2021/09/30

野本民俗学から見た「地名」

野本民俗学から見た「地名」

最近、筆者のこころを惹きつけてやまない1冊の文庫本があります。

その本というのは、野本寛一著『神と自然の景観論』(講談社学術文庫)です。野本寛一によると、「民俗学の主要課題の一つ」に「人は環境といかにかかわってきたかという主題」があるといいます。民俗学は、この主題について、「ときに土臭く、またときには潮臭く」取り組んできたといいます。

野本寛一は、この「人」・「環境」という主題に、第3番目の要因・「信仰」を付加することで、「日本人が生成してきた多様な信仰と環境のかかわりについて」考察するといいます。野本寛一は、ひとに畏怖と豊穣をもたらす自然の地形を「聖性地形」と呼び、「そうした聖性地形要素を核とした風景は、日本人の魂のやすらぐ原風景であり、郷愁をさそう景観である。」といいます。

この書、購入してから、そのページを開かない日はないのですが、なかなか読書を前にすすめることができないのです。どのページも、筆者にとっては、魅惑に満ちています。特に、「地名」の解説については、驚きの毎日です。「野本民俗学」のすばらしさにこころ奪われてしまいます。

野本寛一著『神と自然の景観論』は、取り上げている主題の性格上、一種の「境界論」です。岬・浜・洞窟・淵・池・滝・峠・山の結界点・磐座・地獄と賽の河・川中島・離島・神の島・立神・先島・湾口島・温泉・山。それらは、ひとの暮らしの生活の座からみると、それを取り囲む周辺・境界に位置するものです。

例えば、村境に位置するものとして「峠」があります。

野本寛一は、柳田国男のことばを紹介し、「峠」の語源は「たわごえ」であったと推測しています。「たわ」というのは、「撓む」(たわむ)の語幹で、山の鞍部を示す語である。」といいます。

山口県(長州藩)の地名にも「峠」がありますが、その読み方は「たお」といいますが、「たわ」のなまったものでしょう。

ついでにもう少し、野本寛一の説を紹介すれば、「峠越えに際して、なるべく低いところを越そうとするのは自然の真意ではあるが、そのタワでさえ標高が高く、比高さの大きい峠は人びとに大きな苦難を与えた。」といいます。「昼なお暗い峠は旅人の恐怖感をさそい、風の収束点ともなる峠は気象の変化も激しかった・・・」といいます。

そして、周防・岩国の峠についてこのように記しています。

「「周防にある磐国山を越えむ日は手向けよくせよ荒らしその道」(『万葉集』567)と歌われ、峠越えにはさまざまな呪術や儀礼が行われたのであった」。

周防・岩国の峠については、山口の地に赴任してきて何度となく、あるときは、仕事で岩国の高校に通うとき度々車で通ってきた場所です。夜、車で走っていても、峠とそれをとりまく山の深さに、ある種の威圧感・恐怖感を感じてしまいます。徒歩や馬で旅をしなければならなかった時代は、峠は、まさに「辺境」・「境界」の地でしかなかったのでしょう。

野本寛一は、明治33年生まれの信州の古老の話をのせています。その古老は、嫁ぎ先から実家にかえるとき、県境の青崩峠を越えて、静岡から長野へはいるとき、「子を背負い、手をひいて峠に向かう」若き日を思い出しながら、その古老はこのように語ります。「風が違いますよ。峠に立つと信州の風が吹くのです」。

「青」は馬のこと。「崩れ」は、荷物を背中に急な坂を上る馬がその過酷さに倒れて動かなくなること。「青崩峠」とは、ひとも馬も注意しないといのちを落としかねない急な坂がある場所・・・、という意味ではないかと思いますが、「峠」は、「馬頭観音や峠神に手向けをし、峠の茶屋で一息入れ」なければ越すことが容易でない場所でした。

野本寛一は、「峠」は、その古老にとって、「日常と非日常の境界点であり、転折点であった。」と記しています。

「峠」については、野本寛一はそれ以上のことについては触れてはいませんが、『部落学序説』の筆者の目からみると、「峠」は、「日常と非日常の境界点」であるだけでなく、「常と非常の境界点」でもあったのです。

街道の治安維持のための役人であった、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」、信州において「長吏」と呼ばれている人びとは、「常と非常の境界点」である「峠」に身をおいてその職務を遂行していたと思われます。

野本寛一ほどの優秀な民俗学者をして、「峠」に関する既述を、「日常と非日常」の世界のみに押しとどめ、「常と非常」の世界に立ち入ることを禁忌状態に追いやったのは、とりもなおさず、戦後の部落解放運動の中にみられる、被差別部落に関する「地名」のタブー視に原因があったのではないかと思います。

そのことは、被差別部落の歴史の解明の障害となり、被差別部落のほんとうの歴史を、一般的市民・国民、学者・研究者・教育者から遠ざけることになり、その結果、被差別部落の歴史を、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に埋没させてきたのではないかと思います。

戦後の「部落解放運動」は、極めて中途半端なもので、「被差別部落」の「解放」をときながら、「目に見える」世界においては、同和対策事業・同和教育事業によって、当事者が、部落解放運動の成果として納得することができる水準に達したのかもしれませんが、「目に見えない」世界の、部落差別問題の完全解消という、部落解放運動のほんとうの目的からは、著しく逸脱させたのではないかと思います。

被差別部落の歴史と文化、信仰と職業に関する考察を、「賤民史観」という枠組の中に押しつけ、圧殺し、「頭隠して尻隠さず」のような中途半端な運動に終始してきたのではないかと思います。

野本寛一著『神と自然の景観論』の「解説」をしている赤坂憲雄は、「「神々の風景」は総じて変貌が著しい。それは衰微・荒廃してきているといって間違いない。その変貌と衰微は日本人の「神」の衰微であり、日本人の「心」の反映にほかならない。」と言い切っています。

日本人は、「地名」と、「地名」の背後にある「信仰と環境」のかかわりの意味を喪失してしまったのかもしれません。「被差別部落」のひとびとも、被差別部落の「地名」の「聖性」を忘れて、ただ、避けて通りたい、いまわしい差別的名称としてだけしか受け止めてこなかったのかも知れません。その原因は、とりもなおさず、「被差別部落」のひとびと、また、部落解放運動の担い手自身にあります。日本が変節するとき、被差別部落も、部落解放運動もまた、歩調をあわせて変質していった・・・、のです。

赤坂憲雄は、野本寛一は、「柳田国男や宮本常一と並び称されるべき旅の民俗学者であった・・・」といわれる時代がやってくると「かすかな予感」を感じ取っていますが、『部落学序説』の筆者からみると野本民俗学は、すでに柳田民俗学や宮本民俗学とならんでいるか、すでに両者の限界を乗りこえているように思われます。

それは、赤坂憲雄が指摘しているように、野本民俗学が、東日本(東北)を、柳田民俗学・宮本民俗学にみられるという「異郷」としてみるのではなく、同郷としてみることによって、「文化的な広さ」に満ちているからです。

野本寛一著『神と自然の景観論』は、平凡社『世界百科事典』の大藤時彦が指摘している【地形名】と【信仰に関した地名】の解明の書であるといっても過言ではありません。

部落解放同盟新南陽支部の方々は、野本寛一の中にも、「被差別部落」の地名に関して「禁忌」の状態にあるからとして、その差別的体質を批判することになるのでしょうか・・・。戦後の部落解放運動の失策・過誤に対する自らの責任を放棄して、良心的な学者・研究者・教育者にその責任を転化する無責任さのあらわれ・・・以外の何ものでもないのではないでしょうか。

まして、学歴も資格も持ち合わせていない『部落学序説』の筆者に、その責任を押しつけるのは、言語道断であるといわざるをえないでしょう

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