2021/09/30

山口県地名総覧と被差別部落

山口県地名総覧と被差別部落

数年前、ある施設が閉鎖されたとき、その施設長から、「部落学」研究に役立つなら・・・といって譲渡された資料に、『日本分県地図・地名総覧』(人文社)があります。

それは、昭和56年版で、出版当時の価格は2万5千円です。個人の蔵書として購入するには、かなり高価です。地方行政の統廃合が進められた現在、この資料は現在的価値はほとんどないにひとしいと思われますが、昭和56年といいますと、筆者が、日本基督教団の宗教教師になった年です。この資料が現在的価値をもたなくなったのと同じく、筆者も現在的価値が著しく減少しているのかもしれません。

この『日本分県地図・地名総覧』の中に、今回の主題の中で取り上げる「山口県地名総覧」が収録されています。

周防国・長門国にあたる14市11郡の市町村の「地名」が掲載されています。

その「地名」は、次のように掲載されています。例として、『部落学序説』・『ある同和対策事業批判』の中に登場してくる、近世幕藩体制下の「徳山藩北穢多村」の系譜をひく被差別部落を含む旧新南陽市富田をとりあげてみましょう。

【富田】
仙島・竹島・西ノ島・黒髪島(明石・川崎東・同南・同西・新開作・菊ヶ浜・新開作南・若葉・道源開作・椎木開作・野村開作東・同西・土井・古川・政所東・清水・古開作・古市東・同中・同西・同北・三本松・泉屋開作・大神・大神東・新堤・坂根河内・宮ノ前・新町・浜田・横町・ひじ・平野上東)

『日本分県地図・地名総覧』は、「地名」は、「大字・小字」と「通称」に別けて掲載されています。

上記の例の場合、【富田】は「大字」で、()内の地名は、大字の中の「地名」の「通称」ということになります。「通称」は、上記の例のように、大字内のすべてが列挙されている場合と次の例(旧徳山市の東に位置する被差別部落のある大字)にみられるように、「通称」をすべて省略している場合があります。

【久米】

また、被差別部落出身の詩人・丸岡忠男のふるさとのある光市浅江の場合、中間形態として、次のように記載されています。

【浅江】
土井・荒神・協和・木園・他18

丸岡忠男のふるさとは、「他18」の中に含まれています。「山口県地名総覧」は、有名な被差別部落については、「他××」の中に入れ、被差別部落の「地名」に触れないようにする傾向があります。下松市の被差別部落のある大字についても同じです。

【末武中】
A・B・C・他15

末武中の場合は、列挙された3地名の中にも、「他15」の中にも被差別部落が含まれています。

「山口県地名総覧」と被差別部落の地名を比較してみますと、「山口地名総覧」においては、被差別部落の「地名」は、掲載されたりされなかったり・・・、しているのが確認できます。山口県内有数の大きな被差別部落の「地名」は、隠蔽される傾向が強いのに対して、あまり有名でない小さな被差別部落は、その名前が「通称」の中にどうどうと列挙されている可能性があります。

新南陽市【富田】の「通称」には、新南陽市の被差別部落3箇所の「地名」がそのまま掲載されています。「山口地名総監」は、新南陽市の被差別部落の「地名」については、公然とさらしているということになります。

出版元の人文社は、「資料の許すかぎりの多くを採用した・・・」と説明していますが、「資料の許すかぎり・・・」というのは、「通称」名を公表しても、あとで問題が発生するおそれがない場合・・・、という意味を含んでいるようです。「地名」の採用に際して、「資料」に根拠を置くかぎり、「資料」の中に頻繁に出てくる、【久米】・【浅江】・【末武中】の被差別部落の「通称」も列挙せざるを得なくなるからです。山口県内では有名な被差別部落も、『日本分県地図・地名総覧』においては、その「地名」が伏せられるということになります。

部落解放同盟新南陽支部は、筆者の『部落学序説』執筆に際して採用している、被差別部落の「地名」を実名表記しないで、東西南北の地理的位置関係で表現するという方法に対して、被差別部落の「地名」の実名表記をしないことで、被差別部落の「地名」をタブー視する結果に陥っており、それはとりもなおさず、『部落学序説』の筆者の差別性のあらわれであると批判されてきました。

それから、1年、部落解放同盟新南陽支部は、ブログ『ジゲ戦記』で、その主張を再び展開されはじめました。ブログ『ジゲ戦記』が今後どのように展開されていくのか、予測することはできませんが、これまで公開されてきた文書の中から、部落解放同盟新南陽支部が、被差別部落の地名をどのように取り扱っているのか検証してみることにしましょう。

『ジゲ戦記』のほとんどの文章において、部落解放同盟新南陽支部の方々は、自分の在所を「被差別部落」とよび、「山口地名総覧」に出てくる「通称」でよぶことはないようです・・・。

筆者が最初に受け取った部落解放同盟新南陽支部からの「抗議文」には、筆者の文章「被差別部落と姓」について、「部落民の自主運動を否定するような論法」、「配慮を絶対化することで、名前をタブー視する主張になっている」、「カミングアウトを抑圧する論理」、「差別現実への従属、支配された枠へとゆがめることになる」と激しい語調で批判が羅列されてありました(1年後に公開された「抗議文」はかなり表現がやわらかくなっていますが・・・)。

部落解放同盟新南陽支部は、被差別部落のひとびとが、その在所を実名で語ることは「カミングアウト」(部落民宣言)に不可欠な要素であると考えられているようです。「部落民」であることを宣言することは、その在所の「被差別部落名」も明らかにすることを必然的に含むという主張はその通りであると思います。しかし、「カミングアウト」したあと、「カミングアウト」したひとは、その在所の「地名」とどのような関わりをもって生きていくことになるのでしょうか・・・。

『ジゲ戦記』をみるかぎりでは、部落解放同盟新南陽支部のひとびとは、その在所を、「実名」で呼ぶことはなさそうです(今後、地名・人名を実名表記される可能性もないわけではありあませんが・・・)。

『ジゲ戦記』に次の文章があります。

「うちの部落は古くは窪地(久保地)と呼ばれ、徳山藩の穢多頭がいたらしい。江戸時代、富田村の穢多村はうちの窪地と王子という2ヶ所であった。」

近世幕藩体制下の徳山藩の山陽道沿いの4つの「穢多村」の在所のうち、『部落学序説』の筆者が、「徳山藩北穢多村」とよんでいる「窪地」と、「徳山藩南穢多村」とよんでいる「王子」の2つの「穢多村」がとりあげられています。

しかし、「山口県地名総覧」の【富田】の「通称」(明石・川崎東・同南・同西・新開作・菊ヶ浜・新開作南・若葉・道源開作・椎木開作・野村開作東・同西・土井・古川・政所東・清水・古開作・古市東・同中・同西・同北・三本松・泉屋開作・大神・大神東・新堤・坂根河内・宮ノ前・新町・浜田・横町・ひじ・平野上東)のなかには、この「窪地」・「王子」という「地名」は直接的には出てきません。近代以降、他の名称で呼ばれるようになって久しいからです。

『ジゲ戦記』では、その被差別部落の「地名」を、「古くは・・・」と語りますが、「新しくは・・・」とは語ることはありません。「窪地」・「王子」を昔の「地名」を公表しても、今現在の被差別部落の「地名」(実名)にたどりつくことはできない・・・、という前提があるのでしょう。

部落解放同盟新南陽支部の方々がいわれる、「部落民」としての「カミングアウト」は、すべてをさらして部落解放運動をする・・・というのはなく、隠すべきところは隠して運動をする・・・ということを前提とします。それは、部落差別の現実が今もなお厳しいから、そうせざるを得ないのであろうと推測されます。「部落民」であることを隠蔽して失うものより、「カミングアウト」することによって失うものの方が多いと考えられるからでしょう。特に、2002年から、すべての同和対策事業が終了したいま、「部落民」として「カミングアウト」することで、直接的な「利権」に関係することが少なくなったいま、いたずらに被差別部落の「地名」・「人名」をさらすのは「差別」だけを招き寄せることになる・・・という警戒感も働いているのでしょう。

部落解放同盟新南陽支部の『部落学序説』の「地名」の取り扱いかた(実名記載しないで相対座標で表記すること)に対する批判は、近世幕藩体制下の「穢多村」の在所である「窪地」を「徳山藩北穢多村」、「王子」を「徳山藩南穢多村」と呼ぶことへの批判に還元されてしまうのでしょうか・・・。

「徳山藩東穢多村」と「徳山藩西穢多村」については、「新南陽市」以外の行政に属するので、部落解放同盟新南陽支部の方々は、ほとんど関心をお持ちになっていないようです。「窪地」・「王子」と同じように、両旧「穢多村」を古い「地名」で呼ぶことはないのでしょうか。いずれも、「山口県地名総覧」の「通称」の中に記載されてはいないので、「窪地」・「王子」同様、古い「地名」を表記することも可能であると思われるのですが・・・。

つまり、被差別部落の「地名」をタブー視しているのは、『部落学序説』の筆者ではなくて、部落解放同盟新南陽支部の方々のほうです。

筆者は、20数年、部落解放同盟新南陽支部の方々になんらかの形で関わり続けてきた結果、そのことばとふるまいから、そして、全国の部落解放運動の取り組みと差別事件、糾弾の内容を検証した結果、被差別部落の「地名」を、実名記載しないで、相対座標で表記することにしたのです。

部落解放同盟新南陽支部の筆者に対する、「部落民の自主運動を否定するような論法」、「配慮を絶対化することで、名前をタブー視する主張になっている」、「カミングアウトを抑圧する論理」、「差別現実への従属、支配された枠へとゆがめることになる」と激しい語調の批判は、何のための批判だったのでしょう・・・。

『部落学序説』が、第3章で終わらず、第4章で、「解放令」に触れることで、「窪地」・「王子」という、近世幕藩体制下の古い「地名」が、近代中央集権国家の新しい「地名」に置き換えられることを心配しての、先取りの抗議だったのでしょうか・・・。

「被差別部落と姓」で論じたことは、筆者の『部落学序説』のすべての文章に通底しています。

筆者は、被差別部落のすべての「地名」を、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」から解放し、被差別部落の歴史が、正当に解釈される時代の到来を願ってこの『部落学序説』を執筆しています。その戦いを共有することなく、『部落学序説』の追求する結果だけを先取りしようとする、部落解放同盟新南陽支部の主張は本末転倒といわざるを得ないでしょう。

『部落学序説』の筆者は、被差別部落の「地名」をタブー視することはありません。「窪地」・「王子」の持っている意味を、野本民俗学風に表現することも可能です。それどころか、現在の被差別部落の「地名」も同じ手法でその意味をときあかすこともできます。まかり間違っても、「窪地」を、日のあたらない、洪水にさらされる地理的に悪しき環境・・・、被差別のしるし・・・、などという解釈に陥ることはありません。

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