2021/09/30

渋染・藍染について考察するときの前提

渋染・藍染について考察するときの前提・・・

近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」の史資料に見られる「無紋渋染・藍染」について、考察するとき、大切なのは、現代的な価値観をその史資料に持ち込まないことです。

衣服に関する現代的な知識・常識を、その史資料の中に読み込んでいきますと、その史資料が語りかけてくる歴史のほんとうの証言を聞き逃してしまいます。今日の、一般説・通説・俗説の確認で終わってしまいます。

これは、史資料をひもとくひとが、被差別部落出身であろうとなかろうとにかかわりなく、そのことに無自覚でいますと、一般説・通説・俗説に身をゆだねて、「無紋渋染・藍染」は、「人をはずかしめる色」・「差別的な色」と認識し、「無紋渋染・藍染」を強制された人々を、「差別された人」・「賤民」と断定する愚を犯してしまいます。

柳田民俗学の学徒のひとりに、今和次郎というひとがいます。

筆者がその名前を知ったのは、ちくま文庫の『考現学入門』を読んだときです。解説に、「柳田民俗学徒としての今の仕事は、大正十一年、『日本の民家』としてまとめられている。」とあります。東京美術学校図案科を卒業した今は建築学者として活躍するとともに、風俗研究家として、「服飾・風俗・生活・家政にまで」その研究範囲をひろげていたといわれます。

その今和次郎、1925年の銀座の街角にたたずんで、「男の風俗」の調査をして、「洋服の色」について、このような結果を導き出しています。1925年5月16日(土)午後5時55分~6時15分、今の眼の前を通り過ぎて行った「学生・労働者を除く」220人の「服装の色」を調査した結果です。

霜降 101
黒 55
紺 37
縞 16
茶 4
・・・

そして、今は、「霜降、黒、紺は最高級・・・」。

夏目漱石などは、この「最高級」の衣服を身にまとっていたひと・・・、ということになります。

今は、「労働者」の「服装の色」については、ほとんど何も記していませんが、「学生」の「服装の色」については、「女学生」のみを対象にしています。

エビ茶 7
紺 3
黒 1

ちょうど、「労働者」をのぞく男の「服装の色」とは、逆の傾向をしめしています。今は、「学校によって色にくせがあるのかもしれません・・・」とコメントしていますが、筆者は、近代の「男尊女卑」の世相を反映しているのではないかと推測します。

柳田民俗学徒・今和次郎の調査では、「服装の色」について、有意味な結果が出るのは、その当時の社会の上流階級・中流階級のみなのでしょう。労働者の、服の色は、種々雑多で、カラーコーディネートが雑然としていて、短時間で、銀座の街を歩く人々の服装を頭の上から足さきまで一瞬にして観察する鑑識眼をもっている今和次郎をしても、観察することを不可能ならしめたのでしょう。

水平社宣言が出された当時の日本の社会の「服装の色」・・・、その中で、「茶色」は、「黒色・紺色」と違って、上流階級・中流階級が身にまとう「服装の色」の中で、最も「最高級・・・」から遠い色であったと思われます。

その時代の「色彩感覚」で、近世幕藩体制下の「服装の色」を史資料で調査した人は、近世幕藩体制下の「武士」階級・「百姓」階級の「服飾の色」をどのように受け止めることになったのでしょうか・・・。

被差別部落の側の「衣服」への思いをつづった文章の中に、中山英一著『被差別部落の暮らしから』(朝日選書)の第2章村の生活・衣類の「服装と印象」・「古着屋さん」・「衣服と言葉」・「裸の生活」という文章があります。

中山英一氏は、次のように記しています。

「「衣・食・住」。昔から人間の生活の中で「着る」ということは、欠くことができない重要なものでした。文化水準が高まれば高まるほど、衣生活は重要視されてきました」。

中山英一氏は、被差別部落出身の自分の生活を振り返りながら、「衣生活」と「文化水準」は密接な相関関係があると指摘しているのです。「文化水準」が高まれば「衣生活」も豊かになる・・・、「文化水準」が低下すれば「衣生活」も低下する・・・。「文化水準」が高まっているのに「衣生活」が抑制されれば民衆の不満が高まり、「文化水準」が低下しているのに「衣生活」を豊かにしようとすると、民衆の生活は奢嗜になる、その生活は破綻する・・・。

中山英一氏はいいます、「「衣」は、まさに「文化」なのです。」・・・。

そして、中山英一氏は、意外にも、このように続けるのです。

「見ず知らずの人と会ったときに、その人がどういう人かわかる方法が二つあります。一つは服装です。その人の服装がきちんとしていれば、その人の気持ち、仕事や生活もきちんとしているように思いませんか。服装が乱れていると、その人の生活が乱れていると思いませんか。だから、私たちはみだしなみに気を使うのです。派手な人か地味な人か、着る物に性格が表現されます」。

「昔は、部落の人と部落外の人と服装を見れば分りました。絹を着てはいけないとか、裾をはしょれとか、ぞうりではなくわらじをはけとか、差別的な規制によって部落の人たちの着物は一部の人をのぞいては、概して粗末でした・・・」。

中山英一氏の被差別部落の人々の「衣生活」についての言葉は、昔と今が、近世と近現代が、布が縦糸と横糸で織り合わせられるように、微妙に入り組んでいます。

「冬の訪れ」の項では、被差別部落の人々が、「着るものに関心を持つのは一年のうちで秋口だそうです。夏は薄着でよいのですから、そんなに関心がないのです。秋になると、風が吹くと寒さが身にしみてきます。そのときに初めて着物に関心を持つというのです。・・・秋にはいろんな虫が鳴きます。その虫の鳴き声がどういうように聞こえたかというと、「肩とって裾つげ、裾とって肩つげ」・・・」とあります。

被差別部落の人々の耳に聞こえる秋の虫の鳴き声は、「カタトッテスソツゲ、スソトッテカタツゲ・・・・」。

中山英一氏の文章は、被差別部落の古老が、衣服を大切にして、古着を再生して、環境と資源にやさしい生き方を先祖代々つつけてきたことを評価する文章で終わっていますが、中山英一氏の言葉では、被差別部落の「一部の人」をのぞいて、「衣生活」は常に制限され続け、「自分に一番ふさわしい」生き方、「衣生活」を通して、「自分なりの価値を見出す」、「自信を持って」生きていくことを阻害されてきたといいます。

しかし、「経済的に貧しかった部落の人たちは、経済的有効性、合理的な衣生活を創造」してきたといいます。中山英一氏は、これまでの「部落の人たちが教訓として残してくれたことを、自分の生活に生かすこと」をすすめられます。

「部落の人たちがやっていたことは、みんな遅れていた、悪いことだった、恥ずかしいことだったと思う人がいたなら、とんでもありません。既成の価値観を変えれば、物の考え方が変わるのです。価値観を持たないと、自分に誇りを持てないのです。誇りを持てないと、逃げたり隠れたりしてしまうのです」。

中山英一氏の被差別部落の人々の「衣生活」についての言葉は、昔と今が、近世と近現代が、布が縦糸と横糸で織り合わせられるように、微妙に入り組んでいますが、昔と今、近世と近現代を切り離して、近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」の史資料に出てくる「無紋渋染・藍染」の意味を批判検証してみたいと思います。

無学歴・無資格の筆者に、学的限界が付きまとうのは否定することはできませんが・・・

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