2021/09/30

「岡山藩」の「倹約御触書」から「別段御触書」を分離することは間違い

「岡山藩」の「倹約御触書」から「別段御触書」を分離することは間違い

「岡山藩」の「渋染一揆」に関する学者・研究者・教育者の多くは、「岡山藩」の「倹約御触書」全29箇条を、第1条から第24条までと、第25条から第29条までの二つのグループに分類します。

第25条から第29条までを、「別段御触書」と呼びます。

本来、ひとつの「倹約御触書」であったものを、「岡山藩」の大庄屋は、第1条から第24条までと、第25条から第29条の二つに分けて布告します。前者は、『禁服訟歎難訴記』によると、「庄屋・平百姓・皮田百姓・町人・隠亡末々に至迄一統」に対して布告されたものです。

『渋染一揆論』の著者・柴田一氏は、『禁服訟歎難訴記』の「庄屋・平百姓・皮田百姓・町人・隠亡末々に至迄一統」記載は、『禁服訟歎難訴記』の著者の誤記あるいは誤解と判断されたのでしょうか、第1条から第24条までを、『禁服訟歎難訴記』の記載内容を修正して、「郡中の農・工・商・医者など、いわゆる「平人」を対象とするもの・・・」であるといいます。

柴田一氏は、「士農工商穢多非人」という枠組みを前提に、「倹約御触書」の第1条から第24条までを、「農・工・商・・・」を対象にしたもので、残りの第25条から第29条は、「穢多・非人」、すなわち、今日でいう「部落民衆」を対象にしたものであるといいます。

このことは、無学歴・無資格、歴史学の門外漢である筆者の目から見ますと、柴田一氏の、「倹約御触書」に対する歴史学的解釈というより、「倹約御触書」研究の情報操作のような気がしてなりません。柴田一氏によって遂行された、この情報操作は、当時の部落解放運動と連動して、部落解放運動に大きく貢献したのかもしれませんが、その結果、「渋染一揆」の研究者・柴田一氏の研究成果として、日本全国の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者に、「渋染一揆」研究の基本的枠組みとして、広く受け入れられていったのではないかと思われます。

端的に表現しますと、「倹約御触書」の第1条から第24条までは、「百姓・町人」に対して出された「触書き」、残りの第25条から第29条は、「穢多非人」に対する「触書」であると・・・。

その結果、「渋染一揆」研究の学者・研究者・教育者の中には、両者を比較研究して、「穢多非人」に対して出された「触書」が、「百姓・町人」に対して出された「触書」と比べて、どれほど「差別的」なものであったのかを証明しようとします。

筆者の目からみますと、柴田一氏の「誤謬」の上に、そのあとに続く、「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の多くが、さらに「誤謬」を積み重ねていっているように思われます。

筆者は、長州藩の「穢多請状」あるいは「非人請状」の<様式史的研究>あるいは<類型学的研究>から、「渋染一揆」発生の原因となったとされる、「岡山藩」の「倹約御触書」は、第1条から第24条までと、第25条から第29条までとに分離されるべきものではなくて、「百姓・町人」に対しても「穢多」に対しても、第1条から第29条の全条が、布告され、同じ書式で請状がとられるべきであった・・・、と思っています。

筆者は、「倹約御触書」は、『禁服訟歎難訴記』の記載通りに、「庄屋・平百姓・皮田百姓・町人・隠亡末々に至迄一統・・・」を対象に布告されたものであると思われます。

「岡山藩」の大庄屋がなした、ひとつの「倹約御触書」を、恣意的に分離して、そこから、ふたつの「倹約御触書」を偽作・偽造するという、大庄屋としての職務に対する逸脱行為を、今日の、「渋染一揆」の学者・研究者・教育者が、大庄屋の逸脱行為を無批判的に追認・黙認し、今日の「渋染一揆」研究の暗黙の前提とすることは、無学歴・無資格の筆者の目からみますと、著しい学的逸脱、歴史学の学者・研究者・教育者としての責任の放棄・・・、であると思われます。

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