2021/09/30

「GO」と「破戒」

「GO」と「破戒」(福岡五月)

                     2001年12月13日福岡五月氏からFAXで送られてきたもの


島崎藤村の詳説「破戒」(初版)を読んでみた。

部落解放運動の中では「破戒の主人公、丑松のようになるな。」との合言葉で宣伝されてきた明治時代の小説である。

それゆえ、永らく私のなかでは、瀬川丑松は差別に負けた部落民、卑屈はヤツと認識され、その小説を読み直してみようなどとは思ってもみなかった。嫌だったのは出身を告白する時、子ども達にひざまづいてまで許しを乞う場面である。何もそこまでしなくとも良かろうにという思いが強かった。

それが、長州藩の穢多の歴史を調べている吉田牧師から、「藤村は、破戒を書く前に信州の長吏(穢多)頭を取材して直接話を聞いているよ。」と教えられ、にわかに読み直して見る気になったのである。

読み始めは、ほうらやっぱり卑屈な男じゃん、ウジウジ考えていつも出身がばれないかとびくびくしてて、好きな女も告白するまえから諦めている。

それが、出身が暴かれ教師の職を追われ、最後信州から旅立つ場面に至ると、私は爽快な気分になった。ここにくるまでの鬱屈した気分がいっきに吹き飛ばされた。なぜなら、結局、丑松は彼なりの自己実現を成し遂げたからである。彼の出身宣言は現代では陳腐といってもいいくらいのひくさだけれど、それは明治という時代とその当時の社会の差別・抑圧を考えさせるものである。なにより、丑松は社会の抑圧と自己の出身とに真摯に対峙し、思想家の猪子連太郎がいう「我は穢多なり」に触発され出身を皆に告白する。出身を告白することで親友とのきずなは深まり、その親友の協力により志保という恋人も得る。そして、新たな仕事と希望に向かって旅立つのであるから、個人としてはこれ以上のハッピーエンドはあるまい。

そう思いながら最近映画化された、「GO」という小説の爽快な読後感を思い出した。

「GO」の作者金城一紀はジャパニーズコリアンであり、時代は多分、1980年代後半、「在日」朝鮮人の男子高校生が主人公。本名『李』、通称名『杉浦』、実に魅力的なこの青年の語り口は、あくまで明るく、差別やイデオロギーをしなやかにやり過ごしながら、最後、出身の告白によって一度は壊れかけた恋愛を成就させていく。時代も環境も主人公の個性も作者の立場もまったく違う小説でありながら、似たような爽快感を感じたのはなぜなのだろう。

この2編の小説が共に日本人社会の差別・抑圧を描いていること。それは「破戒」ではジメっと「GO」ではカラっと描かれるのだが。主人公たちは共にとの時代の差別・抑圧と対峙し自分なりの方法と個性で人生を切り開いていく。個人の苦闘と悲しみの後に訪れる幸福。まさにこれが同じなのだと気がついた。

藤村は最初の短編小説『緑葉集』の序に次のようなことを記している(抜粋)。

「眼に映じたまま心に感じたままを写して見ようと思いたった。予は先ず農夫の粗末な写生からはじめた。(中略)日露戦争が始まってから、予の知人も多く招集された。(中略)予は遠く山家にあって都の友人等が観戦の企てを聞き、自分も亦筆を携えて従軍したいと考えたが、遂にその志を果たさなかった。そこで予は『破戒』の稿を起こした。人生は大なる戦場である、作者はすなわちその従軍記者である-こう考えて、遠く満州の野にある友人等も、小説に筆を執りつつある予も同じ勤めに服して居ると思い慰めた」。

『破戒』は明治時代1904年から5年にかけて書かれた。水平社の創立大会が1922であるから、『破戒』に登場する猪子連太郎はその時代にあって過激なごく一部の思想家である。そのため猪子は殺される。丑松の父は山に隠棲し、牛飼いとなり、息子に出身を隠すのは生き死の問題と戒め、事故で死んでしまう。牛松は猪子と父に導かれながらも、2人の人生のどちらとも違う独自の道を切り開いていく。藤村は明治という時代の社会、そこに穢多の末裔を主人公として、生きることの困難とそれを克服しようと奮闘する人々を写生(スケッチ)してみせた。写生に解放運動的姿勢やアジテーションはいらないのである。

「GO」の作者・金城一紀は映画版のパンフレットにこう書いている(抜粋)。

「杉原をめぐる環境については映画を観た人があんまりイロイロ考えちゃうと、思想による運動にいっちゃうこともあるから考えないほうがいいですよと僕は言いたい。杉原のとった行動を観て、なにか共鳴しれくれればいいんです。僕は小説や映画は何も変えられないし、変えてはいけないと思っています。小説や映画でできることは、個人的な小さな化学反応を起こすくらいでいい、でも、その個人の小さな化学反応が大切なんです」。

はからずも時代を越えて、島崎藤村と金城一紀は、自分は小説家であり狭量な社会主義運動とは一線を画すと主張しているように思える。芸術はその影響力の大きさゆえプロパガンダに利用される。それは、人間の営みのすべてを包み込むような、懐の深い社会運動に今まで私たちは出会った事などないという証左であろう。

そろそろ『牛松のようになるな』というアジテーションはやめたほうがいいのではないか。明治という時代にあっての、藤村の先駆的な小説の試みと勇気はもう少し誉められてもいいと、読み直してみて思うことである。

そしてもっとも興味深いことは、次のような丑松の父に関する描写である。

「父は小諸の穢多町にうまれ、40戸ばかりの一族の「お頭」といはれる家柄であった。獄卒(ろうもり)と捕吏(とりて)とは、維新前まで、先祖代々の職務(つとめ)であって、父はその監督の報酬(むくい)として、租税を免ぜられた上、別に俸米(ふち)をあてがわれた」。

そして藤村は、『現代長編小説全集』第6巻(昭和4年新潮社発行)の巻頭の「序にかえて」でこう書くのである。

「新しいということは、現代では恥づべき何ものをも意味しない。さういう中にあって、独り新しい平民のみが特別の眼をもって見られて来たのは何故であるか。私が『破戒』を書いた頃の部落民は、その実決して新しくはなかったのである。古い、古い部落の民であった」。

古い古い部落の民が江戸時代の仕事を忘れ、アイデンティティを無くし、先祖を恥じ、隠すようになったのは何故か。穢多頭は何故、部落を捨てたのか。丑松の父のモデルとなった元穢多頭はどう答えただろう。私の知っている範囲での被差別部落の穢多頭は皆、部落を出ている。この奇妙な一致はどう考えればいいのだろう。

『破戒』巻末に集録されている語彙の解説「穢多」の項にあったのだが、封建的身分のひとつとして穢多の人口は明治4年(1871)太政官布告いわゆる解放令が発布された時点では約28万人だそうである。それが、水平社の時代1920年代には300万人と言われるようになる。いくら子だくさんでも被差別部落の人口が旧穢多だけではないのは、はっきりしている。この数のトリックはどう考えればいいのだろうか。様々な疑問がわいてくる。

吉田牧師に触発されて読み直した『破戒』は、色々な意味でおもしろい小説であった。

同時に『GO』という小説を読んでみて私はこう思うのです。「今も昔も、差別のキーワードは「隠せ」であり、それと格闘して生きるつらさと、その辛さがあるから大きな喜びがあるという矛盾、まことに人生は残酷で奥深いものだ」。

『GO』の主人公・杉原は言う、「俺、たまに、自分の肌が緑色かなんかだったらいいのに、って思うんです。そうしたら寄ってくる奴は寄ってくるし、寄ってこない奴は寄ってこない、って絶対分かりやすくなるじゃないですか」。

日本人ではあるけれど部落出身の私も20年前までそう思っていた。今でもたまに、初めて人と出会う場面ではチラッとそんな思いが頭のよぎるので、身につまされて涙が出てしまった。泣かないと決意しても涙腺は正直なのです。

そして、マイノリティ当事者が、こんなに素直に差別を語り、おもしろい青春恋愛小説を書き、それが、多くの人々によって受け入れられる状況をみて時代の変化を感じるのです。

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