2021/09/30

与力と同心が身にまとった衣類

与力と同心が身にまとった衣類


「明治生まれの筆者には、もう残された時間は少ない・・・」。

「序にかえて」にそう記した、明治45年生まれ、「美濃大垣戸田家家臣」をなのる、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」(与力・同心・目明し・穢多・非人、村方役人)が用いた捕亡具の研究家・名和弓雄氏が書いた、『江戸町奉行所の装備と逮捕術 十手・捕縛事典』・・・。

その中に、各種捕亡具の写真と説明、与力と同心の「捕者出役の服装」の写真が掲載されています。今に伝えられた与力・同心の衣類を現代の人が身にまとって撮った写真でしょうか・・・。

その他に、4枚の浮世絵が掲載されています。「江戸末期・町方同心、捕者出役服装」・「江戸末期・町方小者、捕者出役時の服装」・「江戸末期の梯子捕りの図」・「江戸末期・逮捕術の伝承参考図」。

その一枚、「江戸末期の梯子捕りの図」の一部は、早稲田大学等の<浮世絵閲覧システム>で閲覧できます。「稲葉幸蔵」で検索すれば・・・。

名和弓雄氏が70年の歳月を費やして収集された、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民が使用した各種捕亡具は、約1万点にのぼるそうですが、それらは、現在、明治大学博物館の刑事部門に展示されているそうです。

名和弓雄著『十手・捕縛事典』の中の、「捕方の服装」の中から、「町方与力の服装」「町方同心の服装」を紹介することにしましょう。

ただし、この『十手・捕縛事典』・・・、参考文献は明記されていません。

『十手・捕縛事典』に書かれていることを、筆者が、史資料で確認することは難しいので、筆者が『十手・捕縛事典』から引用するときには、「伝承では・・・」とか、「伝承によると・・・」とか、そういう表現で紹介してきました。

今回、『十手・捕縛事典』に記されている与力・同心が身にまとっていた衣類をとりあげるに際して、やはり、「伝承では・・・」、あるいは、「伝承によると・・・」という表現を使用することにしましょう。

「与力」と「同心」は、近世幕藩体制下の司法・警察の中心的存在ですが、「与力」と「同心」の間には、明確な身分上の<差別>があります。なぜなら、「同心から与力への昇進は特別の例外を除いて不可能であった」からです。

「同心」は、どんなにあがいても「与力」にはなることができなかったそうです。

「与力」は、「町奉行の補助として直接警察事務の執行に携わる警察職」でした。寛永八年(1631)に「町奉行の南北複数制が確立」されますが、そのとき、「両奉行所に25人ずつ」「御家人」から「与力」が選抜されたそうです。

職務内容は、犯人の探索・捕亡・裁判のすべてに、指揮者としてかかわっていました。現代的な表現を使えば、警察官・検察官・裁判官の権能を併せ持ったような存在であるといわれます。その階級は、「支配・支配並・本勤・本勤並・見習・無足見習の6等級」に分かれ、「禄高は年給二〇〇石」と、ほかに「手当てとして金二〇両が支給された」といわれます。

「与力は、平素は継裃にまちの低い平袴を着用し、大小を差して出勤していたが、文久以後(1861~)は羽織袴になった。捕物など非常の場合の出役には火事羽織・野袴に陣笠をかぶり、侍一人、槍持中間一人、草履取り一人を供に従え、奉行から出陣の祝杯を受けて出勤した・・・」そうです。

一方、「同心」は、「与力」の指揮下、「直接警察実務の執行に携わった」そうです。「力を共にし、心を同じうする」という意味で「同心」と名づけられたそうですが、南北奉行所240人によって構成されていました。職務は、「与力」と同じですが、「与力」と違って、「同心」は、毎日「市中を巡邏し、犯罪の捜査、犯人の逮捕などに当たった」そうです。

「与力」が、キャリアの警察官なら、「同心」は、現場の警察官、というところでしょうか・・・。

階級は、「年寄・増年寄・年寄並・物書・物書並・添物書・添物書並・本勤・本勤並・見習い・無足見習の11等級」で、「禄高は、最高三五俵二人扶持」でした。二刀差しの「与力」と違って、「同心」は一刀差しでした。

「同心」が身にまとっていた衣類は、「平常時も出役時も羽織袴を着用し、捕物出役など非常の場合は着物の下に鎖帷子を着込み、上に半纏を着て、鉢巻に白木綿のたすきをかけ、小手すね当て、刃引きの脇差一本を差した・・・」といいます。

与力・同心に関する史資料においては、大体、上述のように記されています。

しかし、『十手・捕縛事典』の著者・名和弓雄氏は、どのように、与力・同心の職務と、身にまとった衣類について言及しているのか、検証してみましょう。

「与力」が身に着けていた衣類は、次のようなものです。

「平時の服装は・・・、継裃(のぎかみしも)、つまり肩衣と袴が同じ布地ではなく、肩衣は無地に紋付、色は黒色又は茶色が多い。袴は平袴をはく。裏白の紺足袋。・・・幕末になると、裃を略、黒羽織と平袴姿に改められた」。

「同心」が身に着けていた、「平時の服装は・・・、羽織は三つ紋の黒羽織(色物の羽織は用いないし、五つ紋礼服用羽織は、平素は用いない)、羽織の裾を裏に折りあげて、茶羽織ほど短さにして、下から角帯にして、裾を挟み止める。・・・同心の着物の仕立ては、身幅が狭く仕立ててあり、走る時や、捕者の際に裾さばきが自在であるように縫ってあった。下は紺足袋に雪駄ばき。細身の大小刀・・・」。

史資料に出てくる与力・同心の衣類と、名和弓雄氏が伝える伝承と、いくつかの点で異なるところがありますが、名和弓雄氏は、歴史学者が文献上でのみ、与力・同心の衣類いついて言及するのと違って、与力・同心が身にまとっていた衣類、捕亡具など、民俗学的素材を検証した上で、独自の見解を伝えているのでしょう。「時代考証家」としての本分が発揮されているのでしょう。

名和弓雄氏が伝える、与力・同心の衣類に関する伝承の中に、「茶色」の色が出てきます。

<与力・同心>の身分関係は、<貴・賎>の関係にありますが、その服装を見る限り、<貴>である与力は、黒色と茶色の「肩衣」を着ることが許され、<賎>である同心は、黒色の羽織のみで、色物の羽織を着ることは禁止されています。

つまり、<与力・同心>の身分関係においては、茶色の衣類は、<貴>である与力には許されているが、<賎>である同心には認められていないのです。(名和弓雄氏が伝える伝承によれば、与力も幕末になると、羽織を着用するようになり、その色は黒色だけになりますが・・・)。

近世幕藩体制下の司法・警察である非常民(与力・同心・目明し・穢多非人)の衣類については、「与力」の衣類が「茶色」であるにもかかわらず、その配下の「穢多非人」の衣類が「茶色」であることをとらえて、「差別の色」、「穢多・非人をはずかしめる色」・・・とするのは、論理的ではありません。

「茶色」を、「差別の色」、「穢多・非人をはずかしめる色」・・・とするのは、岡山藩の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の、「賎民史観」に依拠した、「はじめに、穢多は賎民なりき・・・」という、彼らの独断と偏見、部落史研究者固有の差別性に由来すると思われます。

『部落学序説』の筆者が、このような指摘をしますと、岡山藩の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者は、筆者の「重箱の隅をつつくような」「独断と偏見」と揶揄してきますが、果たしてそうでしょうか・・・?

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