2021/09/30

長門国のある被差別部落を尋ねて

長門国のある被差別部落を尋ねて

先週の金曜日午後、妻とふたりで、県北をドライブしました。

山口県はまだ紅葉シーズンではありませんので、紅葉見物・・・というわけにはいきませんが、目的の被差別部落のある地域に通じる道のいたるところにある道の駅に立ち寄りながらの、気楽なドライブです。

目的地にたどりつくことができるもよし、できぬもよし・・・、そんな軽い気持ちではじめたので、ほとんど交通量のない田舎の道を制限速度を守りながらのドライブでした。

その道の駅のひとつで、「くんたん」を売っている店がありました。園芸用の土つくりの本の中によく出てくる「くんたん」ですが、私は、いままで現物をみたことがありません。近くのいくつかの園芸店でも販売していなかったように思いますが、その「くんたん」を道の駅の売店で見たときは、とてもうれしくなりました。

道の駅の売店にいるおばあさんに、「くんたんって、なんですか」と尋ねました。おばあさんの話では、「くんたん」はもみがらを炭にしたものだそうです。「なんのために使うのですか」という、私の問いに、「くんたんは、黒色をしているでしょう。土に混ぜると、土の温度があがって、苗作りにいいんです・・・」と答えてくれました。

「くんたん」についての、あらたな発見です。

もみがらを直接土の中に混ぜると病原菌を発生しやすくなるので、「くんたん」という炭にしてから土に戻すそうです。「くんたん」は、土を改良するための微生物を育てる環境を作ってくれるとか・・・、昔、土つくりに関する本を読んでいたとき目にしたように思います。

今年、菊の冬至芽をとって、来年のための苗作りをするので、そのための土の改良材として、1袋200円の「くんたん」を3袋購入しました。とうがらし(たかのつめ)が1袋100円で売っていましたので、こちらも、自然農薬「元気丸」を作るときの材料として2袋購入しました。それから、昼食用に、草餅を一袋・・・。

静かに秋がしのびよる、山口県の街道を、のんびりとくるまを走らせ、視野に入る都度、道の駅に立ち寄りました。紅葉狩りはできませんでしたが、山口県の農村の収穫の秋を楽しむことができたドライブでした。

目的地の被差別部落にたどりつけてもたどりつけなくても、満足・・・、そんな感じのする、「萩市の被差別部落探訪」・「長門国穢多村探訪」の小さな旅でした。

最初、尋ねた被差別部落は、『日本分県地図・地名総覧』(人文社)の「山口県地名総覧」に、その名前が「通称名」として掲載されている被差別部落です。もうひとつは、古文書でその存在を確認してはいるのですが現在どのような地名(通称名)で呼ばれているのか不明な被差別部落・・・です。

その被差別部落のある地域に入ってから、徳山市立図書館郷土史料室で閲覧できる『周防国図』・『長門国図』の「街道」と、現在の道路地図の「道路」を比較しながら、『長門国図』から推定できる「旧穢多村」の在所が、現在の道路地図のどこに該当するのか・・・、大体の検討をつけて、くるまを走らせます。

最初の被差別部落の場所はすぐにわかりました。

くるまをゆっくり走らせていると、向うから、おばあさんが歩いてこられたので、くるまをおりて、おばあさんに尋ねました。

「ちょっと、お尋ねします。○○むらに行きたいのですが、どう行ったらよろしいでしょうか・・・」。

そのおばあさん、農作業スタイルですから、地元のひとなのでしょう。当然○○むらが、被差別部落であることは熟知していると思われます。

しかし、そのおばあさん、いささかのためらいを見せることなく、このように説明してくれました。

「この道を下っていくと、そら、あそこに、左に行く道があるでしょう。その先が○○です」。

そのおばあさん、なにもなかったかのごとく、ふりかえることなく、去っていかれました。

被差別部落の中をくるまで通って、もとの「道路」まで戻りました。

山口県の小さな教会で棲息するようになって、もう20数年が経過しますが、赴任と同時に、西中国教区部落差別問題特別委員会の委員にされたのをきっかけに、山口県内の被差別部落を尋ね歩くようになりました。

徳山市立図書館郷土史料室で『周防国図』・『長門国図』を複写してもらった以降は、その古地図(街道図)を手掛かりに、山口県内の被差別部落をドライブするようになりました。春夏秋冬、晴れの日も雨の日も、ときには、雪の日や嵐の日にも尋ねたことがあります。昼だけでなく、夕暮れ時の被差別部落を尋ねたことがあります。

周防国中茶筅寺の参道の石段に座って見た秋の夕日はとてもきれいでした。今も、私のこころに残っている被差別部落の風景です。

被差別部落の中に聞こえてくる、浄土真宗のお寺の鐘の音・・・。歴史の悠久の彼方から聞こえてくるような錯覚にとらえれたことがあります。

初雪が降った、山間の被差別部落の家々・・・。柿の実があかあかと残っていました・・・。

あじさいの花がきれいに咲いている雨の日、被差別部落に通じる橋のたもとに立って見た、被差別部落の家々のある風景・・・真っ青なあじさいのはながとてもきれいにみえました。そのときの被差別部落の風景は、あじさいの花と同じような姿に映りました。

海辺の被差別部落・・・。その岸壁に座って、沖を行く船をみつめていたこともあります。波の音がこころの中にやさしく響いてきました。

被差別部落のおじいさん、おばあさんにあっても、黙ってあいさつするだけ・・・。おじいさん、おばあさんも、黙ってあいさつを返されるだけ・・・。何事もなかったかのように、時間が経過していくような、そんな被差別部落探訪です。

ときどき、「何してんの?」と声をかけられるときもありますが、「被差別部落の歴史を調べているんです。このむら、古い歴史の史料に登場してくるんですね。それで、どういう場所か、一度来てみたかったんです・・・。」とほんとうのことを答えます。多くの場合は、「昔のことを知っているひとはめっきり少なくなって・・・」と残念そうに去って行かれます。

山口の地に身を置くようになって、20数年、そのような「環境」の中で、部落差別とはなにか・・・を考えてきたのです。被差別部落のひとびとの顔と姿のみえるところで、部落差別とはなにか・・・を考えることに徹してきたのです。

「○○むらはどこですか・・・」。
「○○むらはあそこです」。「○○むらにそこです」。「○○むらはここです」。

短い会話を成立させるために、徳山市立図書館郷土史料室で、古文書・古地図・研究論文などをできるかぎり時間をかけて調べてきました。

2つめの被差別部落は、長州藩の古文書の上で「穢多村」の存在が確認されてはいても、その場所が現在どのように呼ばれているかわからない被差別部落です。

大字名を用いて、「○○部落はどこですか?」(たとえば、被差別部落出身の詩人・丸岡忠雄のふるさとを尋ねるとき)とたずねた場合、適切な答えを得ることはほとんどできないでしょう。大字名を用いて、「○○部落はどこですか?」とたずねる側の姿勢の如何が問われる可能性があります。大字名ではなく、その地域で一般的に使用されている地名(差別の側も被差別の側も使用している地名)を用いてたずねる必要があります。それがわからないなら、大字名を用いて、「○○部落はどこですか?」とたずねるべきではありません。

今回、2つめの被差別部落の在所の確認は、「禁じ手」に抵触することになります。

その近くまでいって、やはり、道を歩いてきたひとにたずねました。今度は30代後半の青年です。

「萩城下に通じる旧街道を尋ねているのですが、最近、旧街道が分断されてしまっているので見失ってしまったのですが、どこへ行けば旧街道に戻れますか・・・」。

すると、その青年、「旧街道を通って、どこへ行かれるつもりですか?」と問い返してきます。

「通るだけです・・・」。

「そうですか・・・。詳しく説明することはできませんが、次の三叉路を右に、狭い道の方に入ってください。そこが旧街道です。でも、気をつけて行ってくださいね・・・」。

最初の被差別部落の在所を尋ねたときのおばあさんとの会話とくらべると、少しくことば数が増えています。しかも、「○○はどこですか。」、「○○は・・・です。」と、被差別部落の地名(通称名)を直接とりあげてはいませんが、実質上、被差別部落の在所を聞き出す会話が成立しているのです。

最初のおばあさんの場合、最初から、被差別部落の地名をめぐる「禁忌」は発生していません。

なぜなら、そのおばあさんが知っている被差別部落の地名とまったく同じ地名を用いて、そこへ行く道をたずねたからです。地元のおばあさんと、「旅」の途上の私との間には、被差別部落の地名をめぐって、避けなければならない「禁忌」はすでにないからです。すでに、その地の被差別部落の地名(通称名)をしっているひとに対して、その地名に触れてはならない、口にしてはならない・・・という「禁忌」は無意味になってしまっているからです。

しかし、二人めの青年の場合は、事情が違います。その青年と私との間には、最初から被差別部落の地名に関する「禁忌」が立ちはだかっています。たずねる方も、たずねられる方も、「被差別部落の地名・人名には触れてはならない・・・」という「禁忌」が働いています。

もし、私が、その地の被差別部落を探訪しようとしている、しかも、その名前も在所も知らない・・・、ということが、その青年に伝わると、おそらく、その青年は、私に、上記のようなことばを返すことはなかったと思われます。

旧街道沿いにあるのは被差別部落・・・。そのことがわかっているのに、「旅」の途上にある私は、そのことが明言しない・・・。あくまで、そのかたわらを通り過ぎるだけ・・・、という。その青年は、被差別部落の地名に関する「禁忌」に抵触しないように、そこに通じる道を教えてくれ、そして、その道を進むことは「禁忌」状態にあることを、「でも、気をつけて行ってくださいね・・・。」ということばで表現してくださったのであろうと思われます。

私は、その青年に教えられたとおり、くるまを走らせ、旧街道にはいり、あるめじるし(旧街道沿いの旧穢多村の在所を示すしるし)を確認したうえで、被差別部落の中を通って、もとの道に戻ってきました。実は、同じ道を2回はしりました。

そのむらのいたるところで、歴史の重みを実感させられたからです。

山口県にも戦後、部落解放運動が起こりました。部落解放同盟の支部も、県内10数カ所につくられました。しかし、その大半は、都市型に被差別部落です。都市化とともに、一般地区住民との混住化が促進され、同和行政によって、「同和地区」と指定されています。その「同和地区」住民は、一般地区住民と被差別部落住民の両方を含んでいます。戦後、都市化の進み具合の違いで、被差別部落の遅れが目立つようになり、経済的格差是正のため「同和対策」事業がなされたのです。

山口県の「同和地区」の場合、その地区に、同和会・部落解放同盟・全解連などの複数の運動団体がしのぎをけずっていました。それぞれの運動団体は、個別に対行政交渉を展開していました。ときには、その利権獲得をめぐって、運動団体相互に批難の応酬を展開するということも決してまれではありませんでした。都市型の「同和地区」の運動団体を支えていたのは、どの運動団体も、「自分たちこそ、ほんとうの部落解放運動の担い手である」という自負の思いではなかったかと思います。

それらの「同和地区」の運動団体に、多くの学者・研究者・教育者・宗教者・ジャーナリスト等が関与していきました。運動団体の指導者の語ることばを、多くの学者・研究者・教育者・宗教者・ジャーナリスト等は、無批判的に追従し、受容していったのです。「部落解放同盟のひとが何をかを語る・・・」、それに呼応して、「多くの学者・研究者・教育者・宗教者・ジャーナリスト等が何をかを語る・・・」場面も少なくなかったのです。

しかし、『部落学序説』の筆者である私の視野にある被差別部落は、そのような都市型の被差別部落や部落解放運動だけではないのです。

部落解放同盟の支部のない、その活動家すら一歩も足を踏み入れたことがない、部落解放同盟の支部数の10倍近い、山口県の被差別部落・・・、部落解放運動が展開されていようといまいと、近世幕藩体制下の長州藩とその支藩にあって、「穢多村」としてその歴史を担い、今も、その歴史を担い続けている・・・、いつの日か、部落差別という冬の時代が去り、その「穢多村」の歴史が顧みられ、正しく評価される時代がくることを願って、その伝承を語り続けている・・・、そういう被差別部落をも視野に入れたものです。

都市型の被差別部落の場合、ある意味、身を隠すことも決してむずかしくありません。「同和対策事業の食い逃げ」(同和事業・同和教育の恩恵にあずかるときだけ部落・部落民をなのりそれがすむとそれを隠す所作をすること)だって、大手を振って行われてきました。

しかし、農村型・山村型の被差別部落の場合、都市型の被差別部落のような恣意的な生きかたはほとんど不可能です。その地域にあっては、被差別部落の在所も住人も周辺の人々によって知られているという暗黙の前提がありますから、文字通り、その身をさらさずして同和対策・同和教育事業を享受することはほとんど不可能になります。

農村型・山村型の被差別部落の場合、中には、一切の事業に関与することなく、その歴史の重みにじっと堪えている場合もあります。

被差別部落の地名に関する「禁忌」は、通常、そのひとの思想・信条、生きかたやものの見方・考え方を問いません。「禁忌」があるところに「禁忌」があります。

『部落学序説』で、筆者が立証しようとしていることは、被差別部落にまつわる「禁忌」をありのまま受け入れ、それを批判・検証し、その「禁忌」を突破することによって、「禁忌」を含む部落差別を根底から解体していくことです。

次回、章をかえて、この部落差別にまつわる「禁忌」(タブー)について論じていきたいと思います。

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