2021/09/30

岡山藩の木綿・藍の地域史的研究の意味

岡山藩の木綿・藍の地域史的研究の意味

何度も繰り返し表現しますが、筆者は、無学歴・無資格、歴史学の門外漢です。そのうえ、先祖代々、「百姓」の末裔でしかありませんので、「部落史」の世界ともほとんど関わりを持つことはありません。

ただ、26年前、日本基督教団西中国教区の山口県内の小さな教会に赴任してきたあと、日本基督教団が、部落解放同盟から差別文書を放置したとの理由で糾弾を受け、その糾弾を根拠に、教団内の諸教区に、部落差別問題特別委員会が設置され、筆者は、たまたまその当初から、2期8年の間委員をさせられることになりました。

初代委員長の宗像基牧師から、何度も、「具体的に取り組むように」と指導され、機会を与えられて、山口県の部落解放同盟新南陽支部の方々と交流を持つようになりました。

しかし、具体的に、筆者が、部落解放同盟の方々と交流を持ちはじめますと、西中国教区部落差別問題特別委員会委員長の宗像基牧師をはじめ、多くの牧師は、筆者の疎外・排除をはじめました。筆者の取り組みは、牧師としてかかわれる範囲を超えている・・・、というのがその理由でしたが、筆者自身は、<牧師としてかかわれる範囲を超えている>とは、つゆも感じていませんでした。

部落解放同盟の方々も、最初から最後まで、「差別的な一宗教家・・・」としてしか受けとめておられませんでしたし、「無理をしないで、かかわれる範囲でかかわってくだされば、それで結構・・・」という雰囲気がありました。

ですから、筆者は、どちらかいいますと、<自然体>で、「被差別部落」の人々とかかわることができたのだと思います。

ただ、部落問題・部落差別問題・部落史に関する史資料については、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々が入手された史資料を、惜しみなく、コピーさせていただきました。その中には、当然のごとく、山口県の「被差別部落」に関する直接的な一次史料も含まれます。

2005年5月14日に、『部落学序説』の執筆を開始してからも、「無理をしないで、かかわれる範囲でかかわって・・・」きたにすぎません。少しでも無理をすると、おそらく、途中で、その執筆を投げ出してしまったに違いありません。

戦後、近世幕藩体制下の「総論」としての「部落史」ではなく、「各論」としての「部落史」(地方史の中の部落史)が関心を集めた時代があったようです。そのとき、地方の郷土史研究家・部落史研究家によって、それぞれの都道府県の「被差別部落」の歴史が研究され、時として、地域性と郷土性豊かな「部落史」が<地方>から<中央>に向けて発信されるようになりました。

そのひとつに、山口県の「青田伝説」とか、岡山県の「渋染一揆」とか、今日、部落研究や同和教育において一般的なテーマである、山口県の「青田伝説」とか、岡山県の「渋染一揆」とかが、地方史研究の成果として、著名な学者によって、「部落史」の「総論」の中に、取り込まれていきました。

著名な学者・・・、筆者の目からみますと、彼らの、「部落史」研究の枠組みは、筆者がいう、「日本の歴史学に内在する差別思想である賤民史観」でした。地方からの、「部落史」研究の成果は、その「賤民史観」にそって、史資料が選別され、解釈されなおして、「部落史」研究の枠組みである「賤民史観」の中に組み込まれて行きました。

『部落学序説』の筆者は、著名な学者の「部落史」研究の枠組みを問題として、それを批判検証し、「部落史」の史資料をその枠組みから解放するために、そして、歴史の資料をして歴史を語らせるために、「部落史」の一般説・通説・俗説となった、差別思想である「賤民史観」の批判検証と解体を指向しはじめたのです。

この場合にも、山口県の被差別部落の方々の、「無理をしないで、かかわれる範囲でかかわってくだされば、それで結構・・・」ということばは生きています。筆者は、今現在も、「無理をしないで、かかわれる範囲でかかわって・・・」いるに過ぎません。

筆者は、無学歴・無資格ですので、無学歴・無資格に要求される責任の範囲で、「無理をしないで、かかわれる範囲でかかわって・・・」いるに過ぎないのです。

「岡山藩」の渋染一揆についても同じことがいえます。

筆者は、手持ちの史資料だけを用いて、「無理をしないで、かかわれる範囲で・・・」執筆しているにすぎないのです。

「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々は、「岡山藩」の「渋染一揆」の研究は、「岡山藩」の史資料の範囲でなされるべきであり、他藩の史資料をもとに、これまでの、「岡山藩」の「渋染一揆」研究を批判するのは、「批判」ではなく「非難」に等しい・・・、と反論してこられるかもしれません。

『部落学序説』の筆者は、差別思想である「賤民史観」の枠組みの中で、先行する、あるいは、既存の「渋染一揆」研究を批判検証し、史実に照らして、部分的な間違いを指摘しようとしているのではなく、これまでの「渋染一揆」研究の前提である、研究の枠組みとしての「賤民史観」そのものを「批判検証」しているのです。

ほとんど、「岡山藩」の「渋染一揆」に関する史資料を持ち合わせていない筆者は、「無理をしないで、かかわれる範囲で・・・」論じていくために採用しているのは、「地域史的研究」の発想方法です。

たとえば、従来、研究されてきた、山口県の部落史・広島県の部落史・岡山県の部落史・兵庫県の部落史・・・、旧中国道を西から東に向かって旅をするとき、通るすべての地域を、ひとつの「地域史」として研究することです。

「岡山藩」の「渋染一揆」を批判検証するとき、「木綿」・「渋染・藍染」に関する史資料を、「岡山藩」の史資料に限定することなく、山口・広島・兵庫の史資料、また島根・鳥取、瀬戸内海対岸の徳島・香川・愛媛・大分・福岡の史資料をも使用することになります。「岡山藩」の史資料と他藩の史資料とを比較することで、「岡山藩」の史資料が語る意味をより鮮明に描くことが可能であると思われるからです。

そうすることで、無学歴・無資格、しかも、歴史学の門外漢である筆者の執筆環境は、「無理をしないで、かかわれる範囲・・・」であるにもかかわらず、より豊かなものになっていきます。

たとえば、「木綿」ひとつをとっても、同じ中国筋とはいえ、「木綿」の栽培には、<先進地>と<後進地>とがあります。「岡山藩」の木綿の生産は、どちらかいいますと、<先進地>ではなく<後進地>に数えられます。それは、「岡山藩」の木綿政策にどのような影響を与えたのでしょうか・・・?

「岡山藩」(備前藩)と、備中・美作の諸藩とを比べることで、さらにその問題に迫ることができるでしょう。

農家によって生産される木綿(原料としての木綿・反物としての木綿)が、どのようにして、「藩営専売制」に組み込まれていくのか・・・、その生産・流通システムは、「岡山藩」(備前藩)固有のものを、史資料から引き出すより、諸藩に共通の側面からとらえる方がより理にかなっていると思われます。

「藍」についても同じです。

近世幕藩体制下の「藍」については、徳島藩の「藍」がほとんど独占的な地位にあったと言われます。徳島藩との<貿易>によて、藍染の原料である「藍玉」を輸入しなければなりません。しかし、「木綿」・「藍染」によって、藩の専売品としてより利益を追求しようと思えば、「藍玉」も自藩で生産する必要があります。

梶西光速氏は、このように記しています。「藍は、天然染料の原料として、江戸時代に阿波・摂津を中心としてさかんに栽培された。とくに阿波の藍作は藩主の奨励をうけて発達し、1800年ころには、藍玉の産額15万~20万俵におよび、数量ならびに品質において、独占的地位を確立した」。

そして、こう記しています。「そのほか、筑後・備前・伊予・薩摩・長門などにも藍作が行われた」。

「岡山藩」(備前藩)も、「木綿」・「藍」、両方の産地をもっています。長州藩とその枝藩も、「木綿」・「藍」の両方の産地をもっています。両者を、比較検証することで、長州藩とその枝藩だけでなく、そのほかの諸藩とも比較検証することで、「岡山藩」の「木綿」・「渋染藍染」についての理解は、より深くなっていくと思われます。

「岡山藩」の「渋染一揆」の研究は、他藩の資料から類推するのではなく、地元の資料を使って解明すべきである・・・、というのは、「岡山藩」の「渋染一揆」研究の学者・研究者・教育者の自慰行為でしかありません。

「岡山藩」の「渋染一揆」発生の背景ともなった、「岡山藩」の安政2年当時の「借銀高」(負債額)「銀24677貫目」・・・、長州藩の負債額は90000貫目・・・。長州藩の「百姓」の質実剛健さは、「岡山藩」の比ではありません。長州藩の「穢多」の質実剛健さと、「岡山藩」のそれとについても同じことがいえます。

筆者には、「岡山藩」の「渋染一揆」を、「岡山藩」の史資料に限定することなく、<地域史的研究>を促進することで、「岡山藩」の「渋染一揆」の本質により近づくことができるのではないかと思われます。

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