2021/09/30

渋染一揆の「穢多嘆書」に出てくる「穢多」の質屋通い

渋染一揆の「穢多嘆書」に出てくる「穢多」の質屋通い・・・

昨日、「百姓の衣類研究の新しい動向・・・」について、コメントがありました。ただひとこと、「ウザイ!」・・・

この言葉、筆者の辞書の中にはないので、インターネットで確認しましたら、若い人の間で流通している、ひとを馬鹿にするときの言葉であるとか・・・。

「百姓の目から見た渋染・藍染」の主題で、延々と書き連ねている筆者の執筆ペースに、読者の方々の中には、イライラしはじめた方が出てきたということでしょうか、「早く、結論だけを書け、結論を見て、筆者の文章を読み続けるかどうかを決める・・・」、と。

筆者自身、もっと簡潔に論述できなかったものか、反省していたところなので、読者の方のそのお気持ちも分からないわけではありません。

しかし、学歴・資格を持っておられる方の論文なら、結論だけを書いてもそれなりのインパクトがあるかもしれませんが、筆者は、何しろ、無学歴・無資格の典型、結論だけを書いたところで、そんなもの誰も信じはしない・・・、という思いがあります。

無学歴・無資格の筆者は、近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」に関する、既存の研究に対して総合的に批判を展開しようとしているので、なぜ、学者・研究者・教育者の「無紋藍染・渋染」の認識の間違いを指摘するのか、詳細に、批判の過程を明らかにすべきであると思ったからです。

無学歴・無資格の筆者には、ことのほか、論証の詳細を明らかにする責任が要求されるのです。

結論だけを求めておられる方々は、2、3週間後に、『部落学序説』にアクセスしてくだされば、この付論「百姓の目から見た渋染・藍染」の文章を書き終え、本論の執筆に復帰していると思われます。

なぜ、近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」に関する史資料に出てくる「無紋渋染・藍染」について論じるのに、「質入れされた百姓の衣類」を調べる必要があるのか・・・。それは、岡山藩の「穢多」身分の人々が、藩から提示された「御倹約御趣意之内穢多共別段御ケ条」に対して、「穢多嘆書」をしたためて、藩にその撤回を求めるのですが、その理由のひとつに、「質の流れ出た縞小紋、紋付杯・・・」とか、「持合たる衣類ニても指当ニ質入・・・」という表現がみられるからです。

岡山藩の「穢多」は、質屋通いをしていた・・・。

衣類を「質」にいれる、それに見合う金子を用立ててもらうだけでなく、場合によっては、質屋に並ぶ質流れの衣類を買っていた・・・。

それは、一体何を意味するのか・・・? 

岡山藩の「穢多」は、「質入れ」できるほど、高価な衣類を持っていたのか・・・? 
「穢多」が質入れした衣類の種類は・・・?
質屋に衣類をあずけたときの利息は・・・?
岡山藩の「百姓」と、岡山藩の「穢多」との間に、衣類の種類や数に差があったかどうか・・・? 
差別思想である「賤民史観」では、「穢多」身分は、「百姓」身分より、下位に位置づけられ、経済的格差が存在していたことが主張されるが、保有する衣類の種類や数に差があったのかどうか・・・? 
質屋は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の支配下にあり、特に、盗品の質入れについては、厳しい監視下にあったけれども、それを取り締まる「穢多」身分と、取り締まりの対象となる、その質屋とはどのような関係にあったのか・・・?
質入れをめぐって、「穢多」と質屋の間に癒着関係はなかったのか・・・?
岡山藩の「穢多」の衣類は、同じ司法・警察である「非常民」の「同心・目明し」等の衣類との間に、保有する衣類の種類や数について格差があったのかどうか・・・?

筆者は、「穢多嘆書」の中に出てくる、「質入れ」・「質流れ」を検証することで、「渋染一揆」を起こした岡山藩の「穢多」が置かれていた経済的・社会的状況が少しでも明らかになるのではないかと推測したためです。

従来の「渋染一揆」研究では、「御倹約御趣意之内穢多共別段御ケ条」の衣類の「色」について、「無紋渋染・藍染」に関心を集中させ、「渋染・藍染」を「人をはずかしめる色」、「差別の色」と断定し、「人をはずかしめる色」、「差別の色」を着せられた「穢多」身分の人々を、差別された「賤民」であると断定します。

従来の「渋染一揆」研究に携わった、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者は、衣類の「色」には、関心があっても、衣類そのものには、ほとんど関心がないようです。

筆者は、そこで、渡辺尚志著『江戸時代の村人たち』(山川出版社)、成松佐恵子著『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』(ミネルヴァ書房)、喜田川守貞著『近世風俗史』(岩波文庫)などの、衣類に関する論述を参考にしながら、「穢多」と「衣類」の関係を明らかにしてみようと思ったのです。

何しろ、筆者は、無学歴・無資格・・・、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者がほとんど言及してこなかった主題だけに、必要以上に時間をかけて論述しすぎているきらいはあります。

成松佐恵子氏は、近世幕藩体制下の「百姓」の本質を把握するのに、「見落としがちな史料(質入れ・質流れに関する資料)が重要な根拠になり得る」・・・といいます。「百姓」に関してだけでなく、「穢多」に対しても、同じことが言えるのではないかと思われます。

それに、筆者の手元には、すでに、「穢多」とその「衣類」に関する、「見落としがちな史料」がいくつかあります。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...