2021/09/30

<高佐郷の歌>の伏せ字について

<高佐郷の歌>の伏せ字について

山口県文書館の研究員・北川健先生によって、<高佐郷の歌>が紹介されたのは、1980年(昭和55)の雜誌『草論』(第3号)<山口県の部落解放の文芸と歴史>という論文でした。

残念ながら、筆者の手元には、その<山口県の部落解放の文芸と歴史>という論文はありませんので、その論文の中で、<高佐郷の歌>がどのような形で紹介されているのか、確認することができません。

しかし、同じく1980年の2月22日の<山口県の文芸の中の部落の歴史>という北川健先生の論文の中には、<高佐郷の歌>が紹介されています。筆者、そのふたつの論文で紹介されている<高佐郷の歌>は、時期的に見てほとんど同じ内容であるという推測のもとに、<山口県の文芸の中の部落の歴史>に紹介されている<高佐郷の歌>を引用させていただくことにします。

□□□□□□ハ垣ノ内
□□□は穢す皮張場
長吏の役ハ□□□郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
□□□郷中貫取
               (『□□□廻地名記』)

部落史に関する史資料を引用するときに、しばしば見ることになるこの<□>という記号・・・、<伏字>を示す記号です。この<伏字>を一般的に公開することで、この<高佐郷の歌>という文章が、被差別部落に対する差別助長につながることをおそれて、部落史の学者・研究者・教育者があえて<伏字>にして非公開とする・・・、という部落史の学者・研究者・教育者の配慮のあらわれです。

こういう<伏字>の入った、部落史に関する史料集・論文集は決してめずらしいものではありません。

たとえば、旧幕藩体制下の長州藩には、<穢多寺>と称される寺は4ケ寺存在しています。この寺について、山口県の部落史の学者・研究者・教育者が言及するときは、A・B・C・・・や、<>という記号を使って<伏字>で表現されるのが一般的でした。

たとえば、上記<高佐郷の歌>に出てくる<□□□郷>に存在していた<穢多寺・□□寺>(筆者は、相対表記で、<長門国北穢多寺>とよぶ・・・)は、次のように紹介されます。

真宗□□寺 □□寺 □□□村ニあり
右當寺ハ・・・御國中三拾ケ處の□□宗門寺にて御座候事

これでは少しく難解になりすぎますので、次のように表現されることもありますが、そのときは、<穢多>ということばが、一般的に使用されると差別語になるが、部落史研究の学者・研究者・教育者が使用するときは<差別語>としてではなく<歴史用語>として使用していると注を施す必要が出てきます。

真宗穢多寺 □□寺 □□□村ニあり
右當寺ハ・・・御國中三拾ケ處の穢多宗門寺にて御座候事

上記、<高佐郷の歌><□>という記号をつかった<伏字>も同じ意味合いをもっています。

山口県文書館の研究員の北川健先生は、<高佐郷の歌>を論じるとき、<□>という記号で<伏字>にしたところは特に注意が必要である・・・、と注意を喚起しているといえます。できれば、<伏字>のまま、そっとしておくべきことがらであると・・・。

しかし、北川健先生、《『防長風土注進案』と部落の歴史》という論文においては、

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取

と、<□>という記号を使った<伏字>を解除して、<高佐郷の歌>に関心を持つ人々にその全文を公開しています。<伏字>を解除して公開に踏み切った背景には、山口県文書館の研究員・北川健先生の、部落史の学者・研究者・教育者としてのこころの葛藤と、文書館の研究員間で葛藤が存在していたのではないかと推察されます。北川健先生の論文には、後続の学者・研究者・教育者が、史実に遭遇できるように、いたずらに<伏字>にしないで、原文のまま記載しようとする傾向がみられます。

最初の<高佐郷の歌>の<伏字>は、たとえ<伏字>をつけても、この<高佐郷の歌>を公開しようとした、山口県文書館の研究員・北川健先生の、歴史研究者としての戦いの足跡なのでしょう。

<伏字>になったところを、もういちど確認してみましょう。

□□□□□□ハ垣ノ内・・・スクナキオカ→少岡
□□□は穢す皮張場・・・オカベ→岡部
長吏の役ハ□□□郷・・・タカサ→高佐
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
□□□郷中貫取
・・・タカサ→高佐
               (『□□□廻地名記』)・・・高佐郷

当時、山口県文書館、あるいは、その研究員の北川健先生は、この<□>の部分をなぜ<伏字>にしなければならないと考えたのでしょうか・・・? <少岡>・<岡部>・<高佐>ということばが<伏字>にされなければならない、どんな理由があったというのでしょうか・・・?。

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