2021/09/30

紀州藩の目付・竹本茂兵衛が出した穢多に対する衣類統制

紀州藩の目付・竹本茂兵衛が出した穢多に対する衣類統制

近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての紀州藩の「穢多」が身にまとっていた衣類のひとつに「紋羽織」があります。

紀州藩の「穢多」が、いつ、「紋羽織」を身につけるようになったのか・・・、紀州藩『城下町警察日記』には、「竹本茂兵衛様御目付之時分」とあります。

筆者、無学歴・無資格、歴史学の門外漢である故、この竹本茂兵衛がどのような人物であるのか、ほとんど何も知りません。『城下町警察日記』には、「目付」とありますから、身分の高い武士であったことに間違いはなさそうです。

竹本茂兵衛のむすめは、徳川8代将軍吉宗の側室・お古牟の方・・・。吉宗とお古牟の方との間に生れた、竹本茂兵衛の孫は、田安宗武です。 江戸城の田安門内に屋敷を構え、その石高は10万石、徳川宗武と徳川姓を名乗ります。

牧英正他著『日本法制史』によりますと、この田安宗武、「将軍家の血統を保持し補佐するために、家康の子が尾張、紀伊、水戸に配置されたのが御三家である。年を経て御三家と将軍家との関係が疎遠になると、新しい血脈で補強するため田安、一橋、清水の三家をたて御三卿と称した。」そうで、10万石といえば、『日本法制史』によると、「20万石以上の大藩21家」につぐ「5万石以上の中藩79家」の中にはいります。

竹本茂兵衛は、10万石の徳川宗武の祖父にあたりますので、竹本茂兵衛・・・、武士の中の武士であるといっても過言ではないでしょう。

その竹本茂兵衛が、紀州藩の目付をしていたとき、紀州藩の城内に入る「穢多」に対して、「衣類統制令」を出したというのです。その「衣類統制」の内容は、城内においては、紀州藩の「穢多」身分は、「紋羽織」を着用するようにというものでした。

「紋羽織」・・・

現代では、この「紋羽織」の「紋」は「家紋」として解釈されていますが、現代の「紋羽織」の解釈を、近世幕藩体制下の紀州藩の、「穢多」の「衣類統制」に対して読み込んでいきますと、紀州藩の「穢多」は、それぞれ「家紋」を持ち、その「家紋」入りの羽織を身にまとうことが許されていた・・・、という解釈が成立するようになりますが、しかし、歴史の事実はそれほど簡単ではありません。

「紋羽織」の解釈については、のちほど述べることにして、竹本茂兵衛が、紀州城内に入る「穢多」に対して、「紋羽織」を身にまとうよう「衣類統制令」を出した目的は、城内において、「穢多」が「諸士に紛」れることを防止するためであったようです。

紀州藩の「穢多」身分・・・、「紋羽織」を身にまとわなければ、他の「諸士」と区別することができない出で立ちであったことを示唆しています。「諸士」というのは、紀州藩の藩士階級のことですから、紀州藩の「穢多」・・・、「諸士」と区別することができないような装いをしたいたということになりますが、紀州藩目付・竹本茂兵衛、「諸士」と「穢多」とを一目瞭然に区別するために、「穢多」に「紋羽織」をみにまとうよう命じたというのです。

部落史の学者・研究者・教育者は、このことをとらえて、紀州藩も、封建的身分制度を徹底するために、「諸士」身分をもちあげるために、「穢多」身分に「賤民」身分を示す衣類を強制した・・・、と解釈することになるのでしょうが、このとき、紀州藩の「穢多」が身にまとうことを要求された「紋羽織」・・・、これは、紀州藩「穢多」の「賤民」性をしめす衣類になるのかどうか・・・。

日本の歴史学に内在する差別思想である賤民史観は、コップの水に落された数的の赤インクが、水全体を赤く染めていくように、「穢多」に関する史資料のすべてに浸透していくようです。

紀州藩『城下町警察日記』のこの記事の著者、紀州藩穢多・貞七は、「御在城之節ハ御門之内計ヲ着シ申候・・・」と書き記していますが、紀州藩の「穢多」、その役務上、紀州の城内に入るときには、用意していた風呂敷包みをほどいて、普通の「羽織」と「紋羽織」を着替えたようです。そして、役務を終えて再び、城内から場外へでるとき、「紋羽織」から「羽織」へと着替えたようです。

この紀州藩「穢多」の化粧直し・・・、当時の「百姓」身分は、一切かかわりのないことであり、そういうことが行われていたということも認識の対象外であったと思われます。

現代社会において、紀州藩『城下町警察日記』をひもとくことで、その当時、「常民」が知り得なかった、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の一翼をになってその職務についていた「穢多」の「衣類統制」の一端を垣間見ることができるのは、歴史研究の醍醐味です。

紀州藩『城下町警察日記』に記された、紀州藩穢多・貞七が記録した、紀州城内で身にまとうことが命じられている「紋羽織」と、紀州城下町で、司法・警察官としてその職務を遂行しているときにみにまとう「羽織」について、少しく、批判検証してみることにしましょう。普通の「羽織」と「紋羽織」・・・、どこがどう違うのか・・・?

部落史の学者・研究者・教育者からは、ほとんどその歴史的価値を認められていない紀州藩『城下町警察日記』の小さな字句をとらえて一般説・通説・俗説を批判している愚をおかしている・・・、と非難される可能性があります。最近よく目にしたり耳にしたりする<御批判>に、「論じる際に使用するテキストに問題がある・・・」というものがありますが、紀州藩『城下町警察日記』の部落史の史資料としての評価・価値については、無学歴・無資格、歴史の門外漢である筆者の与り知らぬことです。

読者の中には、「穢多が残した史資料に偏って論をはると、そのうち、『部落学序説』、誰にも読まれなくなりますよ・・・」と忠告してくださる方もおられますが(一生をかけて、部落史の研究を重ねてきたにもかかわらず、ほとんどアクセスする人のいないサイトからの助言・忠告には切実なものがありますが・・・)、筆者、無学歴・無資格の自負と責任において、紀州藩『城下町警察日記』に記されていることを素朴に追究するのみです。

むしろ、紀州藩『城下町警察日記』の内容を包摂できない部落史研究・・・、そんな研究、<研究>・<学問>の名に値するのかどうか、疑問に思います。

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