2021/10/03

聞き取り調査の基本姿勢

聞き取り調査の基本姿勢(旧:部落学序説余話 その2)


この論文が、なぜ、「部落学」ではなく「部落学序説」なのか・・・。

そのことは、『部落学序説』第1章でかなり詳細に触れています。「序説」(プロレゴメナ)は、「部落学」が、新しい学として成立するのかどうか、成立するとしたら、「部落学」の固有の研究対象と研究方法とはなにか・・・を論じるためのものです。

「常民」の学としての民俗学を視野に入れながら、「非常民」の学としての部落学構築の可能性を模索するために執筆を計画したものですが、研究方法としては、「解釈学」の影響を強くもっています。既存の史料・伝承の「解釈」と、論文・資料の「解釈」を批判しながら、あらたな「解釈」を提示することを指向したのですが、その具体的な方法については、『部落学序説』第1章の関連箇所で詳しく言及しているので、ここであらためて論じることは避けたいと思います。

「解釈学」の原則としては、解釈者は、「テキストの前で己を透明にしなければならない・・・」というのがあります。先入観や偏見を排除して、テキストが語る通りにテキストを解釈しなければならない・・・、という意味ですが、解釈者が自分を透明にして、ことがらに対する先入観や偏見から離脱するということは、実際上は、非常に難しいことです。

1987年、いまから20年前、専修大学教授の鐘ヶ江晴彦さんから、1冊の本が送られてきました。それは、福岡安則・好井裕明ほか編著『被差別の文化・反差別の生きざま』(明石書店)です。

この書は、解放社会学会に所属される大学の教授・助教授の方々が、1983~1984年、「奈良県御所市の小林部落」で、「小林部落総合実態調査団」の一員として実施した「生活意識」調査の「聞き取り」の内容の要約と、その調査に関与した、当時教授であった江嶋修作氏、助教授であった野口道彦・鐘ヶ江晴彦・福岡安則・桜井厚・好井裕明各氏の論文によって構成されています。

この書は、筆者にとって、非常に参考になりました。

筆者は、この書を、次のような順序で読みました。

はじめに(福岡安則)
第Ⅱ部第6節 「聞き取りの意味」-調査者/語り手/読者にとって(福岡安則)
第Ⅱ部第1~5節(桜井厚・好井裕明・江嶋修作・鐘ヶ江晴彦・野口道彦各氏の論文)
第Ⅰ部こうして生きてきた(語り)(38人の小林部落の住人の証言)

『部落学序説』執筆のきっかけは、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老とのであい、その聞き取り調査にある・・・、ということは繰り返し述べてきましたが、その聞き取り調査の前に、筆者が目を通していた本の1冊の中にこの『被差別の文化・反差別の生きざま』があります。特に、福岡安則氏の「「聞き取りの意味」-調査者/語り手/読者にとって」という論文はいろいろ示唆にとんだものでした。

福岡安則氏によりますと、「聞き取り」とは、「生活の歴史、生活の事実、人びとの心情を、聞き取ること。」だそうです。具体的には、大学の教授・助教授の方々である「外部の者」(江嶋修作・野口道彦・鐘ヶ江晴彦・福岡安則・桜井厚・好井裕明各氏)が、「ある生活空間でずっと生きてきた人びと」(「奈良県御所市の小林部落」)の語りに耳を傾けること。」を意味します。

福岡安則氏は、「小林部落の聞き取り調査において、私たちは、各人各様に、自らの<ひととなり>を呈示し、さまざまな”失敗”をおかし、さまざまな感動、喜びを体験した。」といいます。彼は、また、「語り手の生活史を聞き取るとき、同時にそれは、自分の生活史をも語り、再確認していくことにもなる。」とも語り、「自分自身の生きてきた生活世界の知識や実感を背景にしながら、率直に問いかけていくこと。」とも語っています。

それを読みながら筆者は、小林部落で聞き取り調査をした教授・助教授たちは、被差別部落のひとびとに、どのようにその<ひととなり>を語ったのか・・・、非常に興味を持ちました。巻末の編著者略歴を読みながら、いろいろ考えさせられたのです。

江嶋修作(九州大学大学院文学研究科博士課程修了)
野口道彦(大阪市立大学大学院文学研究科博士課程修了)
鐘ヶ江晴彦(東京大学大学院教育学研究科博士課程修了)
福岡安則(東京大学大学院社会学研究科博士課程修了)
桜井厚(東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程修了)
好井裕明(東京大学大学院社会学研究科博士課程修了)

「単なる研究の対象として、被差別の事実、被差別の文化を研究するという大義名文のもとに、被差別部落の人びとの過去を、現在を踏みにじっていく・・・、単なる研究の対象として、被差別の事実、被差別の文化を、冷やかに分析していくガクシャ」を批判し、距離を置こうとする彼らが、どのように<ひととなり>を小林部落のひとびとに語っていったのか・・・、筆者は、大いに興味をもちました。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落探訪を前に、もし、被差別部落の聞き取り調査ができることになったときのことを考えて、できる限りの最善の準備をすることにして、この『被差別の文化・反差別の生きざま』を読み直したのです。そして、静かで深い衝撃を受けたのです。「ガクシャ」だけでなく、解放社会学会の教授・助教授の方々が被差別部落の聞き取り調査をするときのパスポートは、やはり学歴なのか・・・、と。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の語る話を聞いたのは、筆者の他にもう一人いました。その「研究者」が聞き取り調査の主体で、筆者はただ同行を頼まれただけだったのですが・・・。山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の家を訪ねる前に、その「研究者」は筆者にこのように言われました。「あなたのことを、高校の教師として紹介しますので、そのつもりで・・・」。学歴詐称・身分詐称・・・ということばが筆者の頭の中をかけめぐりました。やはり、被差別部落で聞き取り調査をするには、学歴や学者・研究者・教育者という肩書が必要なのか・・・、と思わされました。

そういう思いは、『部落学序説』にアクセスして筆者の「無学歴・無資格」という表現を批判される方々の目からみれば、「学歴をもたないもののひがみとねたみ、自己卑下・・・」にあたるのかも知れません。そういう側面が全然ないというわけではありませんが、福岡安則氏は、その論文「聞き取りの意味」をこのようなことばで結んでいました。

「被差別部落で生きてきた人びとの想い。怒り。喜び。悲しみ。願い。解放運動のなかの輝き。こうした事実と出会うこと。そのなかで、研究者自身が自らを変え、差別問題によりホンキで取り組んでいく。<主体性>確立のプロセス。これが、<原点>としての聞き取りのはずだ。その場合、研究者、調査者というレッテルにしがみつく必要はない。調査者である以前に、<ただのひと>としての自分がいるからだ・・・」。

福岡安則氏のそのことばを読み返しながら、「東京大学大学院社会学研究科博士課程修了・・・」という学歴を身にまといながら、いつでも<ただのひと>に立ち戻ることができ、そこからものごとを発想することができる福岡安則氏を、ほんとうの「学歴」のもちぬし、ほんとうの学者・研究者・教育者であると思わされました。

筆者は、最初から、「無学歴・無資格」の<ただのひと>、「自分自身の生きてきた生活世界の知識や実感を背景にしながら、率直に問いかけて」いけばいいと、勇気付けられました。

もし、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の聞き取り調査に入るまえに、福岡安則・好井裕明ほか編著『被差別の文化・反差別の生きざま』(明石書店)を読んでいなかったとしたら、おそらく、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の聞き取りから、『部落学序説』執筆のきっかけを得ることはなかったことでしょう。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の聞き取り調査を実施した、ある「研究者」のように、「調査する側が、あらかじめ持っている枠組」から一歩もでることなく、差別的な一般説・通説・俗説の確認で終わってしまったかもしれません。

そのころからでしょうか・・・、筆者が、「無学歴・無資格」を福岡安則氏がいう意味での<ただのひと>の別名・愛称として使用するようになったのは・・・。「無学歴・無資格」という表現から、「自らを卑下するような表現・・・」という認識しか得られず、「自分を謙遜ではなく卑下する表現をする者は部落問題を語るべきではない・・・」という結論を下される方々も少なくありませんが、『部落学序説』の筆者としては、<ただのひと>としての視点・視角・視座を今後も堅持したいと思っています。

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