2021/10/03

周防国・室積の遊女の碑

 周防国・室積の遊女の碑


昔、カメラのキタムラが「300円カメラ・ガラクタ市」をしていたことがあります。

娘が小学校低学年のとき、夏休みの宿題に、アサガオを観察をするというので、娘が使うカメラが必要になって、その 「300円カメラ・ガラクタ市」へ行ってみたのです。

そのとき、店に展示品で、そのまま中古になった一眼レフの「オリンパスOM1」を、消費税込み309円で入手する ことができたのです。そして、数ヶ月後、200ミリの望遠レンズも309円で・・・。

その「300円カメラ・ガラクタ市」は、定年退職した年配の方々の「カメラマニアの集い」のようなところがあって 、私も、そこでいろいろなことを教えてもらいました。

あるおじいさんとは非常に親しくなって、訪ねたり訪ねられたりする仲になりました。一眼レフのことはほとんど知ら なかった私に、彼は、懇切丁寧に、カメラの基礎知識から教えてくれました。

彼は、「滅びゆくものの姿」を写真にとるのが趣味で、単車で、いろいろなところにでかけているということでした。 彼が、いちばん気にいっている場所が、山口県光市室積の象鼻ヶ崎でした。

象鼻ヶ崎の浜辺には、潮の流れにのっていろいろなものが漂着するそうです。下関海峡から流れ込む日本海流は、北の 国の白樺の流木を運んできます。また、豊後水道を通って入ってきた黒潮は南の国の椰子の実を運んできます。いずれ も波に揉まれて、朽ち果てているそうですが、長い歳月をかけて漂流し、象鼻ヶ崎の浜辺に打ち上げられた白樺や椰子 の実の朽ちた姿は、それだけで写真になるそうです。

一度写真を撮りに行ってみたらいいと勧められて、知人と一緒に、2月の象鼻ヶ崎を訪ねたことがあります。

冬の象鼻ヶ崎は、瀬戸内ではめずらしく潮騒が聞こえます。

港の中は、ほとんど波がなく静かですが、訪ねたときは、浜辺に、真っ赤な椿の花が点々と散っていました。まっかな 椿の花を目で追っていきますと、浜辺の向こうに、瀬戸内の冬の海が見えます。殺風景な冬の海を想定してきたのに、 目にもあざやかな椿の花を見て、不思議な気持ちになりました。

象鼻ヶ崎の先端には、小さなお堂がありました。弘法大師ゆかりのお堂で、案内板には、「願いごとがある人は、お堂の前の浜辺の石をひとつ持って帰って、願いがかなったら自分の住んでいる場所の石をあわせて戻すように・・・」記されていました。

お堂の前の石は、小さな小判形の石です。財布に入れていても邪魔にならないような石ですので、ひとつ持ってかえり ました。

象鼻ヶ崎の話をするときに、「これがその石ですよ・・・」と見せるために拾って帰ったのですが、板書きの説明では 、霊験あらたかなのが、「疱瘡」。特に女性にとっては、疱瘡にかかって顔にあばたができるのは嫌われたようで、よ く女性が石を拾って帰るということでした。

その境内の一角に、遊女の碑がありました。

10センチ角の材木に白いペンキを塗った簡素なもので、その上に、「遊女の歌碑」と記されていました。また、その 側面には、次のような歌が書かれていました。

周防なる御手洗の沢辺耳風の音つれてささ羅波立・・・

私は、浜辺に所狭しと散っていた椿の赤い花と、この「遊女の歌碑」のイメージをダブらせながら、「この椿の花の赤 は、昔の遊女の悲しみを伝えているのかも・・・」と思わされました。

そして、次の日、徳山市立図書館の郷土史料室を訪ねて、この「遊女の歌碑」について調べました。

『風土注進案』に普賢寺に伝わる伝承が紹介されていました。

昔、その地方にある夫婦がいたそうです。その間にひとりの女の子が与えられたそうですが、成長して、摂津の国江口 の里に移って「宇治橋姫」という遊女になったようです。「摂津の国江口」というのは、神崎・蟹島・河尻・乳守・高 須などと同じく「遊里」があった場所です(小野武雄著『吉原と島原』)。

その頃、「性空上人」という人がいて、「生身の普賢を拝せん事を」願っていました。あるとき夢をみます。「所願を 果たさんとせば摂津の国江口に至るべし」。上人は、夢でみた御告げに従って、摂津の国江口にいったところ、遊女の 姿を見つけます。近づいたところ、遊女の歌う歌が聞こえてきます。「周防なる室積の中の御手濯に風ハふかねともさ さら浪たつ・・・」。

上人は驚いて目を塞いだところ、瞼の中で、その遊女が普賢菩薩に化身したといいます。上人は、「実相無漏の大海に 五塵六欲の風はふかねとも、随縁真如の浪たたぬ時なし」と悟ったといいます。

上人が目を開けると、遊女は元の姿に・・・。上人が、舟に乗っている遊女に近づこうとすると、遊女の姿は消えてな くなったといいます。そして、上人の手には、「象尾」が残ったのです。

上人が、周防の国の室積を訪ねて、村人に、何か変わったことがなかったかと訪ねると、村人は、「近頃網して木仏を 得たり、畏憚りて近付ものなし」と聞かされます。上人は、この木仏を祀るために、普賢寺を建立したといいます。

室積村の普賢寺縁起伝説として語り伝えられたものです。

象鼻ヶ崎がある室積浦には、性空上人と遊女について別の伝承が語り伝えられています。「遊女の長者」がでてきます 。仏教の教説とは関係がなく、遊廓を経営する「遊女の長者」が、客が酒を飲み酔いがまわってきたころを見計らって 、遊女に、「周防なるみたらしの澤邊に風の音信て」(客を迎える準備ができたか)と歌えば、遊女が、「ささら浪たつ 」(準備ができました)と返す隠語として使われているようです。

室積は長州藩にとって「重要な役割をになっていた」そうですが、「宝暦」年間には衰微していたと言われます。室積 近辺の漁が思うように収穫できなかったことが原因であると言われています。しかし、室積港は、藩政改革の一貫とし て、港と港町が整備されることになり、「明和」年間には、室積の港と町の活性化が図られたといいます。室積浦庄屋 は、「湯屋の復活によって港町としての室積の繁栄を目論んでいた」といわれます。湯屋というのは、「「汚かき女」 と呼ばれる一種の遊女を抱え、廻船の船頭や船乗りに慰安の場を提供するもの」です。室積浦庄屋の目論見は成功し、 室積は、下関・中関・上関に並ぶ重要な藩の港になっていきます。室積の繁栄は、湯屋(遊廓)の経営者・「遊女の長者 」は、年間500両を越える収入があったことからも察せられます。

バブルがはじけたあと、象鼻ヶ崎を訪ねたときには、木の柱で作られた「遊女の歌碑」はすでになく、代わりに、何と かクラブという、光市室積の企業家クラブが、堂々とした石碑を建てていました。遊女の悲しみを伝えていた「遊女の 歌碑」とはまったく違う、その堂々とした石碑は、経済不況に陥った光市室積をその苦境から救ってくれる「遊女の長 者」の再来を祈るような石碑に思われました。私は、すごく、違和感を感じました。

そして、しばらくして、また象鼻ヶ崎を訪ねたときには、その堂々とした石碑は取り除かれ、木の柱で作られた「遊女 の歌碑」と同じ大きさの石碑が建てられていました。象鼻ヶ崎の冬の海に潮騒と混じって、昔の遊女のすすり泣きの声 が、再び、聞こえてくるようでした。

あるとき、室積の港町を妻と一緒に散歩しました。その辻で、3人のおばあさんが話をしていたので、訪ねてみました 。

「昔の史料を読んでいたら、室積には、遊廓があったそうですが、遊廓跡というのはあるのですか・・・」。
すると、ひとりのおばあさんが、口に指をあてて小さな声でこのようにいいます。
「あなた、いまどき、そんなことを聞いたら、大変なことになりますよ。遊廓がどこにあったかなんて・・・」。
私と妻は、てっきり、断られたのかと思ったのですが、そのおばあさんは、このように言葉を続けたのです。
「ついていらっしゃい。教えてあげますから。」

そのおばあさんの話では、室積の遊廓は悲しい場所であるといいます。「他の遊廓と違って、室積の遊廓は、遊女に子 供を産ませて、その子供にも遊女をさせていた・・・」というのです。「遊女の家は代々遊女をしていた」というので す。「家が貧しくて遊女をしなければならないというのは精神的に苦痛です。そういう苦痛を感じているといい遊女に はなりません。室積の遊女は、子供の頃から遊女であることになじませるのです。本当に悲しいところです・・・」。

「あの、その遊女の家の方は・・・」。
「ああ、今も室積に住んでいます・・・」。

おばあさんは、遊廓跡につくまで、そのような話をとぎれることなくしてくれました。遊廓跡の近くは、「穢多」の在 所であることを告げるとおばあさんはもときた道を帰って行きました。

そのときから、筆者は、「遊女とは何か」、「遊女と穢多とはどういう関係があるのか」、関心を持つようになりまし た。

訪ねた遊廓跡は、「跡」ではなく、建物全体が現存していました。私は、妻を遊廓の門の側に残して、遊廓の玄関を叩 きました。今は、篤志家によって、遊廓の建物が保存されています。その管理をされている女性の方が出て来られて対 応してくださいましたが、はじめて見た遊廓は、ある種の「牢屋」でした。人ひとりしか通ることができない程の狭い 廊下に狭い階段・・・。その奥にある客室。これを「牢屋」と言わないでなんと呼ぶのだろうと思わされました。

筆者にとって、「穢多」の世界も「遊女」の世界も、ほとんど縁のない世界です。

室積の町の辻でであったおばあさんが話していたことが真実であるのかないのか、筆者は、確認するすべはありません 。

『特殊部落一千年史』の著者・高橋貞樹の若き日の伴侶、小見山冨恵は、山口県光市の「昔の遊廓の、今は侘しい一隅 で、六畳一間の二階」を借りて晩年を過ごしていました。彼女を訪ねた沖浦和光は、彼女は、「若い時から婦人運動・ 反戦運動に参加し、高橋と同じ頃に逮捕されて獄中にあった。戦争中は、瀬戸内海のハンセン病棟で看護婦として働か れた」。彼女の住む部屋は「壁面は全部本で埋まり、80歳をこえてなお読書に励んでおられた」といいます。

光市にある、昔の遊廓を捜し当てたとき、その管理者の方に、「小宮山冨恵さんという方をご存知ではありませんか・ ・・」と訪ねたが、何も知らないということでした。

そのあとも、ときどき思い出したかのように、その遊廓跡を妻と一緒に訪ねたのですが、「忘却」の壁に阻まれて、ほ とんど情報を収集することはできませんでした。訪ねる都度、わたしの脳裏には、象鼻ヶ崎の「遊女の歌碑」と、真っ 赤な椿の花、そして、遊廓の2階に身をおいて晩年を過ごした女性解放運動家の姿が交互に思い出されます。(続く)
 

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