介しています。
沖浦は、部落差別に深く関わる「ケガレ」観は、「③宗教学」の「宗教的なケガレ」観であるといいます。「ケガレを不浄とみて、<清浄>を維持するためにそれを隔離し排除していこうとする思想」であるとして、具体的に、「日本の寺社の死穢(しえ)・産穢(さんえ)・血穢(けつえ)を中心とした禁忌に代表されるケガレ観」をとりあげています。
沖浦は、次いで、「④民俗学」の「ハレ・ケ・ケガレ」の三極循環論に触れ、「いささか安易な図式」として否定的な評価をしています。その理由として、「気枯れ」説と「穢れ」説の関連を民俗学がきちんと説明しきれていない点を指摘しています。沖浦は、「それ自体が悪しき生命力をもった実体」とみなされている、ヒンドゥー教的なケガレを、民俗学は、「到底説明できない」と主張しています。
沖浦は、部落差別の原因である「穢れ」は、本質的に「実体概念」であると認識しているようです。近世被差別民が「穢多」といわれたのは、そう言われるだけの「実体」・「実質」があったのだと、主張しているようです。
沖浦は、「②文化人類学」におけるケガレは、「それ自体で存在する実体概念ではなく、一定のシステムとの関わりにおいて生じる関係概念」である」と、ケガレに関する考察の中には、文化人類学のように、実体概念を退け関係概念を主張する学的研究があることを十分認識しながら、あえて、被差別部落の人に対する差別の原因であるケガレを「実体概念」として捉えようとする姿勢からみると、沖浦の説の背後にも、払拭されていない「賤民史観」が存在しているようです。
沖浦は、「社会学」者としての肩書の下、「評論家」の管孝行と対談しています。
雑誌『現代の眼』(1981年11月号)で、《賤民史観樹立への序章》と題した対談の中で、管から、「賤民はおのずから賤民だったのではなく、賤民とされたことによって賤民になったのですから、それには理由がなくてはならない」と指摘されたとき、沖浦は、周辺的な事例を列挙するのみで、管の問いに対してまともに答えようとはしていません。
その頃、沖浦は、近世幕藩体制下の「穢多・非人」を「賤民」と同定する歴史学者としての視座をより確実なものにしつつあったのでしょう。論題の《賤民史観樹立への序章》という表現もさることながら、沖浦は、「士・農・工・商・穢多・非人」を、沖浦固有の表現、「士・農・工・商・賤」という図式で表現しています。
沖浦は、彼が、「穢れ」を関係概念から実体概念の方へ傾斜していった起因として、その対談の中でこのように語っています。「私、この春にインドに行きまして被差別民衆と交流して参りました。ひどい差別を受けている不可触賤民といわれている人たちの部落へ入ったわけです。合計九地区へ行きました。そこでいろいろ実体を調べたのですが、さきにあげた日本の賤民の従事していた職業と九割まで一緒なんです」。
インドの不可触賤民の在所を日本固有の「部落」という言葉で表現しているところをみても、インドにおける不可触賤民の調査が、沖浦に相当大きなインパクトを与え、「穢れ」を、関係概念としてではなく、実体概念としての解釈の道を開いたことは想像に難くありません。
沖浦のインドの不可触賤民調査から二十数年後、彼は、『瀬戸内の被差別部落 その歴史・文化・民俗』の中で、広島藩の「革田身分」に触れ、「不可触賤民を<身分外の身分>とみなしたインドのカースト制度にきわめて類似した身分制度」としています。そして、インドの不可触賤民と日本の穢多との間の属性・共通の性質を比較し、「日本社会における「穢多」「非人」という呼称ならびにその処遇は、インドの「不可触賤民」にきわめて類似していたと言わねばならない」と結論づけています。
沖浦は、その根拠として五項目をあげます。①内婚制、②職業の世襲、③清目役の賦課、④儀礼・行事における身分間の格差、⑤衣食住の規制。「十七世紀中期から法制化され・・・江戸幕府の賤民政策は、しだいにインドの不可触民制に類似した賤民制になっていったのである」といいます。
しかし、沖浦にとって、日本の部落差別が、インドの不可触賤民制にどのようなルートで、どのような影響を受けたのかということは、未だに研究途上にある課題であって、沖浦自身の中にあっても証明し得ることがらではないのです。
しかし、インドの不可触賤民調査から20年後にあっても、「大きい衝撃を受けた」とする沖浦は、「賤民史観」をより強固にしていきます。
沖浦がその過程の中で書いた『竹の民俗誌-日本文化の深層を探る』の最後の部分で、このように語ります。「特に「人に非ず」「穢れ多し」というような烙印を押されて、差別の中で抑圧されてきた近世の時代の被差別民史は、まさしく不条理と悲惨の歴史であったことはまぎれもない事実である。しかし、そのような光のさしこまぬ暗い歴史のなかでも、彼らは伝統的技能と新しい創意でもって仕事にはげみ、古くから伝承されてきた民族と文化の一端を担ってきたのだ。様々な苦しみと悲しみがあったが、差別と闘いながら人間としての生がキラリと光る側面も少なくなかった。・・・賤民の生活と生業は、正面から歴史のオモテ舞台に出ることはなかったが、心底ではひとりの人間としての自負と誇りを持ちながら、迫害を乗り越え苦難に耐えつつ生き抜いてきたのであった・・・」「賤民史観」をそのままに、否、むしろ強化しながら、そのような歴史学者の差別的営みがさもなかったかのように、宗教家が語る説教のような言葉で、その著を結ぶ沖浦和光の中に、私は、日本の知識階級、そこに属する歴史学者や社会学者の差別意識を見てしまいます。
「賤民史観」は、部落差別が近代国家の政策から出てきたことを、民衆の目からそらし、原因ならぬ原因、文化に内在する、ひいては民衆に内在する差別意識へと民衆を駆り立てます。そして、ますます、部落差別を解決不能な迷路へと、混沌の世界へと追いやろうとしています。
歴史学者・社会学者として聡明な沖浦は、私が書く『部落学序説』と同じ内容の論文を書こうと思えば書くことができたと思います。しかし、この論文でとりあげるような、一切合切の史料や伝承を、沖浦は、何のためらいもなく、「賤民史観樹立」のため、ばっさりと切り捨ててしまいます。一時的な同和対策事業の継続のために、本当の部落差別からの解放への願いを放棄していった、部落解放同盟をはじめとする運動団体に、彼の「賤民史観」は受容されていきましたが、私は、沖浦の歴史学者としてのありようにすごく違和感を感じています。
明治以降における、部落差別の最大の言辞は、歴史学者が研究し、教育者によって流布・伝搬されていった「賤民史観」そのものであると思います。差別的な歴史観からは差別的な研究結果しか生み出されないと思われるのです。
歴史学者・沖浦和光と民俗学者・宮田登の対談『ケガレ 差別思想の深層』の中で、沖浦は、宮田の前に議論上、敗北します。
宮田は沖浦にこのように問いかけます。
「さまざまの文献資料の中から、賤業とされていた生業のプラス面を抽出できるということは、当時の人々のなかにもそういうプラス意識が十分にあった」として、「見えるケガレ」、「見えないケガレ」を「消していく作業が可能ならば、沖浦さんが以前から主張されていた、賤視観の根本にあったケガレ=不浄観を徹底的に解体していくという作業も現実に定着するんじゃないでしょうか」。
そのとき、沖浦は、「穢れ」の実体差別であるインドのカースト制度になぞらえて日本の部落差別を研究してきた、彼自身の研究の方針を忘れてこのように答えるのです。
「だから、私は、ケガレ=不浄というのは、確固とした根拠のある実体概念ではなくて、もともとイリュージョン、共同幻想だと・・・」。それに対して、宮田は答えます。
「そうそう、共同幻想・・・」。
沖浦の「・・・」は、沖浦が自分自身の語っている言葉に違和感を感じたことを示唆します。また宮田の「・・・」は、沖浦が簡単に宮田の説に屈伏してしまったことに対するとまどいを示しています。
私は、この対談を読んだとき、二つの「・・・」は、歴史学者の沖浦和光が、民俗学者の宮田登との論争に破れた瞬間を示唆している、歴史学者の「賤民史観」・「賤民思想」が、民俗学者の前に論争で破れた瞬間であると、こころの中で、民俗学者・宮田登に拍手喝采をおくりました。
筆者は、歴史学の「穢れ」解釈と、民俗学の「気枯れ」解釈とが、いまだに妥協点を見いだせないでいるなか、「部落学」構築の重要なキーワードとして、「けがれ」の二重循環説を主張することにしました。「けがれ」を、「常」のサイクルと「非常」のサイクルに分けて考える視角・視点・視座は、『部落学序説』の筆者固有のものです。無学歴・無資格故の発想である・・・、と批判されるかもしれませんが、「しろうと学」でしかない『部落学序説』の基本的な発想です。
「村」に身を置いて生きる「百姓」の目からみると、「けがれ」の二重循環説、「新けがれ論」は、研究上の必然から浮上してきました。今後の『部落学序説』のすべての文章には、この「新けがれ論」を前提として執筆されます。
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