徳山藩の「帯襟」に関する統制
徳山藩の『衣類定』を図式化していて、難行したのは、『衣類定』全14箇条のうち最初の13箇条は武士身分の衣類統制、最後の14条だけが百姓・町人の衣類統制が記されていて、それらの条項を精読していきますと、一般説・通説・俗説と抵触する部分が出てくるからです。
「士農工商穢多非人」という、近代・現代における歴史教育の中で採用されてきた身分制度の枠組みに従うと、「士」・「農工商」・「穢多非人」において、各身分間に衣類統制をめぐって<差別<が存在することになるのですが、衣類統制の場合、「士」・「農工商」間の<差別>を認識することが容易ではありません。
いろいろ図式化を試行錯誤した結果、下記のような、徳山藩の『衣類定』の内容を、「徳山藩士卒階級表」に従って33階級に分類、階級ごとの衣類統制を一覧表にした上で、その衣類統制に対応した百姓・町人の階級を右端に列挙しました。
まず、歴史学の一般説・通説・俗説に反する内容としては、百姓・町人身分が身にまとうことが許されている衣類は、武士身分のすべての階級に及ぶ・・・、ということです。徳山藩は、藩の行政・財政に貢献した百姓・町人身分を、武士階級に準格として待遇していますので、全体としてみれば、百姓・町人の衣類は、絹・紬・麻・木綿と実に多様なものが存在することになります。
徳山藩から、「名字」・「家名」を容認された百姓・町人の衣類は、武士身分の「持弓・蔵本付・細工人・船手・小膳部」身分と同格です。彼らには、武士身分の「足軽・中間以下」の「妻女」が身にまとうことが許されなかった、「有合の絹紬の類着用」が許可されています。
「有合の絹紬の類着用」・・・、というのは、倹約令が出される前に既に所有していた絹・紬については着用を許可するという意味で、百姓・町人身分の相当数が、日ごろから、絹・紬の着物を所持していたことが前提されています。
元禄期にしてこのありさまです。幕末期になりますと、「名字家名持候百姓」は、増加の一途をたどっていますので、武士身分の「足軽・中間以下」の身分より、いい着物を身にまとった「百姓・町人」は決してめずらしくはありませんでした。
このことは、近世幕藩体制下の身分制度の崩壊・・・、というようなものではなく、近世幕藩体制下の身分制度の<本質>を物語るものです。日本の近代以降の歴史学・・・、近世幕藩体制下の身分制度を根底から誤解してきたのではないでしょうか(筆者は、本当は、明治以降の中央集権国家・天皇制国家における国民教育のために作り上げられた近代的歴史解釈・・・、歴史の捏造であると考えています)。
| 区分 | 身分 | 武士 | 百姓 | 区分 | 
| 家老 | 新調・有合の絹紬の羽織着用可 | 準格の百姓町人 | ||
| 用人 | ||||
| 一般士分 | 馬廻 | 有合の絹紬の羽織の着用可 | 準格の百姓町人 | |
| 馬廻 | ||||
| 中小姓 | ||||
| 茶道 | 新調・有合の絹紬の 帯襟裏の着用可  | 準格の百姓町人 | ||
| 祐筆 | ||||
| 膳部 | ||||
| 別当 | ||||
| 徒士 | 有合の絹紬の 帯襟裏着用可 (妻女)上に同じ  | 準格の百姓町人 | ||
| 陣僧 | 有合の絹紬の 帯襟裏着用停止 (妻女)有合の絹紬の類着用可  | 有合の絹紬の 帯襟裏着用停止 (妻女)有合の絹紬の類着用可  | 名字家名持候百姓 | |
| 持弓 | ||||
| 蔵本付 | ||||
| 細工人 | ||||
| 船手 | ||||
| 小膳部 | ||||
| 中間足軽以下 | 検断 | 絹之類一切禁止 新調・有合の木綿着用可  | 絹之類一切禁止 新調・有合の木綿着用可  | 百姓 | 
| 足軽 | ||||
| 足軽組外 | ||||
| 中間 | ||||
| 中間組外 | ||||
| 猟方 | ||||
| 時方 | ||||
| 舸子 | ||||
| 厩之者 | ||||
| 煮方之者 | ||||
| 飯炊之者 | ||||
| 諸細工人 | ||||
| 小人 | ||||
| 挟箱之者 | ||||
| 傘之者 | ||||
| 駕籠之者 | ||||
| 道具之者 | ||||
| 荒仕子 | 
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