2021/10/03

垣の内に関する布引説への批判

垣の内に関する布引説への批判


少岡ハ垣ノ内

山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふ(制道)し
高佐郷中貫取

『部落学序説』で、筆者が繰り返し取り上げる、近世幕藩体制下の「穢多村」の原像です。この歌の最初の一節に、「少岡ハ垣ノ内」とあります。

「垣の内」に関する研究としては、山口県立文書館の元研究員をしていた布引敏雄の《長州藩被差別部落成立の一形態 「垣之内」地名を手がかりにして》があります。

この論文の材料となった史料は、『地下上申』・『防長風土注進案』・『山口県風土史』の3冊です。布引が「垣の内地名一覧表」で「垣の内」として取り上げるのは8カ所です。布引は、『地下上申』の「小名垣之内と申ハ、穢多之者罷居申ニ付垣之内と名付申」という文言から、玖珂郡・熊毛郡・吉敷郡の3大穢多村については、「「垣ノ内」とは部落に固有の地域名であるという推測が可能である」としています。

しかし、上記の「高佐郷の歌」を歌った穢多たちは、自らの居住地の一部「少岡」を「垣の内」と呼んでいますが、布引の垣の内に関する研究の対象外になっています。

高佐郷だけではありません。

長州藩の「垣の内」を知る上で、藩の重要な史料は、長州藩本藩だけでなく、長州藩の枝藩である徳山藩や岩国藩の史料にも「垣の内」に関する記述は多数存在しています。布引は、「垣の内」考察に際して、その根拠となる史料を『地下上申』・『防長風土注進案』・『山口県風土史』の3冊に限定したことで、長州藩の「垣の内」の全体像を把握できなくなっています。

布引は、「「垣ノ内」に隣接し、両者で一つの小台地を形成する地域名に「岡」がある。これは、地名より考えて「岡垣内」という地名であったことが考えられる。それが明治期には「岡」と「垣内」に分離したのではなかろうか」と推測しています。しかし、彼の説は、何か言葉の遊びをしているようなところがあります。

「高佐郷の歌」では、文字通り「岡」・「垣ノ内」はセットでてきます。

この場合、「岡」は、「垣ノ内」のあった地理的表象、「垣ノ内」は、「岡」に配置された政治・行政上の表象であると考えればすむことで、布引の言語操作は必要ないと思われます。

のびしょうじは、《囲われたムラ》(『部落史の再発見』(解放出版社))で、1695年(元禄8)河内国更池皮田村に出された「皮田村全体を竹垣で囲い、出入口三つ、夜は本村に通じる北口一つとし番人を置く」という「法度」を紹介した上で、のびは、「皮田村を取り巻く環境・景観がどのようなものであったか、と問えば、ほとんど具体的なイメージをもてないのではないか」と言っています。更に「文字史料では景観のありようは推定に推測を重ねてみるしかないし、それでもイメージを得るのは困難であろう」としています。

しかし、布引は、長州藩の極わずかな史料から、「えたの居住地を「垣ノ内」と呼んだ理由は、その集落が垣根によって囲まれている景観を有していたからであると考えられる。」とし、「部落の囲りを垣根で囲うことは、即、差別を意味したのである」と断定していきます。

のびは、布引の説を、「先駆的な社会史の観点からの考察」と評価していますが、その「推定に推測を重ねてみる」姿勢に少しく疑問を感じておられるのかもしれません。

布引敏雄の部落史に関する研究論文を精読していて思うのですが、この「推定に推測を重ねてみる」姿勢は、いたるところで、しかも、重要なテーマのところで確認することができます。布引は、推定や推測の根拠を明確にしないで、「・・・と考えられる」と、論文の読者に論理の飛躍を要求します。

布引の推定や推測の指導理念は、歴史学上の差別思想である「賤民史観」です。被差別部落の人々の近世幕藩体制下の先祖たちが、「如何に差別され、如何にみじめで、あわれで、気の毒であったのか」を証明するための素材を、長州の地から全国へと発信していきます。のびのように批判的に見ている人はまれで、多くの場合は、布引がつくりあげた垣の内に関する像、「「部落の囲りを垣根で囲うことは、即、差別を意味したのである」という、現代的な差別・被差別に色濃く染められた像が無条件に受け入れられて行きます。

布引の「垣の内」説のプロトタイプは、彼の「賤民史観」であり「愚民論」であり「差別意識」であると思われるのです。

布引と同じ過ちを犯さないために、筆者の中にある「垣」について自己検証をしてみます。

こども心に「垣」の存在を実感させられたのは、小学校にあがる前の年の夏のことです。朝目を覚ますと、隣近所のおじさんやおばさんの大きな話声が聞こえてきました。なんでも、歩いて5~6分のところにある入り江で、若い女性の水死体があがったという話です。「いま、警察が取り調べている。見に行こう・・・」と言って、若い女性が入水自殺した入り江へ走って行きました。私も他のこどもたちと一緒に大人のあとを追いました。

若い女性が自殺した入り江には、私が生まれた町でも比較的に大きな紡績工場がありました。

若い女性が死んだ場所は、ちょうどその大きな紡績工場の正門の前でした。紡績工場の前の道にたくさんの人が集まって、潮の引いた浜辺に横たわり、掛けられたむしろからはみ出した青白い足を見ていました。

若い女性というのは、その紡績工場に、働きに来ていた18歳の「むすめさん」でした。

岸壁から、その下にある「むすめさん」のなきがらをみながら、大人たちは、「本当にかわいそうだね。十七や八で、命を捨てるなんて・・・」。

その「むすめさん」のなきがらの回りには、たくさんの剃刀が散らばっていました。自殺した娘さん、大人たちの話では、その紡績工場で労働争議があって、女工さんの立場から、その労働組合の委員長をしていたそうです。「中学校を出ると十五、六で故郷を離れて、集団就職で働きにきて、朝早くから夜遅くまで働かされる、労働がきつくて中には身体を壊すひともでてくる。するとすぐに親元へと返される。それでは、家が困るからといって、女工さんたちは、少々の無理を押してかんばる。でも、それにも限界がある。少しは、女工の置かれた厳しさを緩和してくださいと会社に訴えると、会社は、いろいろな嫌がらせをする。ストに入ると、暴力団を雇って、女工さんたちに、人間の糞尿をぶっかけたそうだ。たくさんの剃刀は、警察が数えると、紡績工場の組合員の人数分あったとさ・・・」。大人たちの話声が、こどもの心に深く入ってきました。

その紡績工場は、周囲を塀で囲まれています。

そして、その塀の上に、鉄条網が張られています。大人たちは、それを見ながら、「鉄条網が内側に傾いて張られてるだろう。あれは、紡績工場やその中にある女工さんのための寮に外部から不審な人が侵入してくるのを防ぐためではなく、中の女工さんに、夜、脱走させないためなんだよ」と話をしていました。

そんな事件のあった夏の朝は、青色の朝顔の花がいっぱい咲いていました。

朝の空の色は、彼女の死を悼んでいるようでとても悲しそうに見えました。

「垣」という言葉から、思い起こすことは、この悲しいできごとです。この年になって考えると「紡績工場のお姉さんが死んだんだって・・・」とこどもたちの間で話し合っていた「お姉さん」は、まだまだ、こどもでしかなかったということです。戦後の日本の高度経済成長の陰に、こんな話がいっぱい秘められていると思うと、自らの豊かさを追求する余り、多くの民衆を犠牲にしていった人々が恨めしくなります。

お隣の国、韓国においても、民主化が進行する前は、紡績工場の女工さんに対する激しい弾圧が行われました。日本のテレビでも、ニュースとして、韓国の暴力団によって、韓国の紡績工場で働く、韓国の女工さんが、人間の糞尿を浴びせられている光景をみましたが、戦後の高度経済成長の豊かさを謳歌していた日本人の多くは、「韓国は遅れている。いまだに、こんな非人間的なことをしている」と話していました。しかし、私の記憶の中では、「日本」と「韓国」の時間的な差はそんなに大きなものではありませんでした。

組合員の数だけ剃刀を持って、手首を切って、満潮の海に身を投げたひとりの「お姉さん」の砂の上に横たわる姿を思い出すごとに、いまだに涙がでてきます。

日本の社会は、至るところに「垣」があります。

垣の内から、外に出ていけないようにしている垣に、刑務所や警察、自衛隊、軍需工場、原発、自衛隊や米軍の基地・・・があります。「垣」は、一見、外部から不法侵入することを防ぐために設けられているように見えますが、逆に、垣の内側にいる人を外へ出さないようにする機能をあわせて持っているのです。

「垣」について、もうひとつのイメージがあります。

それは、青年の頃、岡山県の虫明の沖合にある長島愛生園を尋ねたことがあります。その島には、重度の「癩病」(ハンセン氏病)患者が「収容」される愛生園と、比較的症状の軽い光明園があります。尋ねたのは、光明園の方でした。

青年会で、車に便乗して、でかけたのですが、梅雨の集中豪雨と重なってしまいました。

淋しい雨がふりそそぐ人里離れた山深い街道を通って、虫明の港にたどりついたのですが、連絡船で渡る海は、黄土色の海でした。昔、「癩病」(ハンセン氏病)だと診断された人々は、家族や親類から引き離され、まるで、地の果てに捨てられるような思いで、この道をたどったのかと思うと胸つぶれる思いでした。

その頃、私は、ある病院で、「臨床病理検査」の仕事をしていました。

あるとき、細菌検査をしていて、結核菌の検出した数を「無数」と報告したことがあります。医者は、「無数というのは、科学的な表現ではない。きちんと数え直せ」というのです。私は、「できません。多すぎて・・・」というと、医者は、「もしかして・・・」と検査室にきて顕微鏡で確認しました。「あの検体でよく検出できたなあ。これは、結核菌ではなくて、癩菌だよ」。

「癩菌」が検出された若い女性は、長島愛生園に送られることなく、通院治療になりました。

当時の岡山県、35年前の岡山県では、保健所が癩病の通院治療を認めていたのです。今住んでいる山口県では、本当につい最近まで、「癩病」(ハンセン氏病)患者は、岡山の愛生園に隔離措置がとられていたのです。

結核菌と頼菌は、「抗酸菌」という同じ種類の菌です。

日本で、戦後、「癩病」(ハンセン氏病)の発生率が極減したのは、戦後、結核予防を徹底したからです。結核を予防することで、自動的に、同種の菌に対する感染を防止することができたのです。決して、「癩病」(ハンセン氏病)患者を隔離したためではありません。私が勤務していた病院の医者は、「身体の中が癩になったのを結核といい、身体の外が結核になったのを癩といっても過言ではない。それほど、結核菌と癩菌は近い存在」と話していましたが、山口県では、いまだに、「癩病」(ハンセン氏病)の隔離施設を作った光田健輔(愛生園園長)は、近代山口が生んだ偉人の一人に数えられています。

少し話が脱線しましたが、長島愛生園の中の宗教施設で、園生と交流したとき、私たちは前の入り口から、園生は、後ろの入り口から入りました。中には畳が敷かれてあったのですが、ちょうど部屋の真ん中あたりに、高さが、30センチ程の仕切りがありました。それは、「癩病」(ハンセン氏病)患者とそうでない人を区別するための垣でした。その垣は、越えようと思うとすぐ越えることができる垣でしたが、誰一人、その垣を越えようとはしませんでした。私も・・・。私は、その背丈の低い、形だけの「垣」は、心の中に作られた「越えるに越えられぬキリシタン屋敷の垣」と同じ、人と人とを隔てる高い闇の「垣」であることを知らされました。

私の「垣」に対する予見は、上記の三つの「垣」にあります。

しかし、私は、私の中にある予見でもって、「高佐郷の歌」に出てくる「垣ノ内」に感情移入することはできません。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふ(制道)し
高佐郷中貫取

この「垣ノ内」をイメージするためには、何らかのプロトタイプが必要です。次回は、「垣ノ内」の本質を把握するために、近世幕藩体制下の史料から、そのプロトタイプを模索します。


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※「癩病」(ハンセン氏病)と表現していることについてひとこと。ハンセン氏病患者の中には、「ハンセン氏病と言われると、ことがらの本質が分からなくなってしまいます。癩病という言葉はそのまま使ってください。大切なのは、差別しないことですから・・・」と主張された方がいます。「癩病」は病名です。病名をもって、ハンセン氏病患者あるいは元患者の人間性全体を表現するときは差別語になります。差別語を退けるだけでは、差別から自由になることはできません。

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