2021/09/30

続・「タブー」の語源

続・「タブー」の語源

「タブー」とは何か・・・。

『広辞苑』をみても、『平凡社世界大百科事典』をみても、「タブー」ということばの持っている多義性のみ目について、「タブー」ということばの本質を把握するにいたりません。

筆者のもっている文化人類学関連の書籍をひもとくと、「タブー」のことばの多義性はさらに拡散され、無学歴・無資格の筆者のあたまでは把握することがますます困難になってきます。

こういう場合、筆者がいままで慣れしたしんできた論文・書籍に依存せざるを得ません。

「タブー」を理解するうえで筆者に一番影響を与えたのは、前回紹介した、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』(塙新書)です。

今回は、論述の大半を、その紹介に割くことになります。

佐藤によると、「タブー」ということばは、「ポリネシアの「土語」にすぎなかった」ことばです。

1777年イギリス人によって、トンガ島で、この「タブー」ということばが採集されます。それ以来、「太平洋諸島で・・・局地的な単語にすぎなかった」この「タブー」ということばは、「以来いまだ二世紀にみたないのに、・・・世界の共通語」になっています。

佐藤によると、tabu ということばは、 tapu ・ kapu ・ tampu などの類義語をもっており、「ポリネシア全体としては tabu よりむしろ tapu ないし kapu の方がふつう」に用いられているといいます。しかし、「タブー」( tabu )は、「今や世界の共通語」になっており、「専門の学術用語」としてだけでなく、「ごくありふれた日常用語になっている」そうです。

『部落学序説』の筆者である私は、「タブー」( tabu )ということばより、「禁忌」ということばの方を愛用してきました。特別理由があってのことではないのですが、キリスト教を表現するのに、「キリスト教」ではなく「基督教」を愛用するのと同じ嗜好です。「日本の禁忌はただちにタブーと類比すべきではないとする日本民俗学の議論」もあるようです。

ともかく、「タブー」( tabu )ということばは、「その本来の局地性をほとんど脱却」して、「学術用語としてばかりではなく日常用語にあってすら、ほとんどそれと意識せずに、普遍的・一般的な意味で「タブー」という言葉を用いているのである」といわれます。佐藤は、「「タブー」という言葉がこれだけ普遍的に用いられるということは、つまりタブーという事象がそれほどに普遍的だからにほかならぬ。」といいます。「タブー」は、「太平洋諸島の、または一般に未開社会なるものの占有物ではなく、おおよそ人類の共有財産といってもよい。」といわれます。

「タブー」( tabu )ということばは、「世界の共通語」として受容されるだけでなく、それぞれの国・民族のことばと比較され翻訳されてきました。北米インディアンの「トーテム」、メラネシアの「マナ」、ギリシャ語の「 hagos 」、ラテン語の「 sacer 」、ドイツ語の「 Scheu 」・・・、「タブー」( tabu )ということばを媒介に、その類似と相違が明らかにされてきたのです。

佐藤は、「「タブー」は現在ふつうに用いるときの一般化した意味では「禁忌」というのとまったく同じである。」といいます。

佐藤によると、「タブー」( tabu )ということばは、「字義どおりには「特に bu 徴をつけた ta 」、つまり「特徴」というほどの言葉で、凡常ならざるものについて形容詞として最初は用いたものらしい・・・」といいます。「その程度のことなら、・・・西欧各語、さらにまた世界のあらゆる民族は、「タブー」と同等の資格をもったそれぞれの言葉をもっている」といいます。「だが、それらは言葉としてまったく同一の意味とはいえず、さらにその言葉によって表現される事象については、それぞれの社会的ないし歴史的背景によってかなりに相違することは当然である。」といいます。

佐藤は、「タブー」( tabu )に該当する日本語として、「ヒ」「イミ」ということばをあげています。さらに、「フジョウ・ブク・ケガレ・オソレ」ということばもそれに含まれるといいます。「ヒ」は「火」に由来し「非日常的なもの」をさし、「イミ」とは、「イヅ(厳)」・「イツク(斎)」・「イワウ(祝)」・「イム(忌)」から派生・転化してきたもので、「それに対する態度」をさしているといいます。

この「ヒ」と「イミ」ということばは、野本民俗学(『神と自然の景観論』(講談社学術文庫))において、地名の発生にまつわる記述の中にしばしば登場してきます。それは、日本の地名は、「禁忌」ないし「タブー」と深く結びついているということを意味しています。

被差別部落の地名と「禁忌」の問題は、差別的な意味合いだけでなく、一般的な意味合いにおいて存在している・・・ということになります。

「被差別部落の地名とタブー」の問題をより本質的にとりあげるために、世界共通語としての「タブー」( tabu )と日本語としての「禁忌」の異同について、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』(塙新書)に全面的に依拠しながら、その本質を確認していきます。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...