21世紀の部落民像を求めて(福岡)
解放新聞新南陽支部版(1997年11月3日)
多くの愛読者の期待を裏切り続けてきた新南陽版ですが、21世紀が後3年強に迫ったこの時期につき1回の発行を最低のノルマとして自らに課しここに再開いたします。
部落民を取り巻く現状は多岐に渡り、小数支部、その運動的基盤の弱さを言い訳にしばらく休眠していた私たちの支部ですが、しかし、昨今の状況は、どこまでも自らの部落民性にこだわり続けてきた私たちにとっては、ますます生きにくいものとなってきました。
それでも、このまま消えて無くなってしまいたくはない。そんな気持ちだけは日々強くなってきました。部落差別に対する反対の意思は同じでも、21世紀に部落差別を持ち込まないというコピーには若干の違和感を持ってきました。つまり、部落差別をなくしていくには、部落民であるというこだわりを捨てることが大事という国民融合論では、私たちの様な、自分たちは部落民であると主張していくことがいけないのだということになります。
それでなくても、気の弱い私たちにとっては厳しい状況の中ますます孤立させられていってしまうような感さえします。
最近、私たちの数少ない仲間である下松愛隣教会の吉田さんが、山口県の部落人の歴史についての膨大な歴史資料の再検討をはじめられました。
川崎に関する数少ない資料など、前々から感じてはいたことだったのですが、吉田さんの研究によって、いよいよ江戸時代の私たちの先祖たちの実像がはっきりしてくると、今まで半ば常識化されてきていた「江戸時代の部落民は悲惨は姿」はますます怪しくなってきました。
全国的にも最近盛んに「部落史の見直し」と銘打っていろいろな研究が発表されています。ここにも江戸時代の部落民は決して悲惨な生活をしていたわけではないということが実証とともに出ているのです。
しかし、吉田さんの仮説は、更に一歩踏み込んで「江戸時代の部落民は悲惨な生活どころか、差別さえされていなかった」というものなのです。確かに農民たちとの確執は機能していたのです。
吉田さんによると、これらのことは、その気で調べれば特別な文献に寄らなくても、どこにでもある公立の図書館にある資料だけで十分にわかることなのだそうです。そんなことが何故今まで多くの著名な部落史に研究者たちには見えなかったのでしょうか。
ここに生じる疑念は、結局その時々の運動体の都合ではなかったのではないでしょうか。
江戸時代の部落民像は、ある意味では警察権力であり、軍事的なマニュファクチャ集団だったのです。つまり、多くの民衆を結果的にとは言え、抑圧する側の権力の手先だったのです。
このことをすんなりと納得することは私たち部落民のアイデンティティに関わる重大事です。どんなに差別され続けても、私たちの子孫はその中で生活し私たちにつながってきたのだ、やられ続けてきてもなお誇り高き人間の血は枯れずにあったのだ。そう思うことでしっかり自分たちを維持してきた面も確かにあったのです。そこの部分が揺れているのです。確実に私たちのアイデンティティが揺らいでいるのです。
しかし、こんな時期だからこそ、どんな歴史的事実が出てこようとも、それを正面から受け止められるだけの私たちの主体を鍛える(まったく不得手な分野ではあるのですが)必要を感じています。
まず、手始めに、「今を生きる山口県内の部落民の実像」を当事者の側から当事者の言葉で発信することを大切にしていこうと決意したのです。
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