2021/10/03

「部落」と「暴力団」に関する一考察 6 守山藩の博奕取り締まり・・・

「部落」と「暴力団」に関する一考察

第6回 守山藩の博奕取り締まり・・・


近世幕藩体制下の守山藩では、博奕をどのように取り締まっていたのか、阿部善雄著『目明し金十郎の生涯』を手がかりに少しく確認してみましょう。

阿部善雄氏は、「ばくち」は、「藩の財政が窮迫していようがいまいが、世間が景気であれ不景気であれ、社会に悪臭を放って、とめどもなく蔓延していた・・・」といいます。

守山藩もこの「ばくち」に汚染され、「広く深く社会を毒していた・・・」といいます。守山藩においては、この「ばくち」は、それを「業」とする「やくざ」だけでなく、町人・百姓の、分別のある「老婆」すら楽しんでいたといいます。

阿部善雄氏によると、『部落学序説』の筆者である私が、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「目明し・穢多・非人」の世界においても、また、直接、「ばくち」を取り締まる責任のある町方役人・村方役人の中にも、その「汚染」が広まっていた・・・、といいます。

守山藩は、「ばくち」天国であったとでもいうのでしょうか・・・?

老若男女を問わず、素人玄人を問わず、半ば公然と「ばくち」に興じていた、とでもいうのでしょうか・・・?

阿部善雄氏は、「ばくち打ちのやくざ」という表現を用いていますが、「の」という助詞を同格の「の」であると解釈しますと、「ばくち打ち」(紀州藩『城下町警察日記』などの近世幕藩体制下の司法警察に関する文献では「博奕」として表現される)=「やくざ」という等式が成り立つことになります。

阿部善雄氏によると、「ばくち」を根絶することができない守山藩は、取り締まるすべがなく、「おどしの効果を高め」ることで、「天下一統、どこでも仕置きに決めており、宿元は打ち首、同類は追放・・・」という裁きを下し、世の衆目と批判を集めることがないように、「裏社会」にとどめ、決して「表社会」に醜態をさらすことがないように、妥協的な措置をとっていた・・・、と主張しているように見えます。

しかし、どこかで、「やくざ」を、近世幕藩体制下の存在として容認しようとする阿部善雄氏の『目明し金十郎の生涯』の論述は、いたるところで論理的矛盾を来してきます。

『部落学序説』の筆者の目からみますと、守山藩は、「ばくち打ち」=「やくざ」の世界を一切認めず、守山藩から徹底的に排除しようとしたのではないかと思われます。

守山藩は、領内の村から、「毎月・・・賭博をしないという証文」と提出させています。「ばくち」は、「普通の犯罪」ではなく、その結果として、「百姓がばくちに打ち込んで財産をなくせば、自分も妻子も年季奉公に出るようになり、あげくの果てには田畑や家屋敷まで手放してしまう・・・」。百姓が田畑を手放し年貢をおさめることができなくなると、結局、「お上の不利益」として跳ねかってくるのであるから、「陣屋を踏みつけたも同然となる・・・」というのが、守山藩の理由です。

「ばくち」は、守山藩にとっては、「普通の犯罪」ではなく、強盗に匹敵する犯罪である・・・、というのです。「ばくち」は、裁判において、「打ち首」・「遠島」などの重刑に結果します。

阿部善雄氏は、その著『目明し金十郎の生涯』の「ばくちの流行」の小見出しのもとで、守山陣屋の「ばくちの摘発」がどのように行われたのかを記しています。

「賭博の宿元」となった者だけでなく、それを取り締まり、未然に事件を防ぐ義務と責任があった、「庄屋・組頭・長百姓らの職務怠慢の責任も当然問われることになった」のです。毎月出すことが義務付けられた、「賭博をしないという」「月切証文」は、「偽り」であったと断定して、「偽りの証文を提出したことも、改めて糺明の対象になった・・・」というのです。

町や村で、「ばくち」・「賭博」・「博奕」という犯罪事件が発生した場合は、その容疑者だけでなく、「とばく」防止のための「監督をきびしくしなかった」町方役人・村方役人も同罪に処するというのです。

守山藩の「ばくち」撲滅のためのなみなみならぬ決意をうかがいみることができます。

「元文二年三月晦日」、「芹沢村にある照明院の観音堂の祭りに、「二十三人もの博徒」によって賭場が開帳されようとしたとき、庄屋仲左衛門は「守山領における賭博の禁止を告げて、追い立てることにした」そうです。「博徒」を村から「立ち去らせるまでには一通りの苦労ではなかった」そうですが、「やくざたちの恨み」を買うことになり、「奥羽仙道筋のばくち打ち・・・六十人が庄屋宅に押し入る」という脅迫を受けることになります。

庄屋をはじめとする村方役人は、守山藩陣屋に、「やくざ集団が来襲する」ぞという脅迫を伝えるのですが、「陣屋はやくざたちが守山領内へ踏み込むなどとは、とうてい考えられない」として、芹沢村の村方役人にこのように指示するのです。

「万一そうした事態が発生し、刃向かうことになったならば、棒で打ちすえて縄をかけよ、もしまた刃傷に及ぶことがあれば、打ち殺しても結構だ、そうなれば一郷の敵だから、村中で相談して手筈を決めておくように・・・」。

庄屋仲左衛門は、「庄屋」といっても、郷士階級の家柄・・・、守山藩から、「やくざ集団」撲滅の許可が下りた以上は、文字通りそれを実践したかもしれません。守山藩では、犯罪者の処刑は、郷士階級が執行したようですから・・・。そうしないと、「ばくち・・・を取り締まらなかった」「職務怠慢の責任」を問われ、「庄屋」身分を剥奪、屋敷・田畑も藩に取り上げられ、一族郎党糊口をすする身にならないとも限りません。

守山藩は、「やくざ」・「やくざ集団」を取り締まりの対象としてのみ認識し、素人玄人を問わず、「ばくち」・「博奕」に極刑をもって対処した・・・、といってもいいのではないかと思われます。

強盗・殺人に匹敵する「博奕」・・・。

強盗・殺人が、いつの世にも存在しているから、その存在を社会的に認めざるを得ない・・・、という発想がナンセンスであるのと同様、博打・博奕が、広く世の中に行われているから、その存在を社会的に認めざるを得ない・・・、という発想もナンセンスです。

『目明し金十郎の生涯』の著者・阿部善雄氏は、「目明しがやくざの親分として、また顔役として、どのような悪事をしてきたか、さらにどのように彼らが支配者の命令によって、自分の仲間と連絡をとりながら、他領に逃亡した犯罪者を追跡したかということなどは、目明し金十郎の生涯から、十分に読み取れるだろう。」といいますが、『部落学序説』の筆者である私は、『目明し金十郎の生涯』を何度読み直しても、そのように<読み取る>ことはできないのです。

目明し金十郎は、その生涯を通じて、近世幕藩体制下の守山藩の陣屋の、司法・警察である非常民の一翼をになったひとであり、その生涯の最初から最後まで司法・警察官であったと確認せざるを得ません。

次回、目明し金十郎自身が、自らを「やくざの顔役」でもなければ「博奕」・「博打ち」でもないことを弁明する場面を検証してみましょう。もちろん、阿部善雄著『目明し金十郎の生涯』の論述を参考にしながら・・・。

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