2021/09/30

「別段御触書」の偏向した解釈

「別段御触書」の偏向した解釈

筆者は、無学歴・無資格です・・・。

『部落学序説』の執筆をはじめて、幾度となく繰り返してきたことばですが、無学歴・無資格は、筆者にとって、事実であり、現実でもあります。

筆者は、すべての事柄において、事実・現実に立脚して、ものごとを考察する必要があると思っていますが、「岡山藩」の「渋染一揆」の研究に携わっておられる学者・研究者・教育者の論文、あるいは著作物を拝見させていただいていて、<部落史の学者・研究者・教育者は、気楽でいいなあ・・・>、と感じさせられます。

無学歴・無資格の、歴史学の門外漢である筆者が、「渋染一揆」に関して文章化しますと、いろいろな方面から、「非難中傷・罵詈雑言」が浴びせられるようになります。一般説・通説・俗説に対して、異論を唱えることに対するバッシングです。

門外漢だけでなく、「渋染一揆」研究の学者・研究者・教育者の間においても、いままで、共通見解の構築が最優先され、そのために、共通見解に沿わない研究が排除されてきたのでしょう。

学問上の論争、批判検証に終わらないで、部落解放運動の側から、「差別文書、差別論文、差別発言・・・」と一方的に断定されて糾弾を受ける可能性が少なくなかったため、「渋染一揆」の多くの学者・研究者・教育者は、部落解放運動の動向を考慮しつつ、ある特定の方向へ「渋染一揆」研究を遂行していったのでしょう。

その結果、「渋染一揆」研究は、偏った、いびつなものになってしまいました。

プロの「渋染一揆」の学者・研究者・教育者から、「部落史のしろうとに、何が分かるか!」と激怒されるかもしれませんが、筆者は、「渋染一揆」研究の学者・研究者・教育者のプロフェッショナルではなくアマチュアでしかないが故に、かえって、さまざまなしがらみから自由になって、そのことについて、忌憚なく言及することができる・・・、と考えています。

今回、とりあげる、「岡山藩」の「渋染一揆」に関する史料である『禁服訟歎難訴記』の中に出てくる「別段御触書」は、歴史学の「様式論的研究」(様式史的研究)上、どのような「様式」に属するものなのでしょうか・・・?

筆者が使用する歴史学上の「様式」という概念は、佐藤進一著『新版・古文書学入門』(法政大学出版局)に出てきます。

佐藤進一氏によりますと、「様式」「古文書の様式」のことです。「古文書の様式」は、「古文書の形状・骨組のこと」ですが、その「形状・骨組」には、「差出者と受取者との政治的ないし社会経済的な関係」が表現されているそうです。

そのため、「文書の様式を正確に理解すること」は、その文書の政治的・社会的・経済的機能を「正しく理解する途である・・・」といいます。

そういう意味では、「岡山藩」の「渋染一揆」発生の原因となった、「別段御触書」の「様式」について考察することは、「別段御触書」の「中心的問題を理解する」上で、とても重要なことがらであるといえます。

しかし、この「別段御触書」が、古文書学上、どのような「様式」にはいるのか、このことについて言及している、「渋染一揆」の学者・研究者・教育者はほとんどいません。

「渋染一揆」の学者・研究者・教育者にとって、「別段御触書」の「様式」など、関心の対象外なのでしょうか・・・? それとも、「別段御触書」の「様式」については、常識中の常識に属していることがらで、あえて、説明する必要がないことがらなのでしょうか・・・?

いずれにしろ、「渋染一揆」の学者・研究者・教育者は、「別段御触書」の「様式」を無視しているようです。「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の間で、そのことについては、「別段御触書」の研究に際しては、その「様式」は研究の対象にしないでいいという、暗黙の了解があるのでしょうか・・・?

しかし、歴史学の門外漢である、無学歴・無資格の筆者が、「別段御触書」について批判検証し、字義的解釈をほどこしていこうとしますと、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々から、「別段御触書」の「様式」について、考察がない・・・との「非難」を受ける可能性は多分にあります。

無学歴・無資格というのは、不便なものです。

「渋染一揆」の学者・研究者・教育者が、暗黙の了解として、無批判的に受容することが許されていることがらについても、、無学歴・無資格の筆者の場合、無学歴・無資格であることの責任を問われ、「渋染一揆」の「別段御触書」の「様式」について、文献を引用しながらの証明をもとめられるのですから・・・。できないときは、「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の研究成果を黙って受け入れればいいのだ・・・、と。

『部落学序説』の筆者の目からみますと、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の世界は、「異常」な世界です。

その「異常」な世界は、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の研究論文だけでなく、それをもとに、小中高の教育現場で、「渋染一揆」の教材研究をするときにも、大きな影響を与えることになります。

前回、「渋染一揆」の「別段御触書」をその内容によって<色別>しました。

1.「別段御触書」を出すことになった藩側の意図
2.「別段御触書」が出されることになった「穢多」側の要因
3.「別段御触書」の条文
4.「別段御触書」の条文に従わなかった場合の罰則

『部落学序説』の筆者は、「別段御触書」を読むとき、上記のすべての文言を批判検証の対象にします。「別段御触書」の藩側の意図、「穢多」側の要因、個々の条文と罰則、すべてを考察の対象にします。

しかし、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者は、「別段御触書」について触れるとき、「3.」のみをとりあげて、「1.」と「2.」と「4」を無視します。藩側の意図や「穢多」側の要因、罰則規定などを不問に付すか、差別思想である「賤民史観」の単なる傍証にしてしまいます。

従来の、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者は、「別段御触書」を解読するとき、単なる法文としてのみよみ、通常の「法令集」の「様式」から逸脱する、「別段御触書」の、それを出した藩側の意図や、出された「穢多」側の要因を無視します。

つまり、『部落学序説』の筆者の目からみますと、「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の多くは、「別段御触書」の特定部分のみを抽出して、それを差別思想である「賤民史観」的解釈を施し、「岡山藩」の「穢多」を被差別民として断定し、それを前提につぎのような結論に達します。

「渋染一揆は、権力の差別政策に対する果敢な闘いのきろくである。わたしたちは、その全過程を通して、民衆が長い年月をかけて築き上げてきた、階級的自覚と連帯と知恵とを読み取ることができる・・・」(稲垣有一・寺木伸明・中尾健次著『部落史をどう教えるか』)。

その見解は、「別段御触書」から、「1.」と「2.」と「4.」の部分、藩側の意図、「穢多」側の要因、法令に違背した場合の罰則規定を無視した結果、作り出された「共同幻想」です。

稲垣有一・寺木伸明・中尾健次著『部落史をどう教えるか』だけではありません。

秋定嘉和・安達五男・井上満郎・川嶋将生・寺木伸明・渡辺俊雄著『人権の歴史 同和教育指導の手引 改訂版』(山川出版社)、千葉県高等学校教育研究会歴史部会編『新しい日本史の授業 地域・民衆からみた歴史像』(山川出版社)、久保井規夫著『江戸時代の被差別民衆』(明石書店)、川元祥一著『渋染一揆』(解放出版社)においても、「1.」と「2.」と「4.」の部分を欠落させた「別段御触書」の解釈のみが採用されています。

柴田一著『渋染一揆論』についても同じことがいえます。

「古文書の様式」上、「請状」にはいる「別段御触書」を、「請状」ではなく、単なる、法令集の「法令」として理解し、「別段御触書」がもっている「1.」と「2.」と「4.」の部分を過少評価しています。完全に無視しているといっても過言ではありません。

「別段御触書」の字義的解釈をはじめる前に、前回<色別>した「別段御触書」の、「1.」「2.」「3.」「4.」、それぞれの部分の内容を個別に考察してみることにしましょう。

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