2021/10/05

部落学序説の課題

 部落学序説の課題

山口県北の寒村にある、ある被差別部落を尋ねてからというもの、歴史の真実を見極めたいとさまざまな史料や文献を漁ってきましたが、長い間、作業仮説を立てては、それを検証、その作業仮説が破綻すれば、新たに別な作業仮説を立てて検証、さらにその作業仮説が破綻すれば、次の作業仮説を立てて検証・・・、そんな作業を繰り返してきました。


私は、子どもの頃、海が好きでした。

よく、波打ち際に行っては、砂遊びをしていました。時々、大きな波が襲ってきて、せっかく作った砂の城を崩されても、一向に気にはなりませんでした。波が崩した砂山の上にもう一度砂の城をつくりました。今、考えても、よく、飽きもしないで砂遊びをしたものだと思います。

作ったものが崩される・・・、私は、そういうことに慣れています。

他の人によってくずされる場合もあるし、よりいいものを作るために自ら崩す場合だってあります。無意味な営みをしているようですが、私は、そうすることで、目に見える、形ある砂の上ではなく、自分のこころの中に、目に見えない、こころの中の砂の城、簡単には崩れることのない城を構築することができるようになったのです。

そんな子どもの頃の体験は、大人になり、定年の季節に入り、実社会から身を引く年代になっても、私のどこかで大きな影響を持ち続けています。私が所属している宗教団体の部落差別問題の担当者を命じられたときも、一端引き受けたあとは、繰り返し、失敗やつまずきを経験しながらも、その営みを途中でやめることはありませんでした。部落差別問題の担当者をおりてからも、部落差別問題との取り組みを続けたのは、わたしの子ども時代の体験、海の波が教えてくれた、否、形作ってくれた、「途中であきらめない」という、私の性質によります。部落差別問題以外の担当になっていれば、やはり、その方面で同じ営みを続けたであろうと思います。

今回、WEB上で、『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』を書き下ろすことになった直接のきっかけは、ある出来事によります。

昨年の夏のある日、その日は、朝顔が百数十個も咲いた美しい日でした。私は、ある山口県立高校に仕事にでかけていましたが、その留守の間にひとつの事件がありました。そのとき、妻は、退院して自宅療養をしていたのですが、突然、見知らぬ男の人がやってきて玄関のガラス戸を割ろうとしたというのです。妻は、病後のため、体力に自信がなく、すぐに警察に通報しました。警察に電話されたと気づいた男は、すぐ離れてどこかへ行ってしまったそうですが、5~6分後に警察のパトカーが駆けつけてくれて、7~8人の警察官があたりを捜索、近くにある山口県立某高校に押し入って、同校校長から説得されているときに、駆けつけてきた警察官に逮捕されたといいます。その後、逮捕された男が、意味不明なことをしゃべっているというので、逮捕から保護に切り換えたとの連絡が警察から入りました。

その夕方、その男の両親がやってきて、ことの次第を話されました。両親の話だと、息子さんは、「出てきた人を、誰でもいいから危害を加えるつもり」で、玄関のガラスを、ゴルフのドライバーで割ったのだといいます。「はやく警察に連絡してくださったので、息子は、人身事故を起こさないで済みました・・・」と、深々と頭を下げられました。玄関の窓ガラスには、防犯フィルムを貼ってあったので、ゴルフのドライバーで叩かれても打ち破られるということはなかったのですが、息子さんを精神病院に強制入院させたという両親が気の毒でした。しかし、私たち夫婦は、それ以上、何も聞きませんでした。

次の日、その青年の母親がガラス屋と一緒にやってきました。ガラス屋は店に持ってかえって修理すると言って玄関のドアをはずして帰って行きました。青年の母親が、「修理がすむまで、ここで、またせてください・・・」というので、礼拝堂に通しました。すると、礼拝堂のうしろの書棚に、この『部落学序説』を書くための資料や書籍がたくさん並べてあったのを見て、それに気がついた母親は、一瞬不安そうな表情をされました。

私は、それとなく察して、「宗教教団の同和問題を担当してきただけです。私は、被差別部落出身ではありませんから、ご心配なく・・・」と心配を取り除こうとしました。すると、その母親から思いがけない返事がかえってきたのです。母親は、「息子は、実は、そのことで悩んでいたんです・・・」といいます。

青年の母親は、自分の方から、一方的に話をはじめました。

その母親は、結婚するとき、相手が「被差別部落出身かどうか・・・」確かめたといいます。そのとき、今の夫は、彼女に「部落出身ではない」とはっきり答えたというのです。「それならば・・・」と親類縁者もその結婚を祝ってくれたそうですが、やがて、子どもが与えられ、保育園に通うようになり、幸せな生活をしていたある日、市から「牛乳」が配布されるようになったといいます。近所の人に尋ねても、誰もそのような「牛乳」をもらっているものはいません。「なぜ、自分の子どもだけに・・・」、そう思った母親は、市の担当者を問い詰めたといいます。市の担当者は、「この牛乳は同和牛乳です・・・」と答えたそうです。

その日、その青年の母親は父親と言い合いになったそうです。

「あなたは被差別部落出身なのに、それを隠して、私と結婚したのですか!」

父親は、「自分は部落出身ではない。自分の生まれた家の道一本隔てたところから部落だ・・・」と言ったまま、何も話をしなくなったといいます。

母親は、「同和」とは何か、学校同和教育や社会同和教育に機会あるごとに参加して、理解に努めたそうですが、ある日、小学生の息子さんが学校から帰ってくるなり、「おかあさん、同和って何?」と質問したといいます。母親は、息子さんの質問になんとか答えようとしたそうですが、PTA対象の同和教育や社会同和教育で話を聞かされた、「人の嫌がる仕事を押しつけられた気の毒な人・・・」という話を、息子さんにすることはできなかったといいます。

中学生のとき、息子さんは、母親に、「なぜ、おかあさんは、同和地区の人と結婚したのか?」と母親を非難するようになったといいます。また、息子さんは、母親だけでなく、父親にも、同じような質問をしたそうですが、父親は、「うちは部落ではない・・・」とひとこと言ったまま、それ以上なにも言わなかったといいます。

高校、大学と進むに連れて、息子さんの悩みは深くなっていったといいます。そして、大学を卒業したあと、深刻な不況の中、就職先が見つからず、実家に帰って、アルバイトの仕事をしていたといいます。

仕事について数カ月、息子さんは、インターネットを見るようになったといいます。あるとき、「お母さん、インターネットの世界では、みんなぼくの悪口を言っている」と悲しそうに話したといいます。「あなたのこと、知っている人はいないと思うわよ。そのインターネットのホームページおかあさんにも見せて・・・」というと、「お母さんは見ない方がいい。お母さんも傷つくから・・・」と言って見せてくれなかったといいます。

息子さんはやがてノイローゼ状態になり、その日、父親の部屋をゴルフのドライバーで目茶苦茶に壊し家を飛び出したそうです。行くあてもなく彷徨っているうちに、当方の礼拝堂を見つけ、危害に及んだというのです。

その母親の話を聞いて、私も妻も、大きなショックを受けました。母親から、その話を聞くまでは、最近新聞やテレビで報道されている、「若者の理解できない事件のひとつ・・・」で終わっていたかもしれなませんが、母親の話を聞いて、「若者の理解できない事件のひとつ・・・」の背後にある問題の深刻さに驚きの思いを持ちました。

「なぜ、当方の建物を襲ったのか・・・」とお尋ねしますと、「おたくとは何の関係もないから・・・」ということでした。

私は、その母親にも、執筆中の『部落学序説』の話をしました。

そのとき、母親は、「もし、むすこが、インターネットであなたの話を見ていたら、ノイローゼにならないで済んだかもしれません・・・。退院してきたら、息子と一緒に、話をお聞きしたいと思います・・・」といって、帰って行かれました。

山口市で、第12回部落解放西日本夏期講座(1987年)が開かれたとき、部落解放同盟中央執行委員長の上杉佐一郎が、「地対財特法」下の高校奨学金の貸与化に触れて、このように話をしていました。

「高校奨学金貸付制度になり3年後から20年間返済することになるんですが、考え方によっては20年間は非常に長くていいなと思われるかもしれませんが、私はこれは差別の再生産の大きな危険性をもつ要因であると思います。金を借りて高校に行き卒業する、就職をする、通婚をする、そして子どもができる、10年先に給料をもらってくる、今は銀行振り込みですから奥さんに入るのが通常です。ですから奥さんの手に入ったうちから奨学金を払わないといけないのです。そうすると何も知らずに結婚した部落外の奥さんが「何の奨学資金ですか」と質問する。「そら同和の奨学資金だ」と言わないといけない。10年15年後に奨学資金をはらわなきゃならないということの中から新しい差別の再生産をつくりあげることになるひとつの危険な要素をもっていると私は思うのです」。

それから何年かして、山口県の被差別部落を、部落解放同盟中央本部がキャラバンをしたとき、どういうことが話されているのか、私も参加させてもらいました。そのとき、キャラバンに参加した中央本部の人にきいてみました。「一般の人と部落の人が結婚した場合、その間に生まれた子どもはどうなるのか」。中央本部の人は、「部落差別は血の問題であるから、両者の間に生まれたこどもは、部落民になる・・・」といいます。「それでは、もし、そのこどもがまた部落外の人と結婚したら?」と尋ねると、「部落の血が2分の1になり、4分の1になり、8分の1になっても、部落の血がながれている限り部落民である・・・」といいます。

私は、そのとき、部落解放運動は欠陥運動だと思いました。

部落差別からの解放と言われるさまざまな営みが、本当は、部落差別の拡大につながることに結果するのだとしたら、その運動は解放運動の名に値しない似非運動以外の何ものでもないと思われたのです。

ある被差別部落の人は、このように言い放ちました。「その息子さんは、差別者の血が流れているのだから、差別に苦しむような目にあっても仕方がない・・・」。私は、その言葉には、背筋が凍りつくような冷たさを感じました。

部落学序説を、WEB上で公表することにしたのは、思いがけないできごとの背景を知ったからです。前に、まえがきで、「被差別部落の古老の精神世界に通じる道・・・、それは、権力者や政治家、学者や教育者がつくりあげた賤民史観」という幻想の向こうに存在するのである。差別なき社会を願うものは、自分の足であるいて、差別の此岸から、「賤民史観」という悪臭の漂う海の底を超えて、非差別の彼岸へと旅立ちをしなければならない・・・」と書きましたが、この部落学序説は、新しい学問のありようを、学者や研究者、教育者に対して提案するだけでなく、「差別」・「被差別」の立場をとわず、部落差別に悩み苦しむ「あなた」を、「賤民史観」という悪臭の漂う海の底を、自分の足で歩ききって、「非差別の彼岸へ」たどり着く、本当の部落差別からの解放への道があることを提示し、「あなた」をその旅にいざなうものでもあるのです。その気になれば、たったひとりでもはじめることができる旅に・・・。

部落の血など信じてはいけないのです。

「江戸時代、三百年間差別され続け、人の嫌がる仕事を押しつけられた惨めで、哀れで、気の毒な人・・・」、こころない学者・研究者・教育者によってつくり出された幻想を信じてはいけないのです。彼らのしかけた罠に陥ると、かけがえのない人生を彼らの慰み物にしてしまいます。

「部落の血」など、あろうはずがありません。

差別を経験した世代は、次の世代に差別が及ぶことを阻止する努力をするでしょう。さらに次の世代に差別が及ぶようなことがあれば、それは世の変革と改革に向かい、場合によっては、「世直し一揆」や革命に発展させることになるでしょう。人間とはそういうものです。江戸時代三百年間、黙って差別に耐えてきた・・・、そんなことあろうはずがないのです。それは、権力者や政治家、学者や教育者がつくりあげた「幻想」にすぎません。

被差別部落の女性たちは、一番そのことを知っていました。だから、自分たちのこどもを産み続けたのです。母親は、「あなた」を差別の中に突き落とすために産んだのではありません。試練を乗り越えて、希望を掴むために、「あなた」をこの世に送り出したのです。

人間の本当の価値は、自分の意志を超えた、自分の力ではどうしようもない「所与」の人生をいさぎよく引き受けて生きることができるかどうかによって決まると私は思っています。

この『部落学序説』は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を徹底的に破壊しつくすことを課題としています。差別・被差別の立場を問わず、部落差別の完全解消を願っている読者のみなさん、筆者と一緒に「賤民史観」を取り除くたたかいをはじめてみませんか。

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