2021/09/30

<高佐郷の歌>に出てくる地名

<高佐郷の歌>に出てくる地名

もう一度、<高佐郷の歌>を掲載します。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人強盗制道し
高佐郷中貫取

この歌は、山口県文書館の研究員であった北川健氏によって、《「防長風土注進案」と部落の歴史》(1983)に紹介されたものです。この中で、地名と思われるものは、<少岡>・<垣ノ内>・<山部>・<皮張場>・<高佐郷>・<高佐郷中>の6件です。

<高佐郷の歌>を含む『高佐廻り地名記』が公表されたのは、1962です。村長から、<むつみの俚謠>調査の依頼を受けた民俗研究家・波多放彩氏が、<丸3ヶ月、約240軒を訪い、180人の方々からおしえられた唄を・・・集めて1本に纏めた>『ふるさとの唄』に、『高佐廻地名記』として収録されたものです。

少し岡ハ垣之内(今は○○)
山部は穢す皮張場
○○の役は高佐郷
何そ非常の有時は
ひしぎ早縄腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人絶盗(窃盗の字音?)せいとふし
高佐郷中貫取す

波多放彩氏が調査をしているとき、<はからずも後井の蔵田喫介翁の筐底から発見された>そうです。<半紙22枚に達筆で認(ママ)められている。奥書によると嘉永7年(1854)、73翁吉岡順平祐永の作で、その4年後の安政5午(ママ)の季春、藤田安治郎がこれを写すとなっているが、写本にあたり、地名に数ヶ所の誤字を生じ、難解であるが風土注進案や、地下上申などを参酌し、あるいは現地に行って調査した結果、どうにかまとまったものになった・・・>そうです。

それから、23年後の1985年に出版された『むつみ村史』には、<第10編民俗と生活 7.むつみの歌>として、『ふるさとの唄』が転載されたとき、この<高佐郷の歌>は全文削除されてしまいました。

近世幕藩体制下の司法・警察である非常民の心意気を歌ったこの<高佐郷の歌>が、郷土史家によって発掘されたにもかかわらず、なぜ、『むつみ村史』から削除されなければならなかったのか・・・、その背後には、<高佐郷の歌>に出てくる、近世幕藩体制下の<穢多>の在所を示す地名の取り扱い方が大きく影響していると思われます。

部落史の学者・研究者・教育者の<高佐郷の歌>の解釈によって、ふるさとの誇り高き歌が、部落史の学者・研究者・教育者の差別的な賎民史観によって色濃く染め抜かれ、最終的には、<高佐郷の歌>全体が削除されるにいたったのでしょう。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、問題は、<高佐郷の歌>そのものではなく、その<高佐郷の歌>の中に、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての職務遂行の心意気を認識することができなかった、部落史の学者・研究者・教育者が、差別思想である賤民史観的解釈を強引に適用した点にあります。

<近世の被差別部落は、典型的には「垣ノ内」と「皮」と「長吏」役の三者によって象徴される。この三者をつなぐ論理が「穢」の観念、「けがれ」のイデオロギーである・・・>という解釈によって、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての職務遂行の心意気が歌われている<高佐郷の歌>は、<穢れの歌>に変質させられ、おとしめられてしまったのです。

『むつみ村史』<高佐廻り地名記>から<高佐郷の歌>が削除された原因は、<高佐郷の歌>そのものに起因するのではなく、その歌を、<穢れの歌>としてしか解釈することができなかった、部落史の学者・研究者・教育者の研究姿勢にあります。

それを確認するために、<高佐郷の歌>に出てくる、<少岡>・<垣ノ内>・<山部>・<皮張場>・<高佐郷>・<高佐郷中>の6つの地名と想定される言葉について、部落史の学者・研究者・教育者の解釈のあとをたどってみましょう。

まず、<高佐郷の歌>に出てくる<少岡>・<垣ノ内>・<山部>・<皮張場>・<高佐郷>・<高佐郷中>が、<地名>であるのかどうか、解釈の変遷をたどってみましょう。

<少岡>

<高佐廻り地名記>が発掘された直後に公開された<高佐郷の歌>(1962)では<少し岡>となっています。その読みは<すくなしおか>・・・。誤読される可能性はほとんどありません。1966年山口県文書館の研究者によって、<少岡>と訂正されますが、横に<地形>であるとの注が付されています。しかし、1980年に入りますと、<□□□□□□>と伏字にされ<少岡>という漢字表記が隠蔽されるようにかな表記にあらためられます。同じ年に、<□□□□□□>の横に<地名>であるとの注が付加されます。1983年、<地名>であることが確定され、<□□□□□□><地名>であるとの注なしで<少岡>と表現され、1985年には村史から<高佐郷の歌>全体が削除され<少岡>が隠蔽されることになります。

<垣内>

1962年は<垣之内>にはじまり、<垣ノ内>(1966年・1980年・1983年)を経由して、1983年<垣内>に確定されます。この言葉も、1985年村史から<高佐郷の歌>全体が削除されることで隠蔽されることになります。1962年の<垣之内>には、<今は○○>との注がついていますので、<垣内>は最初から地名として受け止められていたようです。

<山部>

1962年は<山部>、1966年は<山部><地形>であるとの注が施されています。1980年には<□□□>と伏字にされ、同じ年、<□□□><地名>であるとの注が付加されます。1983年には、<□□□><地名>であるとの前提から<山部>に変更になります。この言葉も、1985年村史から<高佐郷の歌>全体が削除されることで隠蔽されることになります。

<皮張場>

この言葉の使い方に変更は確認することができませんが、やはり1985年村史から<高佐郷の歌>全体が削除されることで隠蔽されることになります。

<高佐郷

1962年は<高佐郷>として表記されていますが、山口県文書館の研究員によって、1966年伏字扱いにされ<□□郷>となります。1980年には、伏字が2字から3字に変更され<□□□郷>となり、同じ1980年には<□□□郷>に<地名>であるとの注が付されています。山口県文書館の研究員によって、<地名>として<高佐郷>として確定されますが、やはり、1985年村史からは削除され隠蔽されることになります。

<高佐郷中>

この言葉は、前述の<高佐郷>と同じ。

つまり、<高佐郷の歌>に出てくる<少岡>・<垣ノ内>・<山部>・<皮張場>・<高佐郷>・<高佐郷中>という表記のうち、<少岡>・<山部>・<高佐郷>・<高佐郷中>は、山口県文書館の研究者によって、試行錯誤を経て<地名>として確定され、むつみ村内の被差別部落の在所につながる具体的な<地名>を含む<高佐郷の歌>が、村史の記述から削除され、<高佐郷の歌>そのものが<隠蔽>されることになります。

筆者、無学歴・無資格、部落史研究の門外漢であるにもかかわらず、<高佐郷の歌>に出てくる<少岡>・<垣ノ内>・<山部>・<皮張場>・<高佐郷>・<高佐郷中>について、『部落学序説』風の解釈をほどこしてみたいと思います。

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