2021/10/05

差別・被差別の類型化

差別・被差別の類型化


差別・被差別の関係を、「差別(真)」・「差別(偽)」・「被差別(真)」・「被差別(偽)」の4種類の立場を想定し、それら相互の関係を集合演算の自然結合を使用して網羅的に、差別・被差別の関係を16パターンに類型化しました。

今、差別・被差別の関係を、類型化した16のパターンにそって、ひとつひとつ丁寧に説明していくのが筋なのでしょうが、賢明な読者の方々の読解力に期待して、省略したいと思います。図を挿入しておきますので、それを参考に類推してください。

今、『部落学序説』の筆者である私は、自分の立場を、「差別(真)」(被差別部落出身ではない=非部落民)に置いていますが、この場合、私は、差別・被差別の関係において、4種類の立場の人に接することになります。

Ⅰ 「被差別(真)」(部落民)
Ⅱ 「差別(真)」(非部落民)
Ⅲ 「差別(偽)」(隠れ部落民)
Ⅳ 「被差別(偽)」(部落民の仮面を被った非部落民)

差別・被差別を考えるとき、いつも、そのパターンを念頭においておくと、いろいろなことが見えてきます。

この差別・被差別の類型化がどのように役立つか、野口通彦著『部落問題のパラダイム転換』を例にとってみましょう。彼は、「部落民とそうでないものを分ける境界線が曖昧になってきた」と指摘します。前節で追加表示した「図」の縦の細線(被差別と差別を分ける境界線)にねじれが生じて、もう1本の太いS字型の曲線が生じる場合です。野口は、「境界線が入り込み、錯綜してきた」といいますが、図3はその状態と合致します。

野口は、部落民概念を再構築する必要を力説します。彼がもくろむ、新たな、差別・被差別の境界線は、図3のSの字曲線(太線)です。「被差別(真)」(部落民)(図のⅠ)と「差別(真)」(非部落民)(図のⅡ)は、変更ありませんが、「差別(偽)」(隠れ部落民)(図のⅢ)は、親が部落出身であることをこどもに教えず、また被差別部落を出て部落外に住み、学歴と社会的地位をえている場合、差別された経験もなく、部落民であるという自覚も持っていない場合が多いので、彼らを部落民から除外して、「差別(真)」(非部落民)に算入するというのです。野口は、知識階級・中産階級の仲間入りをした部落民を「差別(真)」(非部落民)にいれ、善意・悪意をとわず、他の人々から部落民とされた「被差別(偽)」(部落民の仮面を被った非部落民)を、今度は、逆に、「被差別(真)」(部落民)に算入しようというのです。その結果、下の図3の、Sの字曲線(太線)が、部落差別のあらたな境界線として登場することになります。

野口は、これを「部落概念の拡大」と称します。

部落解放運動等によって、学歴と社会的地位を手にした部落民は、現代的脱賤を認め部落民の範疇から外して一般に算入、学歴や社会的地位をもつことができず、部落にとどまっている人と、「いわれなき差別」を受けはじめた「被差別(偽)」(部落民の仮面を被った非部落民)を、「解放の主体の新たなる登場」として部落解放運動に組み込ませるというのです。

こうなると、従来の「部落民」という語は時代錯誤になってくるので、部落民に代えて、「被差別市民」という概念を用いることを提唱します。野口は、このようにして部落概念と部落解放運動の再構築を図るというのです。

この部落学序説の読者であるあなたは、この野口の提案をどううけとめますか。

野口の提案は、差別解消のための提案ではなく、融和事業・同和事業の都度行われてきた、差別の拡大再生産の営みで、悪しき差別行為であると思います。

私は、野口の教説と違って、部落概念の拡大・拡散ではなく、部落概念の縮小・追い込みこそ、差別なき社会をつくるための有効な方策だと思うのです。

野口には、被差別の人の痛みや苦しみに対する感受性のなさ、人権を侵害されたものの無念さくやしさは届いていないのかもしれません。現代の部落差別の枠組みをそのまま維持、新たな部落民を再生産し続けようと目論む彼の発想は、部落差別の完全解消に資するどころか、部落差別の露骨な再生産に奉仕することになるのです・・・。

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※『部落学序説』の筆者と、『部落学序説』の差別性を指摘される「部落解放同盟の方」との関係は、「差別(真)」と「被差別(偽)」の関係になります。筆者も「部落解放同盟の方」も、その出自は被差別部落ではありません。ふたりとも、「部落外」の人間なのです。筆者は、この『部落学序説』を執筆するに際して、「差別(真)」の立場にたっていることを明言してきました。しかし、「部落解放同盟の方」は、被差別部落出身でないにもかかわらず、「部落民」として行動してこられました。被差別部落出身者、また、部落解放運動家として、いろいろな差別事件の糾弾に関与してこられました。その席では、まるで、ほんとうの部落民であるかのように振る舞ってこられました。筆者の「差別」・「被差別」の類型化を適用しますと、彼は、「被差別(偽)」、つまり、被差別部落出身ではないけれども被差別部落出身者として行動していることになります。つまり、『部落学序説』の筆者は、「被差別(偽)」の立場から批判されていることになります。彼の批判は、「被差別(真)」からの批判ではないのです。彼が、ほんとうに、自分を被差別部落出身者として同化させ被差別部落民になりきっているのか、単なる精神的似非同和行為なのか・・・、筆者の知るところではありませんが、自分の視角・視点・視座をあいまいにするところでは、ことばとふるまいもあいまいになってきます。『部落学序説』の執筆をはじめて9ヶ月になりますが、筆者は、まだ、一度も、「差別(真)」からの批判は受けていません。「被差別(偽)」の立場から「差別(真)」の筆者への批判では、山口県北の寒村にある、ある「被差別部落」の古老と筆者の出会い、「被差別(真)」と「差別(真)」の関係を凌駕することはできません。

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