2021/09/30

島崎藤村と『破戒』 .『部落学序説』と文学

島崎藤村と『破戒』 .『部落学序説』と文学

5月14日から書きはじめて7月31日までの間に、『部落学序説』・『部落学序説(削除文書)』にアクセスしてくださった方々は、両方あわせて、アクセス件数は5400にのぼります。筆者には、この『部落学序説』の読者がどのような方々であるのかはわかりませんが、筆者の思惑を越えてたくさんの人々が読んでくださっていることは否定しようがありません。

ときどきは、「読者サービス」をしてもいいのではないかと思いまして、第3章を中断して、島崎藤村の『破戒』について数回論じることにしました。

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(第1回)『部落学序説』と文学

この『部落学序説』において、「部落学」は、「<穢多は非常民である>という命題を、歴史学、社会学・地理学、宗教学、民俗学の個別科学研究を総合して実施される学際的研究」であると定義しました。

その際、「文学」は、個別科学研究の中には加えませんでした。
そして、これからも加える意図は持っていないのですが、「部落学」をできるかぎり実証的研究として徹底させたいために、作者の創作部分を含む「文学」(特に小説)を、「部落学」研究上の素材にすることにはためらいがありました。

それと、もうひとつは、「文学」を楽しむだけなら、自由に感想を書くことができますが、「文学」を「部落学」上で批判の対象にする場合には、できるかぎり、主観を排除して、客観的に論じる必要があります。

例えば、「文学研究法」のようなものが必要ですし、少なくとも、「文学研究法」の基礎的な知識や技術を踏まえる必要があります。しかし、残念ながら、私には、文学的素養はまったくありません。

それでも、何とか、文学研究法をマスターできないかと思って、読んだのが、L.T.ディキンソン著『文学研究法』です。文学研究法に関する書物は、あとにもさきにも『文学研究法』だけですから、文学研究法に関する知識と技術は、この『文学研究法』に拘束されていると思われます。

ディキンソンは、「文学研究の方向」の中で、「文学作品はその時代と場所の産物である。すぐれた作品はこの二つの制約をとびこえて「普遍的な」性質をもつけれども、それは又その時代の産物であって、その時代とわれわれの時代とはすっかり異なったものであるかも知れない。」といいます。

彼は、文学を鑑賞するためには、その背景、「政治的な発展、社会情勢、宗教思想、宗教的慣習、哲学的概念・・・を知らなければならない」といいます。

また、「文学作品の分析は簡単な仕事ではないが、分析に含まれる諸要素は・・・経済学、哲学などの複雑さを扱う能力をもった学生なら、扱えないことはない」といいます。

彼の文章を見ても、「文学」を批評することは、それほど簡単なことではありません。「学歴なし・資格なし」を標榜する筆者のよしとするものではありません。それを知りつつ、あえて愚をおかすと、多くの人々の嘲笑の対象になること、必定です。

特に、日本の純文学の場合、佐藤春夫の死を持って終わる日本の文豪についての研究は、調べられるところはすべて調べ尽くされていると言われます。どの小説家にも、数多くの研究者によって構築されてきた「通説」というものがあります。その「通説」をくつがえす新説を打ち立てるには、新たな史料の発見というものが必要ですが、その可能性すら、ほとんどなくなっていると言われます。

島崎藤村の『破戒』についても同じことが言えます。

「通説」のひとつに、『破戒』のモデルになったのは、「大江磯吉」であるという説があります。

若宮啓文著『ルポ現代の被差別部落』(朝日文庫)によると、「大江磯吉」は、明治元年、下伊那郡伊賀良村の被差別部落に生まれたといいます。飯田市の郷土史家・水野都沚生の研究論文の内容をこのように紹介しています。

「磯吉は苦学の末、明治19年、長野県尋常師範学校を優秀な成績で卒業、諏訪郡平野村小学校に赴任したが、教職員から「席をつらねるにたえない」と排斥され、わずか5日で長野師範付小学校に引き取られた。さらに東京高等師範を卒業して母校長野師範で教育学を教えたが、教え子の一人は当時を振り返って、「頭脳明晰で教授ぶりはあざやかだった。生徒中でも少数のあこがれ者はあったが、大部分その身分を口にして、きらっていた。当時、権堂町に下宿していたが、身分が分かるにつれて他の下宿人が逃げ出すので、下宿屋でも困った」と述べている。その後、県の教員検定試験委員となったが、出張先の宿屋で「賤民」だと騒がれ、追い払われたことがある。宿では畳替えをするさわぎだった。そんな空気から、磯吉は明治26年、信州を去り、大阪府尋常師範学校へ転任したが、ここでも生徒に身分を調べられて排斥され、28年に鳥取県尋常師範学校へ移った。このとき彼は就任のあいさつとして、生徒の前で堂々と出身を明かした。これがかえって磯吉の人格を認めさせることになり、34年には兵庫県立柏原中学校の校長となった。翌年35歳の若さで病死した・・・」。

若宮は「藤村は磯吉の話を聞いて大いに感動し『破戒』を書いた、というのが現在の定説になっている」といいます。

しかし、筆者は、島崎藤村とその小説『破戒』に関する史料や論文を読んでいて、本当に、『破戒』の主人公は「大江磯吉」なのか、戸惑ってしまいます。

藤村は、『破戒』から17年後、読売新聞上で《眼醒めたものの悲しみ》という短文を公表します。

その中で、藤村はこのようにいいます。「『破戒』の主人公は申すまでもなく、一人の若い部落民を書こうとしたものですが、小諸に7年も暮らしている間に、あの山国で聞いた一人の部落民出の教育者の話、その人の悲惨な運命を伝え聞いたことが動機になって、それからああいう主人公を胸に描くようになっていったのでした。あの小説の中に書いた丑松という人物の直接のモデルというものはなかったのです」。

島崎藤村は、『破戒』の主人公は「大江磯吉」ではないと断言しているのです。『破戒』の作者が否定しているのに、『破戒』の読者や研究者が、「大江磯吉」は「丑松という人物の直接のモデル」だと断定するというのは、どういうことを意味しているのでしょうか。藤村は、「大江磯吉ではない」と言っているのに、今日の研究者や教育者、そして被差別部落の人々までもが、「大江磯吉こそモデルだ」と強弁するのは、なぜなのでしょうか。

藤村は、『破戒』を書くために、旧穢多村に聞き取り調査をしたといいます。

通称弥衛門という長吏頭の家を訪ねて、藤村の知らない多くのことを教わったようです。藤村は、「この弥衛門という人に逢ったということが、自分の『破戒』を書こうという気持ちを固めさせ、安心してああいうものを書かせる気持ちを私に与えたのでした。それほど私は深い、好い印象を受けたのです。私は作中の人物にその人を写そうとはしなかったが、しかし部落民生活に関したことで多少なりとも自分が『破戒』の中に書き入れたことは、その弥衛門というお頭から教えられたことが多いのです」といいます。

藤村は、『破戒』の主人公は、長吏頭の末裔としての「丑松」であって、春駒の末裔である「大江磯吉」ではないと力説しているのです。

部落史の研究者は、島崎藤村が『破戒』を執筆する際に、「聞き取りなど具体的踏査をした」ことを認識しつつ、藤村が、『破戒』を通して、近世幕藩体制下で司法・警察であった長吏たちが、明治政府の施策の中で、身分の「零落」を余儀なくされていったことについて書こうとしたことについては、何ら評価することなく、葬り去ってしまうのです。そして、部落史の研究者までもが、『破戒』の歴史的な背景を探求することなく、「差別的表現」批判に終始するのです。

「部落差別の苛酷さを、読んでいる者が耐えられぬほどの執拗さで表現した最初の文学である」(『部落解放史』中巻)と断定します。丑松の「土下座」と「テキサス行き」に焦点をあて、「突破口が見えないが故の作者の投了(丑松が差別に負けたことを強調して話を終えること)」であるといいます。

島崎藤村の『破戒』という小説は、文学評論家や部落史研究家がいうように、単なる差別文書でしかないのでしょうか。

個別科学研究の学際的研究である『部落学』の立場からすると、島崎藤村の『破戒』は、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に立った学者たちによって、藤村が予期もしていなかった「土俵」の上に引きずり出されて、執拗な拷問を繰り返えされ、藤村から、「賤民史観」に沿った「自白」を得ようとする、私的リンチのように見えます。藤村自身が、『破戒』のモデルは「大江磯吉」ではないと言っているのに、次から次へと圧迫の手を加えて、藤村から、『破戒』のモデルは「大江磯吉」であったという「自白」を強要するというのは、どう考えても正常ではありません。

島崎藤村は、『破戒』を書くにあたって、「大江磯吉」に聞き取り調査をしようとはしませんでした。藤村が調査したのは、弥衛門という長吏頭でした。

藤村は、『破戒』の中で、丑松についてこのように記します。

丑松は、「小諸の向町(穢多町)の生まれ・・・一族の「お頭」と言われる家柄であった。獄卒と捕吏とは、維新前まで、先祖代々の職務であって、父はその監督の報酬として、租税を免ぜられた上、別に俸米をあてがわれた」と。

丑松が長吏頭の末裔であるということをほとんどの学者や研究者は、無視するか、無視しないまでも評価することはありません。

『部落学序説』の立場からすると、丑松が長吏頭の末裔であったということは、大きな意味合いをもちます。

島崎藤村は、長吏頭の末裔には関心があるけれども、「特殊部落民」には関心がないといいます。前掲書において、藤村は、「水平社の運動というものについて詳しいことは知りません」といって、このようにその文章を終えます。「少なくとも他から働きかけられたものでなしに、もっと自発的に・・・」運動が展開されていくことを祈ると。

島崎藤村は、当時の旧穢多の末裔「80万人」が、水平社運動で言われる特殊部落民「300万人」に一挙増加するからくりに否を宣言したのでしょう。藤村は、「80万人」を視野に入れて『破戒』を書いたが、「300万人」を視野に入れて書いたのではないと行間で語っているように思われます。

島崎藤村とその著『破戒』に与えられた、不幸な誤解と錯誤を、『部落学序説』の立場から論述したいと思います。

私は、「部落学」の個別科学研究として「文学」を付加することは、学際的研究としての「部落学」構築にとって好ましいことではないと思っていますが、逆に、「部落学」は、島崎藤村とその文芸作品に対して、新たな解釈の視座を提供できるものと思っています。

「文学作品の起源(その作品が書かれたいきさつ)、資料(どんな材料を使ったか)、文芸の手法(創作の方法)・・・これらも興味のある問題である。しかし、どんなに興味があろうとも、作品そのものに関する問題のお株をうばうようなことがあってはならない」(ディキンソン)。

島崎藤村の『破戒』をめぐる批判は、戦前・戦後を通じて、一貫して、文学研究上の禁じ手である「問題のお株をうばう」営みではなかったのでしょうか。島崎藤村は、「賤民史観」という差別思想の持ち主である学者や研究者、教育者、そして、被差別部落の人々から、よってたかって集団リンチを受けた、穢多を穢多として語り伝えようとした歴史の真実の追求者ではなかったのか・・・、私はそのように思うのです。

小説に対する批評は、ディキンソンがいうように、「第一義的な関心は常に・・・文学作品そのものに向けられてなければならない」のです。

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