2021/09/30

村の経済的破綻と百姓の質入れ

村の経済的破綻と百姓の質入れ・・・

25年前、筆者が、山口県下松市の小さな教会に赴任してきたとき、下松市は、「財政再建財団」でした。

高度経済成長の大きなうねりの中で繁栄を極める、徳山市をはじめとする近隣の市町村と違って、下松市の市街は、不況感が漂っていました。夜、7時を過ぎると、下松市の商店街は灯をおとし、市内全体が闇に閉ざされていました。

しかし、少し離れた徳山市に入ると、午前2時をまわっても、商いをしている店がいくつもありました。高度経済成長の中謳歌している市町村と、「財政再建財団」の差は歴然としていました。

下松市が「財政再建財団」に転落したのは、市内の大手企業が、「構造不況」で不況に陥り、税収が激減したためでした。

そのとき、下松市は、隣の徳山市と合併を打診したのですが、徳山市は、「貧乏行政」との縁組を拒否しました。そのため、下松市は、下松市のまま、「財政再建財団」からの脱出を図ったのですが、それから25年・・・、下松市は、「財政再建団体」から離脱し、今は、周南地区の市町村の中で、安定した行政になったのではないかと思われます。

下松市の商業の中心は、JR下松駅前から、下松愛隣教会のある末武地区に移り、多くの企業が進出、いまでは、24時間営業の店が多数存在し、午後7時を過ぎると闇に包まれていた、「財政再建財団」当時の状況からすっかり離脱しました。

バブルがはじけたあとの、国の政策の失敗で、地方の市町村は不用な公共事業を強制され、多額な負債を背負わされ、中には、負債の重さに耐え切れなくて、「財政再建財団」に転落する市町村も出てきました。

下松市に25年身を置いてその市政を眺めてきた筆者の目には、政治家の政治家たる手腕は、高度経済成長下においてよりも、「財政再建財団」下の政治において発揮されます。そして、その中で培われたノウハウは、現在、「財政再建財団」に転落し、艱難辛苦に耐え、北海道夕張市を支えようとしている夕張市民の明日に、プラスとなって跳ね返ってくるものと思われます。

市町村の経済的破綻・・・、それは、現代だけではなく、近世幕藩体制下においても、その当時の村々がしばしば直面させられたものです。

藩政の失敗、不況不作・・・、それに直面した藩は、財政再建のために、さまざまな施策を実施したと思われますが、藩政の破綻は、支配階級である「武士」によって支配されていた「百姓」の生活と経済に深刻な影響を与えます。村民ひとりひとりが、社会の下層から順番に破綻していくだけでなく、突如として、村全体に、庄屋等村方役人と百姓、すべての上に襲ってくる場合があります。そのとき、村全体が、多額な負債を抱えた「財政再建財団」に転落するのです。

村全体が多額な借金をかかえる・・・。

そのとき、村はどうしたのか・・・?

『江戸時代の村人たち』(山川出版社)の著者・渡辺尚志は、その書において、「2章・村の借金」で詳しく論述しています。

村は、村全体で「村借」(むらがりと読む)するのです。「村借」には、「内借」(ないしゃくと読む)と「公借」(こうしゃくと読む)があるそうです。「内借」は、他村の「百姓・町人から借用するもの」で、「公借」は「藩から借用するもの」だそうです。

渡辺尚志氏は、具体例として次の事例を紹介しています。

「1838(天保9)年1月、乙事村では、不作が続いて村人全員が生活資金に困ったため、名主二人・年寄四人(これは村役人全員である)がその所持地10石8升5合4勺を質入れして、甲斐国居摩郡青木村の藤崎源兵衛・同八右衛門から、年季3年、年利15%で、60両を借金した」。

村と村民の破綻をまぬがれるために、村方役人は、その私有地を「質入れ」して60両という大金を借金するのです。

借金の返済ができなくなったとき、村方役人は、その私有地を売却し、借金の返済を求められます。それでも、借入額の元利を返済できなかったときは、債権者による、さらに厳しい取立てにさらされます。

村全体のすべての借金を、庄屋をはじめとする村方役人の私財で返済しないといけないとなると、誰も村方役人になることを拒否するようになります。村方役人は、「村借」するとき、村びとから、何らかの担保をとったと思われます。自作農からは、「土地」を質入れさせ、小作農から、衣類等の質草を質入れさせる・・・。

庄屋をはじめとする村方役人が、「質屋業」を兼業する前提は、その職務の性格上、最初から存在していたように思われます。

庄屋が経営する「質屋業」・・・、その営業記録に出てくる記録(成松佐恵子『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』)の質入れは、個人的経済的破綻に基づくものやら、不況不作による村全体の破綻に基づくものやら、藩政の失策に基づくものやら・・・?

岡山藩の渋染一揆の際、「無紋渋染・藍染」お断りの、「穢多歎書」に、「御役人仰は通りに候得共極貧者の多故機織て新二調候者ハ一ケ村に五人か八人、残りの者は・・・」かろうじて、質入れなどをして金策に走り、年貢を完済しているというくだり、それは、何を意味しているのでしょうか・・・?

岡山藩の「穢多村」においても、ほかの村々と同じように、「生活に余裕のある」層と、「生活苦に陥ったと思われる」層とが存在している・・・、ということを意味します。不況不作によって、「穢多村」全体が、経済的危機に直面し、「村借」の必要にせまられたとき、「穢多村」の庄屋等村方役人は、どこから、「村借」を受け、その「穢多村」の村びと(穢多)から、どのような土地や衣類を質入れさせたのか・・・?

「穢多歎書」の記述は、「穢多村」ないし「穢多」に対して、土地や衣類を質草として、金を融通する「質屋業」がいた・・・、ということを意味します。『渋染一揆』(解放出版社1975年)の著者・川本祥一氏は、かごやが、間違って「皮田村の者」をのせたとき、「そのかごやは、あとで、そのかごを焼きすてなくてはならなかった・・・」といいます(筆者には信じがたい話・・・。明治初期の話に置きかえれば、「旧穢多」が人力車にのったという理由で、人力車を廃車しなければならなくなる、という愚かな話・・・)が、それほど、「百姓」から忌み嫌われていた岡山藩の「穢多」に、誰が、その「衣類」を質草として、金子を融通したというのでしょうか・・・?

被差別部落出身者として、被差別の側から差別者を研究するため、はじめられた、川本祥一氏の「部落学」・・・、その前提は、多々問題を含んでいるようです。

「内借」ではなく、「公借」であった可能性はありますが・・・。

もし、「内借」ではなく「公借」であったとしたら、そのとき、「穢多」の土地や衣類を質草にとった、藩と藩の役人は、共に、<穢れた>存在になったのでしょうか・・・。かごやが、そのかごに「穢多」がのったという理由だけで、自分の高価な商売道具を焼き捨てるのと同じように、質草をとると同時に焼き捨てるということがあったのでしょうか・・・? それとも、藩と藩の役人は、自らその質草に手を触れることなく、ほとぼりがさめると、その衣類を、元の持ち主に無料ではらいさげたのでしょうか・・・?

近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」・・・。

近代以降の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者がつくりあげた「共同幻想」のようです。

次回、その「共同幻想」ぶりについて言及してみましょう。

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