2021/10/03

穢多(非常民)と遊女(常民)

穢多(非常民)と遊女(常民)


『部落学序説』(非常民の学としての部落学構築を目指して)からみると、「穢多」と「遊女」は、上杉聡が主張するよ うに「賤民」という概念でひとくくりにできる存在ではありません。

なぜなら、「穢多」は「非常民」に属し、「遊女」は「常民」に属するからです。近世幕藩体制下の司法・警察に従事 する「非常民」と、その監視下に置かれる「常民」とは、様々な形で区別されます。そして、それらは混同されること はほとんどありえません。

江戸時代、「遊女」は、幕府や藩の監視下に置かれていました。「遊廓」を経営する場合は、幕府や藩の許可が必要でした。

徳山藩の法令集をみると、「人身売買はもとより、他領に年切り奉公人を出すことはいっさい禁止する。」とあります。人身売買の多くは、「売春制度」と関係があります。この条文では、遊女にするための人身売買が禁止されていた・・・と解するのが一般的でしょう。

しかし、徳山藩城下には、実際には遊廓が存在していたので、一定の条件を満たした場合は、徳山藩の百姓や浪人の娘は、徳山藩領内で、遊女になることができたと思われます。別の条文に、「領内で年切り奉公人を使うときは、町方は目代、地方は庄屋に届け、証書を作った上で召し使うこと。もしその主人が領内を立ちのく場合には、召し連れて出てはならない。」とあります。

幕府や藩によって、認可された「遊廓」はその存在が保証されましたが、認可がない場合、私的に設置された「遊廓」あるいは「売春業」は、「地獄」と称され、官憲による摘発の対象とされました。非公認の「遊廓」あるいは「売春業」によって、性病が蔓延するのを防ぐためであったと言われます。

明治6年の「警察規則案」には、その第13条にあげられた「行政警察の条目」のひとつに、「娼家ヲ視察シ娼婦ノ健康ニ注意スル事」というのがあります。近代警察がほぼ完成期に近付いた「行政警察全般にわたる詳細な指示を集成」したものに明治18年の『警務要書』があります。

その「下巻、第4篇風俗警察、第4章第2款娼妓」があります。その中にこのような条文があります。
「娼妓ノ出稼ハ概シテ不幸薄命ニ出デ、若クハ誘拐騙詐等ニ罹ル者多キヲ以テ、認許ノ際、警察官ニ於テ精密其事実ヲ穿鑿シ、且貸座敷主トノ結約条件ノ不都合ナニヤニ注意スベシ」

これは、明治の警察が、売春の社会的原因として、「誘拐」・「騙詐」等が原因で発生するとの認識を持ち、その人の自発的な「出稼」と、「誘拐」・「騙詐」によって自分の意志に反して遊女とされる場合を区別していることがわかります。そして、「誘拐」・「騙詐」によって売春させられるような事態を未然に防ぎ、場合によっては摘発するために、「精密其事実ヲ穿鑿」する必要性を説いているのです。

「遊女」に対する取締りの内容と方法は、近世幕藩体制下においても、明治以降の近代警察国家においても、そんなに大きな違いはないと思われます。

要するに、「遊女」は、近世幕藩体制下においても、明治以降の近代警察国家においても、司法・警察である「非常民」による取締りの対象であったということです。

中には、その取締りの最中に逮捕され、留置場に留め置かれる場合もあるでしょう。同じ建物の中に、「穢多と遊女」が、「警察官と売春婦」が共存する場合も多々あったでしょう。しかし、その事実をことさら強調して、「穢多と遊女」は同質存在であり、「警察官と売春婦」は、身分上、「身分外身分」であり「社会外社会」であったとすることは、事実誤認だけでなく、事実をねじ曲げてとらえる所作と言えるでしょう。

近代だけでなく、近世においても、「取り締まる側」と「取り締まられる側」は、はっきりと峻別されているのです。「非常民」と「常民」、「穢多」と「遊女」は、別な存在なのです。

それに、穢多が、司法・警察として、「非常民」として、遊廓に取締りに入るのではなく、遊廓の客のひとりとして入る場合が想定されますが、それはほとんど不可能であったと思われます。「低い収入」で、高価な料金を支払うことはほとんど不可能です。

磯田道史著『武士の家計簿「加賀藩御算用者」の幕末維新』によると、70石取りの武家の「一家の大黒柱」の年間の小遣いは、「信じられないほど少ない。年間わずか19匁である。・・・悲惨という他はない。」と磯田はいいます。

年間銀19匁では、廓遊びをすれば、一瞬にして吹き飛んでしまいます。
70石取りですらそうですから、中間・足軽(徳山藩では13石取り。ただし税金を天引きされるので実収入は、30%未満になる)、穢多・非人にとっては、経済的にほとんど不可能です。

上杉聡は、「部落の男性も、吉原などの遊女屋通いをすることを禁じられていました」(『部落史がわかる』)といいます。上杉は、なにか、そのことで、「穢多」が差別されていたとでもいいたそうですが、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、その職務の内容からしても、また、経済的理由や宗教的・倫理的理由からしても、「穢多」が「遊女屋通い」をすることはありえないことでした。仮にあったとしたら、恐らく、同じ「穢多」から、そのお金の出所について、厳しい穿鑿と糾弾に曝されたことでしょう。

上杉は、関西大学文学部で使用される教科書・『これでわかった!部落の歴史』で、「御仕置例類集」から史料を紹介しています。そして、その副題に、「部落民は遊女になれたか」という表題をつけています。

「穢多の娘を売女などにいたし候もの、穢多の身分を弁えながら、素人まじわり致させ候段、不届きに候・・・」。

上杉は、上記の史料に対して、適切な解釈をしていません。上杉は、史料を提示して通り一遍の説明をしただけで、「この授業の範囲を越えますので、このままにしておいて・・・」と、避けてしまいます。

この史料について、「非常民の学としての部落学」構築を目指す筆者の立場から解釈すると、このような解釈になります。

近世幕藩体制下にあって、「穢多・非人」と言われた人々は、当時の司法・警察である「非常民」です。藩士の多くは、城下に住むことを強制されましたが、穢多は、司法・警察として、藩士や陪臣の存在しない村々にも配置されました。長州藩では、現代の警察署のように、集団で配置されるときは「穢多」と言われ、現代の駐在所のように、比較的少人数で配置されるときは「茶筅」ないし「宮番」と呼ばれていました。「穢多」・「茶筅」・「宮番」を総称する言葉として広域概念としての「穢多」が使用されました。近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」は、その役務に相応しい言葉と行為をすることを求められました。彼らは、幕府や藩によって定められた法に従って職務を遂行し、犯罪を未然に防ぐと共に、犯罪が発生した場合は探索・捕亡・糾弾等に従事し、裁判のあとには、一連の「キヨメ」によって犯罪者の社会復帰に協力しました。そのような司法・警察に対して、幕府や藩は、強力に支援体制を敷きました。近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」と「穢多の家族」に対する法的保護の施行です。「武士」や「百姓」に対して、司法・警察である「穢多」の職務を疎外するような行為を禁止しました。たとえば、この史料にみられるような、「穢多」の娘を遊女にするというようなことです。もし、そのようなことを認めたら、近世幕藩体制下の司法・警察体制を根底から揺るがすことになってしまったでしょう。「娘を遊女に」人質としてとられているとき、その「穢多」は十分に司法・警察としての職務を実行できない可能性があります。幕府や藩は、それを恐れて、被告に、「司法・警察官がなんであるかを十分認識していながら、その職務を疎外するような、その娘を遊女にするような所作は、司法・警察の信頼を著しく害う故に、断じて許すことはできない。当法廷は、厳罰を以て被告を処す。そして、再びこのような事態が生じないよう、そして、司法・警察の権威が失われることがないよう各方面に適切な対策をとることを指示する。」と判決を下したと思われます。この史料は、近世幕藩体制下の司法・警察としての「穢多」の「役務」に関するもので、一部の歴史学者が指摘するような、部落差別の実態を物語る史料ではないことを明言しておきます。

上杉は、「穢多」概念に、「遊女」の持っている、「身分外身分」・「社会外社会」・・・という属性を窃取します。そして、明治政府によって、唯一、「解放」という言葉が使われた、明治5年の太政官布告第295号「芸娼妓解放令」ないし「遊女解放令」の「解放」という言葉を窃取して、明治4年の太政官布告を、「賤民解放令」と呼びます。それは、歴史の事実に反する解釈です。

明治4年の太政官布告は、国内外に向けて発せられた、日本の国恥とされた治外法権撤廃の早期解決のため、明治政府がやむを得ずとらざるを得なかった、近世幕藩体制下の旧司法・警察である「非常民」(「穢多」)の、苦渋にみちた解体以外の何ものでもないのです。

明治政府は、「穢多」を「非常民」からはずします。明治政府によって、「穢多」たちは、「常民」の世界に組み込まれます。

しかし、「常民」は、「穢多」が自分たちと同じ「常民」になることに烈しい抵抗を示します。「穢多」が「常民」になる一方で、「常民」が近世幕藩体制下の「穢多」と同じ「非常民」になることが予測されたからです。「常民」の「非常民」化は、明治政府によって画策された国民皆兵制度(徴兵制度)において現実化します。「常民」による明治政府に対する烈しい抗議と抵抗は、「賎民史観」の学者がいう「解放令反対一揆」へと発展していきます(筆者は、「解放令反対一揆」ではなく、「常民」による「非常民」化撤廃を要求する明治政府に対する反対一揆と認識しています)。

明治4年の太政官布告を正しく読み取らないと、部落史における本当の意味を見失ったままになります。

上杉聡は、「賤民」の外延として、「穢多」・「遊女」をとりあげますが、上杉の「穢多」定義は、あまりにも、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」にのっとっているため、大きく失敗しています。

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