2021/10/03

山口県部落史研究の良心

 山口県部落史研究の良心


喜田川守貞という人がいました。

彼は、『近世風俗志』(岩波文庫)の著者です。本当の書名は『守貞漫稿』というらしいのですが、彼の素性については ほとんど分からないと言われています。

喜田川は、その冒頭で、「一書を著さんと思ひ、筆を採りて几に対すれども、無学短才、云ふべき所なし」といいます。「無学短才」という言葉は、彼が、近世幕藩体制下にあっては、「学歴も資格も持っていない」ということを意味しているのでしょうか。

喜田川は、「ここにおいて、専ら民間の雑事を録して子孫に残す」としています。彼は、大阪での三十年間の暮らし、江戸での十四年間の暮らしの間に、「俗」(風俗)について、種々雑多な聞き取りをしたようです。彼は、「見聞に従ひ、これを散紙に筆し、後に大略諸類を分かちて数冊・・・」にまとめました。それが、『守貞漫稿』、『近世風俗志』(岩波文庫)の原書名です。

大阪在住のときにはじめた「聞き取り」は、江戸に住居を移してのち、江戸での「聞き取り」の結果、両者を比較することで、彼の「俗」(風俗)についての研究は、大きく進展します。

喜田川は、彼の記す文章は、「毎時はなはだ粗密あり」といいます。

その理由は、「ただ見聞の多寡による」とありますが、それは、彼が、当時の正規の学者や研究者ではなかったことを物語っているのではないかと思います。

日毎に見聞きすることがらを、丁寧に書き留めていって、資料を収集。それが、いつのまにか、彼固有の資料集になっていって、執筆するに至ったのではないかと思います。

喜田川守貞著『近世風俗志』を読んだ、最初の感想は、『近世風俗志』は、近世幕藩体制下において執筆された名もなき人の「民俗学的研究」ではないかということです。近代において、近代的な学問のひとつとして民俗学を提唱したのは民俗学の祖・柳田国男ですが、柳田に先立つ、近世の時代に、民俗学を実践して、貴重な資料を残した喜田川守貞は、「民俗学の父」の名に値するのではないかと思います。

喜田川の書いた文章の中には、日本の封建的身分制度の上位を占める武士階級の自負心のようなもの、自分の属する階級に対する奢り高ぶりと、武士階級より下の階級に属する「士」階級(下の身分の武士や中間・足軽・穢多・非人)や百姓(農工商)に対する限りなき蔑視と差別のまなざしのようなものはありません。

近世の武士階級が持っていた、「賤しい身分」に対する蔑視と差別のまなざしは、武士階級の末裔である現在の知的中産階級にも受け継がれています。知的階級・中産階級に属する人々は、自らの社会的地位を誇り、彼らより、より低い社会層に属する人々に対して、意識的にも無意識的にも「蔑視と賤視のまなざし」を向けます。歴史学者や研究者、その教育者の中にある「賤民史観」や「愚民論」は、まさにそのしるしです。繰り返し言いますが、「賤民史観」は、歴史学上の「差別思想」です。

その差別思想は、「皇国史観」の信奉者にも、「唯物史観」の信奉者にも、精神構造の奥深くに巣くっています。明治以降の近代歴史学の負の遺産を、歴史学上の「右」の立場の人も、「左」の立場の人も払拭できないでいる歴史学の今日の状況は、「歴史学は死んだ」という言葉がいちばん似合っていると思います。

歴史学は、歴史の事実、その事実の背後にある真実を追求する学問です。

もし、その歴史学が、個別科学研究としての歴史学の本質を忘れて、国家の権力に身をすり寄せていき、国家の支配・統治、教育行政の啓発・啓蒙機関としてのおのれに甘んじているのであれば、「歴史学は死んだ」という言葉は、歴史学にいちばん相応しい言葉になります。

河村芳信は、《同和教育と部落史研究》という論文の中で、山口県の部落史の研究家や同和教育担当の教師に向けてこのように述べています。

「県内の部落史に関心を寄せてきたが、現実には、資料が乏しく手がかりがつかめないのが実情である。藩政時代の部落は、身分上人間外の人間におかれたため、歴史の帳にのぼらなかったのかと、時にこんな思いさえ浮かぶ。部落史は僅かの頁を与えられた庶民の片隅にひっそりとその姿を隠しているように思える。従って、部落の歴史は、直接資料を求めて、その一本道をたどろうとしても、非常に困難である。

そこで、部落の直接資料のみに固執するのではなく、広く一般史の中からも、部落史とは何かを問いつづけ、一片の関係史料でも目ざとく見付け出し、一片、一片を関連づけて、そこから、部落史、厳密に言えば、部落の歴史的背景を構成する、といった手法の特に必要なことを痛感する。

筆者が、この拙い研究をあえて記事として載せたのも、これが契機となって、誰かの手によって、さらに実証的な研究がなされ、部落史の間隙が満たされることを願ったからである。今後、少しでも部落史に関連のありそうな記録や事象が発見された際は、互いに大らかな気持ちで提供し、仮説も実証しあって、結果として、本県の部落史が次々と解明されていくことを望みたい。

次に、部落史研究は、たとえ断片的な史料や情報にしろ、部落関係者の協力を得ることなくすすめることは難しい。しかし、協力を依頼するにあたって、関係者が果たして喜んで協力の気持ちになれるものかの点も、立場をかえて考えてみる必要がある。部落の歴史は決して栄光に満ちた先祖の歴史ではない。できれば表沙汰にして欲しくない、余計なおせっかいはして欲しくない、と思うのが自然の情ではあるまいか。こうした気持ちを越えて、史料や情報を提供される場合、それは、部落差別を一日でも早く払拭して、子どもたちに、こうしたみじめな思いを二度とさせたくないとの一途の念願からにほかならぬといえよう。

研究にあたっては、それが〃行きずり〃の研究ではなく、部落に対する心からの理解を持ち、理解を深めながらの研究でありたい。真の理解なしには、豐富な史料や情報に出会ったとしても、部落の歴史的背景を正しく把握することはできないからである。そして、局外者あるいは同情者としての位置からではなく、共に部落差別の解消を願う実践者として研究をすすめたいものである」。

私は、この河村芳信についても、一度も面識はありません。

しかし、彼の言葉は、当初から座右の銘です。その理由は、歴史学者、教育者としての彼の真摯さにあります。引用した文章は、彼の論文の「おわりに」と題された文章全文です。もちろん、上記の文章の中にも、「賤民史観」の影響を受けていることは無視できません。

しかし、彼は、それを打破すべく、実証的研究の大切さを説いています。部落解放研究所だろうと、部落問題研究所だろうと、要するに大切なのは、どこまで、実証的研究に徹底しているかということです。

河村は、「行きずり」の研究を否定しています。

しかし、山口県の部落史研究家や教育者は、どれだけ、彼の意を汲んで、研究や教育に従事してきたのでしょうか。すべての同和対策事業の終了したとき、同和対策事業だけでなく、同和教育まで終了してしまったのではないでしょうか。

ここ、数年間、山口県立高校十数校で仕事をする機会が与えられました。同和教育担当の先生方からいろいろな話を聞く機会もありましたが、どの高校も、同和教育からの後退を感じざるを得ませんでした。

ある高校の校長は、同和対策事業終了と共に、同和教育も後退していく状況を嘆いておられました。「同和教育のための予算がつかなくなると、みんな同和教育から手を引いていってしまう。費用がでなくても、あなた(筆者)のように手弁当で関わるようでないと・・・」。

今日の山口県の学校の同和教育に関する様相を見聞するにつけ、33年間の同和教育の積み重ねは、それに賭けた時間と費用の膨大さにもかかわらず、結局、「行きずり」の研究、「行きずり」の教育に終わってしまったのではないかと思わざるを得ないのです。

私は、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老を尋ねたとき、既に、河村芳信の《同和教育と部落史研究》という論文を繰り返し読んでいました。

私が聞き取り調査に同行した「研究者」は、四境戦争に参加して戦死した茶筅の墓の「差別墓標」を調査に行ったのが本来の目的で、その村の浄土真宗の寺や、幕藩体制下、長州藩の牢屋があった場所の古老を訪ねたのは、そのときの「思いつき」であったといいます。最初から「聞き取り調査」を目的としていたのではない・・・といいますが、たとえ、それが、「行きずり」の出会いであったとしても、「賤民史観」という色眼鏡のために、住職や古老の語る言葉に含まれている真実な響きを見逃してしまったのは残念です。

河村がいう、「部落の直接資料のみに固執するのではなく、広く一般史の中からも、部落史とは何かを問いつづけ、一片の関係史料でも目ざとく見付け出し、一片、一片を関連づけて、そこから、部落史、厳密に言えば、部落の歴史的背景を構成する、といった手法・・・」、私は、歴史学だけでなく、社会学・地理学、宗教学、民俗学的資料も駆使して、「部落学」として構築しようとしているのですが、「部落学」構築を指向しはじめたのは、「研究者」との十四、五年に及ぶ無意味な会話・論争が背景にあります。

「賤民史観」という色眼鏡を外して、部落研究・部落問題研究・部落史研究に関わると、穢多や非人の本当の姿が見えるようになって、「楽しい」ですよ。日本の近代の歴史がどのように「捏造」されていったのか、その経過が手にとるように分かるようになると、ますます歴史研究にのめり込んでしまいます。

「部落学」構築の基礎資料・必須資料として、岩波書店の『日本近代思想大系』(全24巻)を挙げることができると思います。幕末から明治の中期(大日本帝国憲法制定)までの史料が集大成されています。それと、岩波文庫や講談社学術文庫をはじめ、文庫本の形で、幕末から明治初期にかけての内外の史料や資料が公開されていますので、河村がいう「部落の直接資料のみに固執するのではなく、広く一般史の中からも、部落史とは何かを問いつづけ、一片の関係史料でも目ざとく見付け出し、一片、一片を関連づけて、そこから、部落史、厳密に言えば、部落の歴史的背景を構成する、といった手法」を自分のものにすることは決してむずかしくありません。

それに、現代では、河村芳信の時代とくらべて、著しい研究環境の変化があります。

インターネットです。いろいろな情報を簡単な検索で豐富に入手することができます。沖縄に、近世幕藩体制下の非常民(穢多・非人)と同じ役務を担った人々が存在していたということを知ったのもインターネットを通じてでした。「沖縄に被差別部落はない」という説は、非常民(穢多・非人)に対する誤解に根ざすもので、沖縄にもきちんと穢多・非人相当身分があったということを知りました。

しかし、インターネット上の知識は、まだまだ、学士論文や修士論文、博士論文を書くための史料や資料は提供してくれません。「研究」と名前がつくものを執筆する人は、やはり、先達の研究の成果である論文や書籍を丁寧に読破していく必要があります。

一昨年、徳山藩北穢多村の系譜をひく被差別部落の集会で、『部落学序説』の概要について話をさせていただきました。その時、謝礼の代わりに、貴重な資料をいただきました。『城下町警察日記』(紀州藩牢番頭家文書編集会編・清文堂・15,000円)と『大阪の部落史第四巻史料編近代Ⅰ』(大阪の部落史委員会編・部落解放人権研究所発行・12,000円)。『部落学序説』を書き上げたら読ませていただこうと思っています。論文は、同種の長州藩の史料を使用します。

喜田川守貞著『近世風俗志』(岩波文庫)に出てくる近世の穢多・非人の姿を紹介しようとして脱線してしまいました。次回、「垣の内」は「封じ込める仕掛け」(のびしょうじ)ではないことを検証します。

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