2021/10/03

賎民史観から見た遊女

賎民史観から見た遊女

筆者は、関西大学文学部講師・上杉聡という人に会ったことは一度もありません。ただ、『部落史がわかる』(三一書房)、『部落史を読みなおす部落の起源と中世被差別民の系譜』(解放出版社)と2、3の論文を読んで、批判を展開することになります。

「著者紹介」欄を見ると、「1947年岡山県生まれ。関西大学文学部講師。」とあります。私も、1948年岡山県生まれです。最初、上杉の「著者紹介」を見たとき、同じ岡山県出身であるということでこころ引かれましたが、『部落史を読みなおす』を読んでいて、違和感を感じる箇所がありました。

上杉は、「歴史学会の趨勢は、中世起源説に向かいつつある」といいます。

上杉は、「天皇制を・・・古来以来、支配者の中に一貫して流れ続けてきた」ものとしてとらえるといいます。上杉は、天皇制と部落差別を、同じコイン表と裏と考えているようです。天皇制が古代・中世・近世・近代・現代へと続いてきたように、「賤民」も古代・中世・近世・近代・現代へと続いてきたと考えるのです。

そして、「中世-現代をつらぬいてなんらかの共通するもの」「賤民」の時代を越えて変わらざる属性(内包)として「社会外」であることを指摘するのです。「賤民」は、社会の「下」ではなく「外」にいた存在であると。上杉は、「下」・「外」という言葉を「排除」・「所有」という言葉で置き換えます。そして、「賤民」は、同じ「排除」といっても、天皇と違って、「上」ではなく「下」へと排除されることで被差別民として生きることを余儀なくされたと考えているようです。

上杉は、「中世賤民と近世賤民との間における変化といっても、そこには本質的な変化があるわけではない」として、被差別部落の「近世起源説を唱える人たち」を厳しく批判します。そして、このようにいうのです。

「現代の部落問題を研究する人びとを除き、近世の穢多・非人を研究するような人びとは、たとえば部落解放研究所から出ていき、別の研究会を組織するよう勧めねばならないことになる」。

上杉の著作を読んでいて、筆者が、問題を感じたのは、「近世の穢多・非人を研究するような人びとは、たとえば部落解放研究所から出ていき、別の研究会を組織するよう勧めねばならないことになる。」というような彼のものいいです。

私には、非常に強権的な発言のように思われます。そのような強権的な発言はどこから出てくるのだろうか・・・。「被差別」(真)からか、「被差別」(偽)からか・・・。

「被差別」(真)というのは、「被差別部落出身で、被差別部落民として行動したり発言したりしている人」のことです。また、「被差別」(偽)というのは、「被差別部落出身者ではないけれども、被差別部落民として行動したり発言したりしている人のことです。

上杉の著作を読んでいて、彼の「視座」が極めてあいまいで、とらえどころがなかったからです。「近世の穢多・非人を研究するような人びとは、たとえば部落解放研究所から出ていき、別の研究会を組織するよう勧めねばならないことになる。」というような強権的な発想をしているところを見ると、被差別部落出身者なのか・・・と思ってもみるのですが、それまでに私は、「被差別」(偽)のパターンに属する「研究者」や「運動家」に何人も遭遇しているので、上杉は、もしかしたら、被差別部落民を偽証しているのかも・・・、と迷ってしまったのです。

山口県の部落解放同盟の方にお聞きしたら、「上杉聡さんについては、よく知らない」ということでした。

ところが、昨日、近くの書店に立ち寄って、同和問題のコーナーの書籍の表題に目を通していたら、上杉聡著『これでわかった!部落の歴史私のダイガク講座』という本を見つけました。

その本は、関西大学文学部の講座「部落史研究」のテキストとして編集されたものです。

上杉は、「第1回講義」の中で、「残念ながら、私は部落の出身者ではありません。」と言明していました。私は、「上杉は、やはり、被差別部落出身者ではなかったのか」と納得しました。

彼は、さらに続けてこのようにいいます。「「残念ながら」というのは、変な表現かもしれません。ただ、みなさんのなかには、直接、部落の人から講義が聴けたら、という人がいるでしょう。私にとっても、もし部落の出身であれば、もっとこの研究を深めることができたかもしれないと思うからです」。

私は、ときどき、「精神的似非同和行為」について話をします。「精神的似非同和行為」というのは、被差別部落出身ではないのに、被差別部落民であるかの如くに、行動したり、発言したりする人のことです。「間違えるのは、間違える方が悪い・・・」と反論されるかもしれませんが、「精神的似非同和行為」に疑問を持つどころか、被差別部落民に代わって発言してやっている式の、それ故、必要以上に、被差別部落民である装いをとりながら強弁してしまう人の所作を、「精神的似非同和行為」と呼んでいるのです。

「被差別」(偽)、つまり、被差別部落出身者ではないのに、被差別部落民のように行動したり発言したりする人の中で、知識階級・中産階級に属する人の中には、度を越して、「精神的似非同和行為」の世界にまで足を踏み入れる人が少なからずいるのです。

そのような人びとの脳裏にあるのは、「賤民」概念のみです。

上杉は、「賤民」という概念を「学術用語」として認識しています。「賤民」概念は、古代・中世・近世にはなく、近代に入って、はじめて、「行政用語」として登場してくるものです。その「行政用語」としての「賤民」は、やがて、日本の歴史学者によって、「学術用語」として受け止められていきます。つまり、「賤民」概念、「学術用語」としての「賤民」概念には、明治以降の「行政用語」としての「賎民」概念が内包されていることになります。上杉は、そのあたりを一度も検証していません。そして、「学術用語」としての「賤民」概念を、中世・近世・近代・現代の被差別部落民を定義するための本質概念・実体概念として使用しているのです。

上杉説に立つと、近世幕藩体制下、幕府によって公用語として使用されていた「穢多・非人」は、近世だけでなく、近世を遡って中世まで「賤民」であったということになります。「賤民」は、「江戸時代300年間」だけでなく、その前身まで含めて「1000年間」に渡って「賤民」でありつづけたということになります。

上杉の説によると、日本の歴史の半分以上、「みじめで、あわれで、気の毒な」被差別民として生きつづけてきた人びとがいるということになります。

私は、上杉のような、「被差別」(偽)の生き方をしている研究者の脳裏は、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」一色に塗りつぶされていると思うのです。「被差別」(偽)の立場に立つ人からは、「被差別」(真)の本当の歴史や伝承を語る「気迫」は伝わってこないのです。

上杉は、「私自身は部落民でないと考え、うっかりすると、差別する側へと転落する位置に立っていました。」といいます。

私が、最初に、被差別部落を尋ねた日、部落解放同盟の某支部の書記をしていた青年は、私にこのようにいいました。

「あなたが立っているのは、差別か被差別か、はっきりさせてください。差別者の立場でかかわるならそれで結構です。被差別部落の人は、差別されているから、他の人を差別していないのかというとそうではありません。日本の社会はいろいろな差別がありますから、被差別部落であるといっても、女性差別・民族差別・学歴差別・障害者差別から自由になっているわけではありません。しかし、私たちは、自分の中にも差別的なものがあるということを自覚している分、自覚していない人より差別的ではないと思っています・・・」。

被差別部落の人びとの前で自己紹介するときに、「私はただの貧乏人です」といいますと、彼は、「私はただの部落民です」と答えていました。

彼は、被差別部落出身ではありませんが、被差別部落の女性と結婚して、部落解放運動をはじめました。

私の「差別・被差別」の分析から判断すると、彼も、「被差別」(偽)になります。しかし、私は彼の中に、上杉から感じるような強権的なものいいを見いだすことはないのです。「近世の穢多・非人を研究するような人びとは、たとえば部落解放研究所から出ていき、別の研究会を組織するよう勧めねばならないことになる・・・」、そんなものいいには、一度も接したことはありません。

彼の献身的な部落解放運動への関わりを見てきた筆者には、彼は、「被差別」(真)そのものです。彼の姿を見ていると、被差別の民と交わった親鸞のような姿があります。

上杉は、「もし部落の出身であれば、もっとこの研究を深めることができたかもしれない・・・」といいますが、たとえ部落出身者であったとしても、今以上の研究に到達することはできないでしょう。上杉は、被差別部落の人びとの中に「賤民」を見いだしても、「人間」を見いだすことができないからです。

上杉は、『これでわかった!部落の歴史』の中で、このように語ります。

「部落の女性が娼妓なんかに売られることがあったかどうか・・・たしかに、明治以降でしたら、それはよくありました。しかし、江戸時代には厳しく禁止されていたのです。・・・したがって、男性が吉原へ遊びに行って部落の女性と出会うとういことはありえなかったのです。もしそのような事実が発覚すれば、たいへん厳しい処罰が加えられました。つまり、一般社会の最底辺にいた遊女たちは、どんなに落ちぶれたとはいえ、町人や百姓の娘さん、あるいは武士の娘さんであって、そこに部落の女性が入っていくことは絶対にありえないことでした」。

上杉は、「部落」と「娼妓」、近世的な表現を使えば、「穢多」と「遊女」の関係について、何がいいたいのでしょうか。判然としません。というより、上杉聡の「賤民史観」に毒された差別性が明らかにされていきます。

さすがに、関西大学の学生に読ませるテキストには掲載されていませんが、『部落史がわかる』の中で、他の資料をとりあげて、このように綴ります。長くなりますが、「部落史こぼれ話④遊女屋に売られる部落の娘」の全文を引用・紹介します。

(以下、上杉の差別文書の引用)

遊女屋で働く女性の最高年齢は、24歳ぐらいだという。五十嵐富夫氏は『飯盛女-宿場の娼婦たち』のなかでこの理由を、「年季明けを待たずに徐々に死んでゆく女が、どこの宿場でも多かった」からであるとしている。

16歳ぐらいで男をとることを強いられてから数カ月をへると全身に変調をきたし、腫れものがでるなどして苦しみはじめる。これを「鳥屋」と呼ぶ。一種のセックスによる中毒とでもいうべきものだろうか。この時期、悶々とする女性は納屋などに押し込められて時を過ごす。
この苦しみを通りすぎることによって、はじめて「遊女らしい」体つきになるという。あとは、ほとんど死ぬまで粗食で身体を酷使させられることになる。

こんな苦界に、被差別部落の女性が、賤民廃止令以降、多く身を沈めたという話がある。『明治奇聞』という雑誌には、部落の女性が「四民に伍するのを名誉のやう心得」「お女郎に成ってもいいのですかなど喜び、普通ならば三年三百円といふ位のシロモノが百円ですみ」と書いてある。喜んで売られていったというのは嘘であろう。ただ、部落の女性にとって、「平民の男と付き合える」ということが、売られていく際の唯一の慰めの言葉になろう、悲しい差別の現実が見えてくるのである。

筆者に見えるのは、関西大学文学部講師・上杉聡のいう「悲しい差別の現実」ではなく、上杉自身の差別性です。遊女や被差別部落の女性の中にある人間性にまなざしを向けることなく、16歳の若さで、納屋に閉じ込められ、無理やりに遊女にされていく非人間的な悲惨な状況に対して悲しみも怒りも表わすことがない上杉聡の中に、なぜ、部落差別を語る資格があるというのでしょうか。

上杉は、大学で使用するテキストの中で、このように綴ります。

「子どもたちを部落で育てたことについては、この子たちが成人する頃に、差別はもうなくなるだろう、という楽観がありました。しかし、その見通しはみごとに裏切られました・・・」。

上杉は、だから、今頃になって、「私は部落出身者ではありません。」と、カミングインするのでしょうか(カミングインという言葉があるのかどうかは知りません。カミングアウトの反対語として使用しました)。

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