2021/09/30

「倹約御触書」に対する先入観から自由になる

「倹約御触書」に対する先入観から自由になる

「渋染一揆」の原因となった「岡山藩」「倹約御触書」・・・

そもそも「倹約」とは何なのでしょうか・・・? 「倹約令」とは何なのでしょうか・・・?

『広辞苑』(第3版)をひもときますと、「倹約」とは、「費用を切り詰めて浪費しないこと」だそうで、「倹約令」というのは、「江戸時代、幕府や大名が財政窮乏の解決のため諸事節約を命じた法令」だそうです。

平凡社『世界大百科事典』をひもときますと、江戸時代の「倹約令」について、次のような説明があります。

「江戸幕府が発した質素倹約に関する法令。

ぜいたく禁止令は古来<過差の禁>とよばれたが、江戸時代には倹約令というようになった。

江戸幕府が士民に質素倹約を命じたのは、ほとんど常時のことであって、歴代将軍の武家諸法度にもその条文があり、農民に対しても1649年の<慶安御触書き>などにこまごまとした規定があり、町人に対しても17世紀後半以降、ひんぱんに発布されている。

また1787年(天明7)寛政改革開始のさい、3年を限って厳重な倹約を命じてのちは、その期限がくるとさらに3年から5年延長され、ほとんど切れ目なく幕末に至る。

しかし、概していえば江戸時代前半期はこの令によって身分秩序の維持、生活の健全化をはかろうとしたものであったが、後半期になると、財政支出節減を主要な目的とするようになった。

その中でも享保・寛政・天保の三大改革期には、風俗取締令をともなって、最も徹底的に励行された」。

どうやら、『広辞苑』の「倹約令」の説明は、「江戸時代前半期」の倹約令の説明ではなく、「江戸時代後半期」の倹約令の説明のようです。

「江戸時代後半期」の「倹約令」は、近世幕藩体制下の封建的「身分秩序の維持」と各身分の「生活の健全化」が目的ではなく、藩財政の困窮・破綻に直面した藩が、藩財政を再建するために、藩民(百姓・町人)に税率のアップと「痛みをともなう構造改革」を押しつけ、3年計画・5年計画、あるいは10年計画の長期再建計画として打ち出された、政策上の骨太の基本方針のようです。

「江戸時代後半期」の「倹約令」がもたらしたものは、増税による藩民の収入収奪と、みかけ上の藩財政改革のための「財政支出節減」策と、しかし、その裏では、藩財政の増収に直結する、商工業の振興策・・・、いつのまにやら、藩権力と独占資本との結合によって、軍事再優先の戦時体制が構築されていった・・・。

近世幕藩体制下の「岡山藩」「倹約御触書」の前文を読んでいますと、その「倹約令」の本質が上記のように見えてまいります。

「破産寸前の岡山藩」(柴田一著『渋染一揆論』)は、年間予算銀「約7000貫目」の3年分の累積赤字を抱えながら、岡山藩「領内への「黒船」侵入に備えて、これまでの弓槍刀剣・種子島銃といった旧式軍制を洋式大砲・小銃を主力とする新式軍制にすみやかに改組し、砲台を築き、農兵隊を組織しなければならないといった大変な仕事が課せられていた・・・」そうです。

「岡山藩」は、藩財政の再建とともに、藩財政を、平時から戦時へとシフトさせていくために、「安政の改革」を実施します。「渋染一揆」の原因となった、「倹約御触書」は、その「安政の改革」の初期に実施されたものです。

「岡山藩」は、藩財政に再建と軍事優先の政策を実施するため、「岡山藩」が、池田光政公以来、営々として積み重ねてきた伝統を破棄し、「藩財政の危機の克服のためには家柄や血筋などは問題ではない」として、「財政の手腕ある者であれば遠慮なく要職に登用」していったのです。

「岡山藩」は、従来の藩政の基本理念である「重農抑商主義」を破棄し、「19世紀の初頭から、商品生産・商品流通の飛躍的発展のなかで急速に台頭してきた豪商・富農たちを積極的に捉え、時流に即応した方法で藩財政の建て直しをはかる」ようになります。

「岡山藩」の官僚・行政は、「豪商・富農」に通じ、「賄賂」をとり、「豪商・富農」の資本の蓄積・集中を許し、「御家中は素より、町方末々に至る迄を苦しめる、許しがたい・・・」格差社会を構築していきます。「岡山藩」は、その過程のなかで、「豪商・富農」に、中間層の商・農を収奪させていくのです。

「岡山藩」の「渋染一揆」発生の原因となった「倹約御触書」は、岩波『広辞苑』や平凡社『世界百科大事典』がいうところの、「江戸時代後半期」の「倹約令」で、藩財政の困窮・破綻に直面した藩が、藩財政を再建するために、藩民(百姓・町人)に税率のアップと「痛みをともなう構造改革」を押しつけた、10年計画の長期再建計画として打ち出された、政策上の骨太の基本方針だったのです。

「岡山藩」の「穢多」が直面した「倹約令」は、「江戸時代後半期」の「倹約令」であって、決して、近世幕藩体制下の封建的「身分秩序の維持」と各身分の「生活の健全化」を目的とした、「江戸時代前半期」の「倹約令」ではありませんでした。

従来の「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者は、「渋染一揆」発生の原因となった「倹約御触書」を、どのように受け止めてきたのでしょうか・・・?

「岡山藩」の「倹約令」の本質から目をそらすために、「百姓」と「穢多」の身分的差別性にのみ関心を向けてきたのではないでしょうか・・・?

従来の「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者は、「岡山藩」の「穢多」が、藩財政の困窮・破綻に直面した藩が、藩財政を再建するために、藩民(百姓・町人)に税率のアップと「痛みをともなう構造改革」を押しつけた、10年計画の長期再建計画として打ち出された、政策上の骨太の基本方針にどのようにかかわらされたのかを論ずることなく、ひたすら、「幕藩体制下の差別政策で、いかに・・・不当に苦しめられてきたか・・・」「岡山藩」「穢多」を、「幕藩体制の民衆支配の単なる犠牲者」として描いてきました。

そのような、「歴史観から脱する授業を構想」する高校教師たちも、「別段御触れを・・・生徒に読ませ、江戸時代の差別政策がどれほど過酷なものであったか」を実感させてきた・・・、といいます。

高校生に、「「別段御触れ」撤回の嘆願書」を読ませたあと、高校教師は、高校生にこのように語りかけます。

「この嘆願書をみると、倹約令に困り果てた被差別部落の様子が目に浮かんでくるようです。

そこで、この嘆願書から被差別部落が倹約令のどのような点にショックを受けたのか、見つけ出して線を引いてください。そして、なぜその点にショックを受けたのか理由を考えてください」。

高校教師は、生徒からの答えを想定します。「人格的に傷つけられるショックと、経済的負担が増えるショック」・・・、そして、高校教師は、生徒にこのようにたたみかけます。

「二つのショックのうち、どちらがより被差別部落の人々には苦痛を感じさせるものだったと思うか・・・?」

2時間の「渋染一揆」の授業のうち、最初の「1時間目の授業は、「倹約令」「嘆願書」の読み取りを中心に進め」、「被差別部落の人々の悲惨な生活を具体的に感じさせる」ことを教育目標として実践される・・・。

そして2時間目に授業では、「被差別民という最下層民が、支配者に正面から正々堂々と挑んで、自分たちに要求を実現したという点で、渋染一揆には歴史の進歩に貢献する民衆の力強さがあふれている・・・」ことを確認するといいますが、2時間目の<反差別>的授業は、1時間目の<差別>的授業の強烈さを払拭・克服することはできない・・・。

「渋染一揆」の原因となったといわれる「倹約御触書」・・・、「岡山藩」の「倹約令」は、近世幕藩体制下の封建的「身分秩序の維持」と各身分の「生活の健全化」を目的とした、「江戸時代前半期」の「倹約令」のままであった・・・、「岡山藩」の「倹約令」は、時代遅れの陳腐化した「倹約令」でしかなかった・・・、という、時代と状況、歴史無視の、暗黙の前提と、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」が織りなした差別授業・差別教育にほかなりません。

その、「渋染一揆」の授業実践例、千葉県高等学校教育研究会歴史部会編『新しい日本史の授業 地域・民衆からみた歴史像』(山川出版社)、134頁以下に、若杉温著「14 差別と戦う-被差別部落と渋染一揆-」に出てきます。

中学校における「渋染一揆」に関する授業は、さらに、悲惨な差別授業・差別教育に転落します。「質素倹約というより貧困生活を強調させることで「身分相違」を明確化させている・・・」と指導される場合もあるようです。「倹約令」を「貧困強制令」と解釈する新説・・・、「渋染一揆」派生の原因となったといわれる、「岡山藩」の「倹約御触書」・・・、それをそもそも読み間違っている・・・、としてしか、筆者には考えられないのですが・・・。

次回、その「倹約御触書」の全体像を検証してみましょう。

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